⑻横槍

 午前一時半。

 真夜中と言っても差しつかえない時間帯だ。港はひっそりと静まり返り、細やかな夜風すら暴風に聞こえる程だった。

 翔太は立花と共に青龍会に関わる違法取引の現場を見張っていた。迷路のように入り組んだ港のコンテナ置き場の奥、廃屋はいおくのような倉庫は明かりが灯っていた。


 この倉庫自体は、地元の資産家が機械製糸の為に建てた工場であったが、バブル崩壊の煽りを受けて閉鎖された。資産家は既にこの世には亡く、機械類の全ては売り払われ、莫大な解体費用が掛かることから放置されたわば遺物である。勿論、資産家やその子孫は犯罪組織とは一切関わりが無く、現在は兵庫の田舎に移り住んでいると言う。


 機械類の取り払われた建物は長方形の箱であり、見取り図を見る限りでは二階に従業員用の部屋や事務室などがある。また、元工場だった名残から長方形の広場は長辺を縁取るように通路が設置されているらしい。


 これ等の情報はミナから送られて来た。彼方あちらも暇を持て余している訳ではないので、情報が抜け落ちている可能性もある。ミナ自身、最新の情報ではないことを前置きしていた。


 工場周辺にカメラの類は無い。つまり、ミナの援護は期待出来ないと言うことだ。犯罪組織の取引現場となれば当然、銃器を所持した見張りがいることが予想される。


 此方の目的は、青龍会構成員の確保である。その見張りを捕まえるだけで良いなら話は早いのだが、犯罪組織とは姑息なもので、人間を捨て石にする。見張りの一人や二人を捕まえても、何の情報も出て来ないということだ。


 立花は幽霊のような希薄な存在感で、建物の周辺に群生するすすきの中に身を潜めている。翔太も見様見真似で息を殺して建物の様子を窺うが、何が起きているのかは全く分からない。


 立花はとても、とても静かだった。置き物のように固まっている訳ではないのに、呼吸すら感じられない。自然体に見えるのに警戒が根のように張り巡らせられているのが分かる。


 警察や探偵の張り込みとは訳が違う。立花のそれは、人を殺す為に洗練された技術なのだ。もしも、自分が彼のターゲットとなったら、その時は気配を察知する間も無く死んでいるのだろう。


 立花が僅かに顔を上げる。数秒遅れて、翔太は車のエンジン音が近付いて来ることに気付いた。黒塗りの高級車は堂々と工場の前に停車した。明らかに堅気ではない成金趣味の男が、ガタイの良いボディーガードに囲まれて降りて来る。


 金色の目が此方を見る。捕まえるなら、あいつだ。立花の目がそう語る。そりゃそうだろうけど、と翔太は眉を寄せた。

 殺せというのなら、可能だろう。だけど、生かして捕らえるのは難しい。どうするつもりだろう。ミナの援護が無いことがこんなに心細いとは思わなかった。


 立花が動いた。風に揺れるすすきの中を泳ぐように移動して行く。翔太は平常心と内心で呟きながら追い掛けた。


 工場の裏手に回ると、トタンの壁に梯子はしごが設置されていた。屋上に繋がる非常時の脱出口らしいが、梯子は赤く錆び付き、今にも崩れそうだった。その手前には如何にも金で雇われた見張りが三人立っていた。当たり前のように銃器をぶら下げている。




「右の男をやれ。声を上げさせるな」




 振り向きもせず、立花が言った。

 俺が先に行く、と言って立花はすすきの中を進んで行く。見張りの男まで二メートル。其処まで近付いても察知されないのは、見張りが雑魚なのか、立花が超人的なのか。

 前者であることを祈りながら、翔太は身構えた。


 立花は足音も無くコンクリートの地面に立つと同時に銃器を押さえ込んだ。動揺する見張りの首に一瞬で腕を回す。骨の折れる嫌な音がした。異変に気付いた男が銃を向ける。立花はその手を蹴り上げた。


