⑼蟷螂の斧

 空が燃えている。

 夕焼けのように、血の色のように。


 翔太がミナと合流したのは、午前三時頃だった。丑三つ時を過ぎた街は不気味にざわめいている。サイレンの音が鳴り響き、道路は渋滞。緊急車両が道を開けるようにと訴え掛ける。


 笹森邸から離れた公園の入口で、ミナとノワールはまるで寒さをしのぐかのように肩を寄せ合っていた。立花が車を停めると、ミナが後部座席のドアを開けてノワールを押し込んだ。


 ノワールはジャケットを肩に掛けていた。薄いストライプの入ったワイシャツに血が染みている。


 撃たれたのか、と平坦な声で立花が尋ねた。

 ノワールに代わり、ミナが答えた。

 透明人間がやって来た、と。




「右目の上に傷のある大男だった。笹森さんは知らないって言ってた」

「ヤクザの本拠地に忍び込んでたって言うのかよ」




 立花は眉間に皺を寄せた。

 にわかには信じ難いことだ。だが、ミナが無意味な嘘を吐くとは思えないし、実際にノワールは撃たれている。




「俺のことを知ってた」




 立花は車を走らせながら、静かに言った。




「SLCじゃねぇだろうな」

「分からない」




 ミナは即答した。表情は冴えないし、声は沈み切っている。彼が上辺とは比べ物にならない程に、怒っていることは分かった。ミナはパソコンを膝に置き、目を落としたまま訊ねた。




「そっちは何があったの」

「爆破されたんだよ」




 立花が苦々しく言った。

 そう、爆破されたのだ。立花が成金趣味の男にとどめを刺し、二人で倉庫を出た直後だった。凄まじい爆音と地響きがして、倉庫から火柱が上がったのだ。翔太も立花も爆風で吹き飛ばされ、振り向いた時には倉庫は炎に包まれ、死体も証拠も葬られていた。