 宙に浮いた拳銃がすすきの海に飛び込む。立花は片手で見張りの首を引っ掴み、コンクリートの上に押し付けた。その後ろでもう一人の男が銃を向ける。翔太は背後から上段回し蹴りを放った。


 男の体がぐらりと揺れる。倒れる刹那、立花が手を伸ばした。片手は胸倉を掴み、もう一方の手にはナイフが握られていた。銀色の閃光が走る。刹那の静寂、そして、鮮血が首筋から噴き出した。


 一分と経たぬ間に、其処には三人分の死体が転がっていた。

 しかも、血の海である。返り血一つ浴びず、顔色一つ変えず、立花はスーツのえりを整えている。この男だけは、敵に回してはいけない。


 立花は錆びた梯子を掴むと、忍者のようにするすると上って行ってしまった。今にも崩れ落ちそうだったのに、軋みもしない。さっさと屋上まで登ると、翔太を見下ろして手招きした。


 翔太が登ると梯子はきりきりと嫌な音を立てた。祈るような気持ちで、どうにか屋上まで辿り着いた頃にはもう疲れ切っていた。立花は屋根の上を移動している。


 そのまま下の様子を窺うと、立花は雨樋あまどいを片手に掴んで飛び降りた。翔太がぎょっとして追い掛けると、立花は二階の窓のさんに足を引っ掛けて立っていた。ポケットからコンパスみたいな道具を取り出して窓に穴を開けた。片手を突っ込んで鍵を開けると、あっという間に室内へ侵入してしまった。


 立花にとっては簡単なことなのだろうけれど、普通は無理だ。愚痴を言っても仕方無いので追い掛ける。窓が開いていたお蔭で転落することもなく、翔太も二階に到着した。


 二階フロアにも当然見張りがいたが、立花は道端の小石を避けるみたいに軽くぎ倒して行った。ナイフを使っているせいで部屋の中、廊下は血塗れである。悲鳴や恨み言どころか、呻き声一つ漏らせず、男達は物言わぬ死体となった。


 二階フロアを制圧するのに掛かった時間は、凡そ十分である。その間に殺した人間は十人以上。正義の味方なんてとんでもない。立花は悪人の代表格、殺し屋である。


 工場の二階部分に設置された通路は、丁度学校の体育館のキャットウォークに似ていた。取引が行われるであろう広場を見下ろせる最高の観客席である。立花は人形のような無表情で眼帯を外した。返り血の一滴が染みていたのだ。


 物陰に身を寄せて見下ろすと、中には数名の男達が集まっていた。あの成金趣味の男は、夜だと言うのにサングラスを掛けていた。ボディーガードが三人、周囲を固める見張りが五人。


 相対しているのは、若い男だった。

 外人だろうか。浅黒い肌にアッシュブラウンの短髪。喪服のような真っ黒のスーツに、ネクタイは無い。

 若い男は銀色のアタッシュケースを持っていた。中身は分からない。開ける素振りも無いので、もしかすると取引は既に終わったのかも知れない。


 自分達が抑えるべきは青龍会の構成員である。翔太にはどちらが何者なのか分からなかった。立花は視線を固定したまま、独白のように呟いた。




「あいつは……」




 室内は薄暗かった。翔太は目を凝らした。

 成金趣味の男の顔は分からない。ボディーガードも、見張りの男達にも見覚えは無い。だが、相対する若い男には、確かに見覚えがあった。


 ――必要悪というものを、ご存知で?


 ゲルニカの実父、那賀川なかがわ議員の車の運転手。逃亡したゲルニカを追い掛ける翔太の前に銃を持って立ちはだかった正体不明の男。闇の中に光る青い瞳が、不気味だった。




「嫌な予感がする。さっさとケリを付けるぞ」




 そう言って、立花は銃を取り出した。

 初弾は成金趣味の男の肩を撃ち抜いた。途端に辺りは殺気立ち、狙撃手を探して銃を取り出した。立花は機械のような正確さでボディーガードや見張りの男達の頭を撃ち抜く。当然、反撃もあった。


 銃弾が嵐のように襲い掛かる。トタンの壁が穴だらけになり、血と硝煙の臭いが充満する。悲鳴、怒号、呻き声。


 物陰に身を潜めた男達が此方を狙って発砲する。激しい銃撃戦だった。薄暗い室内がフラッシュを焚かれたように点滅する。見張りの男達が二階へ迫る。

 翔太はキャットウォークの扉の裏に隠れ、銃を突き出す腕を挟み込んだ。悲鳴と共に銃が落ちる。扉の向こうから発砲。翔太は扉に隠れながら応戦した。




退け!」




 立花が翔太を押し退ける。扉の隙間に何かを放り込んで扉を閉める。まさか手榴弾かと焦ったが、爆発音はしない。扉を開けると男達が目を押さえてうずくまり、見当違いの方向に発砲していた。


 立花は一瞬で手摺りを飛び越えた。

 取引現場では、あの成金趣味の男が肩を押さえてうずくまっていた。そして、青い瞳の男は、銃口を向けていた。


 始末する気だ。立花は着地する前に発砲したが、青い目の男は人質を盾にした。腹部から血が噴き出す。青い目の男は薄く笑うと、背中を向けて闇の向こうへ走り出した。


 立花は追わなかった。追えるはずも無かった。

 撃たれた男を転がし、愕然と立ち尽くしている。翔太は目の眩んだ男達を拘束し、立花の元へ走った。

 男は血塗れで、殆ど虫の息だった。恐らく、応急処置では間に合わない。自分たちの立場では救急車を呼ぶことも出来ない。絶望が幕のように降りて来るのが分かる。


 自分達は失敗したのだ。青龍会の関与を示す証拠の確保はもう出来ない。どうする。どうすれば良い。

 立花は舌打ちを一つ零すと、瀕死の男にとどめを刺した。銃声が尾を引いて響き渡った。


 立花は男の死体から携帯電話を取り出した。証拠が残っているのだろうか。分からない。ふと横を見ると、銀色のアタッシュケースが半開きのまま置き去りにされていた。




「ミナに連絡しろ。そんで、警察を呼んでもらえ」




 立花は忌々しげに吐き捨て、歩き出した。














 14.正義の所在

 ⑻横槍よこやり













 翔太から連絡を受けた時、ミナは二人が無事であったことに心底、安堵した。


 取引現場に監視カメラの類は無く、ネットの回線も繋がっていない。彼方の様子を見ることも出来なければ、援護も出来なかった。だから、彼等が無事であれば、他のことは後回しで良かった。


 立花が取引相手の携帯電話を確保してくれたらしいので、合流したら調査することを約束した。死体を放置する訳にもいかないので、取り敢えず公安警察の羽柴はしばに連絡を入れた。


 笹森邸は、葬儀会場のように静かである。

 夜中だと言うのに大勢の男達が広間に集まって、堂々巡りの討論をしている。笹森一家の幹部と、周辺を牛耳る権力者たちの会合である。日暮れから笹森邸に集まって、情報共有と今後の話をしているらしいが、嘘と打算に塗れ、最早、ケチの付け合いである。