「もう一箇所、爆破された場所がある」




 ミナが言った。




「物流センターの倉庫だ。……多分、武器を隠していた所」




 港の倉庫と笹森邸、延長線上にその物流センターが存在すると言う。笹森一家を疑わせる為の符号が不自然に集められ、証拠は炎の中である。




「失敗か……」




 あれだけ作戦を練って、これだけ手を尽くして、それでも、駄目なのか。絶望感に目の前が暗くなる。その中で、ミナが言った。




「まだ終わってない」




 携帯を貸して、とミナが手を伸ばす。立花はポケットから拾った携帯電話を手渡した。ミナはUSBケーブルでパソコンに繋ぐと、凄まじい勢いでキーボードを叩き始めた。


 立花は溜息を吐くと、道路の端に車を停めた。




「何をするんだ?」

「取引があったなら、連絡を取り合っていた筈だ。データの復旧くらい簡単だ」

「それが罠って可能性は?」

「だから、レンジに頼みがある」




 闇の中、濃褐色の瞳が昏く光る。

 ミナは携帯電話に番号を映し、立花に向けた。




「この番号に掛けて欲しい」

「……誰の番号だ?」

「最近、頻繁に連絡を取り合ってる。青龍会かSLCだと思う」

「中国語は喋れねぇんだけどな……」




 そう言いつつ、立花は電話を掛けてくれるようだった。




「番号から逆探知した。まだこの街にいる」

「……運転代わる」




 ノワールが言った。

 車を停めておくのはまずいのだろう。しかし、怪我人である。ミナは手が離せないし、翔太は運転が出来ない。

 立花は覚悟を測るように無言でノワールを見詰め、座席を交代した。


 良い車乗ってるね、とノワールが言う。車は滑らかに発進した。運転は問題無さそうだ。

 窓の向こう、空は赤く染まっている。火災の激しさを物語っているようだった。ミナの言う通り、火災は二箇所で起きているらしい。




「よォ」




 立花が言った。繋がったようだ。

 生憎あいにく、向こうが何を話しているのかは分からない。立花は退屈そうに足を組み、顔をしかめている。


 初めは相槌を打っていたが、次第に無言になった。機嫌が見る見る内に急降下して、車の中は背筋が凍りそうな程の殺気に包まれた。


 翔太は生きた心地がしなかった。

 針のむしろで正座をさせられているみたいだ。




「――寝惚ねぼけたこと言ってんじゃねぇぞ」




 恫喝的な声が聞こえて、横隔膜が痙攣けいれんした。

 振り返ることすら怖かった。まるで、後頭部に突き付けられた銃が撃鉄を起こし、引き金に指が掛かけられているようだ。静まり返った車内で、立花の低い声だけが聞こえる。




「こいつに手ェ出すなら、お前は俺の敵だ」




 憎悪や嫌悪を込めた凄みのある声だった。それは逃れようの無い自然災害を前にしたかのような、絶望的な恐怖を与える。

 立花は般若はんにゃみたいな形相で盛大に舌を打った。そのまま乱暴に通話を叩き切ると、携帯電話をポケットに入れた。




「殺されたのは青龍会の構成員、邪魔しやがったのはSLCだ。ベリルって、名乗ってた」




 さっきの男だ、と立花が言った。

 つまり、取引現場に現れた青い目の男が、ベリル。

 立花は悪態吐き、窓の向こうに目を向けた。運転を代わる様子は無い。


 SLC――。

 国家に潜む犯罪組織。公安と癒着し、孤児を対象に人体実験を行った。その正体はカルトそのもので、自分たち共通の敵である。

 教主は逮捕され、服役中だと聞いている。では、どうしてベリルが暗躍しているのか。そして、その目的は何なのか。


 ミナは「ふうん」と興味も無さそうに相槌を打った。

 その目には獰猛な憎悪が映っている。




「俺達に喧嘩を売ったことを、後悔させてやる」




 くさびを打ち込むような強い語調だった。


 大阪に闇医者の知り合いはいないらしいので、立花が途中で運転を代わり、東京に戻ることになった。三時間を超える移動の最中、後部座席ではミナとノワールが寝ていた。翔太は後ろに飛んで行く景色を眺めながら、たった数日の間に起きた様々な出来事を振り返っていた。




「ペリドットが」




 立花が言った。翔太は眠り落ちる寸前だったので、慌てて目を擦った。立花は相変わらずいつもの仏頂面だった。




「未来は過去の結果だって言ってたろ。……どうなんだろうな」




 ゲルニカの一件で、立花とペリドットは対峙した。

 復讐を請け負わない立花と、復讐者であるペリドット。何が彼等を分けたのだろう。


 翔太はフロントミラー越しに後部座席を見遣った。ノワールはペリドットの実弟である。同じ家庭で育ちながら、復讐者になったのは兄だけだった。


 何が違うのだろう。

 ミナは双子の弟がいる。弟は母国で家族と暮らし、兄は異国で裏社会に生きている。


 清算しなきゃ、前に進めない奴もいる。

 ペリドットはそう言っていた。




「俺は、過去に価値を感じねぇ。復讐なんざ不毛で、無価値だ。今この瞬間さえ手一杯なのに、過去の為に未来まで縛られるなんて、虚しいと思う」




 立花はそう言った。

 それは嘘偽りの無い立花の本心なのだろうし、きっと、その通りなんだろう。




「……俺にも、分かんねぇ」




 正直に、翔太は答えた。




「時間は連続してる。過去は切り離せない。……でも、今この瞬間が明るい未来に繋がってるって、信じてる」




 翔太が言うと、立花は少しだけ頬を緩めた。

 笑ったのかも知れない。分からないけれど、そうだったら良いな、と思う。














 14.正義の所在

 ⑼蟷螂とうろうおの













 事務所に帰り着いてから、立花は闇医者に連絡を取ったらしい。朝方近くにヨボヨボの爺さんがやって来て、ノワールの銃創を縫ってくれた。


 ノワールが薬は嫌だと言うので、麻酔はしなかった。拷問並の痛みだっただろうが、彼は呻き声一つ漏らさなかった。


 泊まっていけば、と珍しく立花が言った。ノワールは苦く笑って、断った。それをお互いに見透かしていたかのような、社交辞令みたいな遣り取りだった。


 しかし、血の付いたワイシャツをミナが洗濯してしまったので、ノワールは暫く事務所に拘束されることになった。


 闇医者を見送り、翔太はテレビを付けた。大阪で起きた爆発は事故だと報道されているが、街中では懐疑的な声が多く、市民は不安を抱いている。


 ミナは乾燥機に掛けたワイシャツをアイロン掛けしていたが、見ていて不安になる程、拙い手付きだった。苛立った立花が代わると、ワイシャツはクリーニングに出したみたいな出来栄えとなった。