 此処は掃き溜めだな、とノワールが言った。

 ミナは同意した。


 それにしても、この調子で朝まで話し続けるのだろうか。

 全く時間の無駄だ。会合に集まる者達は決して正直者ではないし、世間一般では悪と呼ばれる行為にも関与しているのだろう。だが、青龍会やSLCに比べると、小悪党である。


 笹森邸の電波は傍受しており、彼等が席を立った時にはノワールが見張った。けれど、青龍会の手掛かりは無い。

 彼等じゃない。ミナは確信した。

 パソコンを眺めていたせいで目が痛む。睡魔と疲労感に襲われて目眩がした。その場をノワールに託し、ミナはトイレに向かった。


 長い廊下を歩きながら、ミナは翔太の話を思い返していた。

 殺された成金風の男、取り巻き、ボディーガード。それから、青い目をした若い男。しかも、そいつはゲルニカの一件にも関わっていたと言う。


 何者だろう。そして、何の取引だったのか。

 まあ、良い。捜査の手が入れば、おのずと答えは出るだろう。立花と翔太と合流出来たら、入手した携帯電話を解析して――……。


 廊下の角を曲がった、その時だった。

 壁かと見間違う程の大きな男が一人、立っていた。室内にも関わらず黒いトレンチコートを纏い、まるで何かを待ち伏せていたかのように、廊下の真ん中に仁王立ちしている。


 年齢は四十代後半くらいだろうか。人生のいも甘いも噛み分けて来たかのような凄みがあり、その瞳は深淵を覗いているかのような虚無に染まっている。右目の上に、傷痕があった。火傷やけどのような。


 靴を、履いていた。

 室内だと言うのに。




蜂谷湊はちや みなとだな?」




 黄ばんだ歯列が見える。喫煙者独特の嗄れた低い声が、有無を言わさぬ強い口調で問い掛ける。

 その瞬間、体中の血が凍るような悪寒に襲われた。


 男の手には黒い鉄の塊があった。引き金が絞られる。

 破裂音が空気を引き裂く、その刹那。視界の端から影が飛び出し、ミナは勢いよく廊下の奥に吹っ飛んでいた。


 動転し点滅する視界に、ノワールの背中が見えた。

 破裂音が劈く。ノワールは壁に身を隠しながら、廊下の向こうに向けて発砲した。




「ミナ、引っ込んでろ! こいつは玄人くろうとだ!!」




 玄人――。

 銃声を聞き付けて、会合に集まっていた人々が顔を覗かせる。ミナは声を張り上げた。




「出て来るな!!」




 銃弾が切れ、ノワールが舌を打つ。

 けれど、その時、既に向こうからの銃撃は無かった。ミナは恐る恐ると様子を伺い、其処に誰も立っていないことに寒気を覚えた。


 逃げた?

 何故?

 どうして自分の名前を知っていた?

 目的は?


 あの男は靴を履いていた。逃げる準備が出来ていたのだ。

 ミナはノワールを振り返った。足元に血痕があった。




「何処を撃たれたの」

「こんなもん、擦り傷だよ」

「良いから、見せろ」




 ノワールは肩を撃たれていた。銃弾は貫通しているようだが、そのせいで出血が酷い。ミナはポケットから大判のハンカチを取り出して、応急処置をした。


 銃撃戦が落ち着いたのを見計らって、笹森が駆けて来る。

 救急車を呼ぶかと訊かれたが、ノワールが断った。




「……派手に撃ち合ったから、警察が来る」




 ノワールは肩を押さえて立ち上がった。




「その時は、強盗だって言え」




 ミナは唇を噛み締めた。

 救急車を呼ぶことも出来なければ、警察からも逃げなければならない。ミナにとっては、ノワールは味方だった。だけど、社会にとってはそうじゃない。それが悔しかった。


 ノワールは床に落ちた血を拭い、玄関に向かって歩き出す。分かってる。ノワールは殺し屋で、警察は彼を、笹森一家を疑うだろう。


 ミナはノワールに「ちょっと待っていて」と言い置いて、部屋から荷物一式を運んで来た。此処にいることで不利益になるのは、ミナも同じだった。


 笹森は何かを言いたげだったが、引き留めはしなかった。

 また連絡する。ミナはそう言って、ノワールを連れて屋敷を出た。


 外は真夜中のはずだった。だが、空は夕暮れのように赤く染まり、サイレンが彼方此方あちこちから悲鳴のように響き渡る。

 何が起きているのか、全く分からない。だが、警察のサイレンが聞こえる。この場所にはいられない。


 ミナは拳を握った。屈辱で手が震える。

 完成間近のドミノが、他人の手で崩されているような感覚だった。想定外の何かが、明確な悪意を持って立ち塞がる。腹の底から湧いた怒りが膨らんで行くのが自分で分かる。


 携帯電話が鳴る。

 立花だった。ミナは深呼吸をしながら、通話に応じた。

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