 ノワールは明るく礼を言い、事務所を出て行った。

 翔太はミナと一緒に駅まで見送った。


 改札の向こうに消える背中を眺めていたら、欠伸が出た。昨晩は一睡もしていない。疲労困憊で、歩いて帰るのも億劫だった。


 どうにか事務所に帰り着き、ソファに倒れ込んだら気が抜けて、そのまま眠ってしまっていた。起きたら既に夕方で、何故か事務所に一人きりだった。


 二人は三階にいるのだろうか。空腹を感じて給湯室を覗くが、何も無い。大阪に行く際、長期間事務所を空けても良いように、冷蔵庫の中を空にしたのだ。

 何となく電気ケトルで湯を沸かしていたら、扉の向こうから足音がした。話し声は二人分聞こえる。




「ただいま、ショータ」




 扉を開けて、ミナが言った。

 見たことの無い真っ白なキャップを被っていた。その後ろで立花が欠伸あくびをしている。二人共、目の下にくまがあった。


 おかえり、と返してお茶を煎れる。ミナと立花の分も一応用意したら、それぞれ礼を言った。




たつみ警部に会ったよ」




 パソコン前の回転椅子に座り、ミナは両手を組んだ。




「強烈な人だったねぇ、レンジ」




 ミナが言うと、立花は煙草を咥えて目を逸らした。

 ライターの着火音が随分と懐かしく聞こえる。ブラインドの隙間から差し込む夕陽に照らされ、部屋の中はオレンジ色に染まっていた。




「でも、悪い人じゃなさそうだったよ」

「……会って何したんだ?」

「青島さんのデータをあげた。あれ以上に正確なデータは無い。汚職が明るみに出れば、青島さんの無念も少しは晴れるだろう」




 ミナは息を吐いた。

 テレビが付けっぱなしだった。どのチャンネルも大阪の火災を取り上げているが、府警は捜査中の一点張りである。

 真実はいつ明るみに出るのだろう。ずっと夜の中で走っている気分だ。




「大阪の笹森一家が、ガサ入れされることになったぞ」




 煙草を吹かせながら、立花が言った。

 予想は、していた。それはもう、仕方の無いことだった。爆発が起きた晩に、笹森一家は会合を開いており、其処で銃撃事件が起きている。銃声を聞いた住民もいるだろう。




「エンジェル・リードは全面支援してる。打てる手は打った。後はもう……、ええと」

「人事を尽くして天命を待つ」

「そう、それ」




 立花が補足すると、ミナが笑った。

 彼等の遣り取りを聞いていると、自分が日常に帰って来たことが実感出来る。緊張がほぐれて、胸の奥が温かくなるのだ。




「お前は、どうして笹森を信じるんだ?」




 立花が尋ねた。それは率直な疑問だったのだろう。

 ミナは少し困ったような顔をして、答えた。




「あの人は、おおかみひきいる羊のリーダーなんだよ」




 関西を牛耳る極道一家の若頭。けれど、会ってみると笹森春助は家族思いの気の良い青年だった。大勢の上に立ちながらいつも堂々としていて、他人の意見を受け入れる度量がある。




「家族が凍えている時には、そっと温めてくれるよ。……そういう人を失くしちゃいけない。俺はそう思う」




 正義も悪も、ミナにとっては些末な問題なのだろう。

 明るい未来を信じて、その為に出来ることを一つひとつ乗り越えて行く。もしかすると、その足掻きこそが、正義と呼ばれるものなのかも知れない。翔太はそんな風に思った。


 その時、テレビで緊急速報が流れた。

 大阪府警の文字が見えたので、笹森一家のガサ入れかと思った。しかし、映し出されたテロップには、火災現場から複数名の遺体が出たと言う内容だった。しかも、府警は海外の犯罪組織の関係者だと考えているらしい。


 ミナはテレビを見ながら言った。




「青龍会の方から圧力を掛けてもらった。構成員のデータと遺体は一致するだろうって」

「そんなこと出来るなら、最初からやれよ」

「死体があったなら、最初からやったさ」




 死体が、青龍会との関与を示す証拠になったのか。

 転んでもただでは起きないとは、このことだ。作戦をことごとく潰されて、後手に回っても起死回生の一手を探す。


 人類最後の日が来たとしても、最後に生き残るのはこういう人間なんだろう。翔太は二人を見て、そんなことを思った。




「密売ルートはすぐに潰せない。国際問題になるかも知れない。組織が大きい程、解決には時間が掛かる」

「組織の腐敗なんて、そんなもんだよ。腐った林檎は隣を腐らすって言うからな」

「俺は人間の自浄作用を信じたいね」




 ミナは皮肉っぽく言った。

 何か変わったな、と思う。何だろう。立花も丸くなったけれど、ミナも胆が据わったように感じられる。様々な困難を乗り越えて、強くなったのだろうか。




「SLCは、どうなったんだ」




 翔太が訊くと、二人の目付きが変わった。異様に空気が張り詰め、翔太は無意識に両手を握っていた。

 岩壁を貫くような視線で、ミナが言った。




「教主は服役してる。生きている間に刑期は終わらないし、面会は許されていない。外部とコンタクトを取る方法は無いはずだ」

「単独で動いてたってことか? 何の為に」

「さあね。俺はあいつ等のいかれた考えなんて、一つも理解出来たこと無いから」




 ミナはそう言って、翔太を見た。




「あいつ等は、本当にいかれてるんだ。俺が辞書を作るなら、悪魔の項目にはSLCって書くよ」




 もう怯えるべきなのか、笑うべきなのか分からない。

 立花が呆れたように言った。




「お前の辞書は落丁らくちょうが多そうだな」

「レンジの項目には、クソ真面目って書いとくね」

「じゃあ、お前の項目にはクソ生意気って書いとけ」




 二人は睨み合ったかと思うと、同時に笑った。

 ミナは大きく背伸びをした。




「今日はもう出前を取ろうよ。お金は俺が出すから」

「いいぜ」

「ショータ、何が食べたい?」




 回転椅子をくるくると回しながら、ミナは携帯電話を取り出した。腹に溜まれば何でも良かったが、せっかく訊いてくれているので翔太は考えた。




「カツオ」




 翔太が言うと、立花が目を丸めた。

 先日、食べ損ねたのだ。ミナは朗らかに了承すると、寿司屋に電話を掛け始めた。

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