⑺泡沫のアリア
「来客は無かったはずなんやけどな」
ノワールは輝くような無邪気な笑顔を浮かべ、手を振っている。
「忍者の末裔なんだ」
「ほんまか、それ」
とても信じたようには見えないが、笹森とノワールが笑ってくれたのでそれで良かった。
笹森は後ろ手に襖を閉めると、ノワールを見遣った。
「それで、何者なんや?」
「ミナの友達の、殺し屋だよ」
ノワールが堂々と言い放ったので、流石の笹森も面食らったようだった。説明している時間が惜しかったので、ミナは間に入った。
「昨日、港の倉庫で大規模な武器密輸が行われた。何か知ってる?」
「武器? 何処のアホの仕業や」
ノワールが目で訴える。
笹森は嘘を吐いていない。ミナも同意見だった。やはり、笹森は白だ。
ノワールが言った。
「置き場所に困るくらい大量の武器だったぜ。あんたの身内じゃねぇのかい?」
「うちは武器は扱わへん。すぐに足が付くさかいな」
「ねぇ、半信半疑で良いから、俺の話を聞いてくれる?」
ミナが言うと、笹森は眉を寄せた。
ええで、と言って、笹森はその場に
「街頭カメラをハッキングしたら、港から街中に向かって走る大型トラックが映ってたんだ。……笹森さんは傘下のグループに、武器や薬物、人身売買を禁止しているね? それを面白く思わない悪い奴等が、此処を潰そうとしてる」
「ほぉ」
「一番手っ取り早いのは、濡れ衣を着せて信用を落とすこと。例えば、武器や薬物の密輸に、笹森一家が関わっているとデマを流す」
「……」
「貴方が例えどんなに真っ当な仕事をして家族を守り、誠実に尽くして来たとしても、世論は貴方たちを悪にする。この国は、マフィアというものにネガティブなイメージを持ってるから」
笹森は冷静だった。
怒りもしなければ、嘆きもしない。正誤を見極めようとしている。
「手を打った方が良いぜ。立ち止まって守れるものなんか、何も無ぇ」
ノワールが言った。
笹森は口を閉ざしていた。堪えているのだと、分かる。今にも爆発しそうな怒りを、腹の中で飼い慣らそうとしている。
気圧されそうなプレッシャーだった。大勢の人の上に立つ貫禄、カリスマ性。ミナは腹に力を込め、身を乗り出した。
「勿論、これは可能性の話だ。俺達は最悪の事態を防ぐ為に行動する。だから、笹森さんは身の回りを調べてくれ」
笹森は目を眇めた。
視線に質量があったら、自分は今頃、串刺しだっただろう。
「内通者を探したいなら、うちの屋敷を好きに見て回ったらええ。此処におるのは、俺がガキの頃から尽くしてくれてる家族や。俺には、家族を疑うことは出来へん」
笹森は言い切った。其処には一欠片の嘘偽りも無く、凡ゆる残酷な真実を受け止めようとする覚悟があった。そして、ミナにはその覚悟が痛い程に分かった。
自分だって、同じことを言う。家族が疑われたら、潔白を示す証拠を求めて奔走する。
善悪の境界線なんて誰にも引けやしない。
それなら、自分に尽くせる最善を。
「
ミナは笑って言った。
助けの望めない窮地の時、前すら見えない絶望の時、追い詰められた時にこそ、堂々と笑うんだ。
その時、ノワールが肩を当てて来た。
「内通者探しは俺がやる。汚れ仕事は部外者に任せろよ」
ノワールは不敵に笑って言った。
助け舟を出されたのかも知れない。
「アンタは何処かに武器が運び込まれていないか、漬け込まれる隙が無いか確かめろ」
「……信じてええんやな、ミナト」
ミナは頷いた。
笹森は大きく溜息を吐き出し、自分の頬を叩いた。余りに威勢の良い音がしたので驚いた。笹森は頬に立派な
「やるなら、ちゃっちゃとやろか。これ以上、うちのシマで好き勝手されるのは我慢ならへん」
「ああ」
「ヤクザを
笹森は肩を怒らせて、部屋を出て行った。
良い方向に動き出しているはずなのに、ミナは不安を拭い切れなかった。何故だろう。何か恐ろしいものが、この屋敷の中に根を張って、地盤諸共引っ繰り返そうとしているような、一挙手一投足を
二人きりになった部屋の中で、ミナはノワールに耳打ちした。
「気を付けろよ、ノワール。もしかしたら、此処にいるのは透明人間かも知れない」
「透明人間?」
ミナは頷いた。
ポケットに入れていた携帯電話が震えた。メッセージが二件。ペリドットと、翔太だった。
ペリドットは大阪に到着したらしい。
翔太からは誰かの名刺が写真で送られて来た。画像を拡大してみて、眉を寄せる。公安警察、
どうして翔太が公安の名刺を持っているんだ。まさか、接触したのか?
羽柴は、巽警部の同期。翔太の短いメッセージを読み、自分の手元に幾つもの選択肢が集まっていることに気付く。
この国に来た時、自分は何も持っていなかった。だから、切り札が欲しかった。大切なものを守れるように。
ミナは目を閉じて深呼吸をした。凡ゆる情報が瞼の裏に浮かび、星座のように形を成す。目を開ける。やるべきことは、決まっていた。
ノワールが此方を見ていた。
嘘も隠し事も、これ以上はしたくなかった。
「公安の刑事と話す。敵か味方かは分からない」
「……大丈夫かよ」
「俺に必要な能力だ」
味方ばかりじゃない。敵もいる。獅子身中の虫をどうやって飼い馴らすか。此処は母国じゃないし、自分はもう、守られるだけの子供じゃない。
「引き返せないぞ」
「良いんだ」
エメラルドの瞳を見詰める。
この人に、生きていて欲しい。幸せでいて欲しい。進む先が地獄でも、彼が笑っていてくれるなら、それで良い。そして、その時に側にいられたら、もっと良い。
「ノワールもこの世界に入る時、覚悟をしただろう?」
「ああ」
「俺は、今なんだよ」
ノワールは、怒っているような、泣き出す寸前みたいな顔をしていた。ミナは励ますようにその肩を叩き、はっきりと言った。
「俺が選んだ道なんだ」
「……俺は」
ノワールは目を伏せた。
「お前には、平和な世界で笑っていて欲しかったよ」
ミナは奥歯を噛み締めた。
ノワールの気持ちが、分かる。だからこそ、言わなければならなかった。
「ノワールと一緒なら、地獄でも良いよ」
俺達は、どういう関係なんだろう。
友達か、親友か、共犯者か、それとも。
分からない。だけど、大切だと思う。その人といる自分が好きだと思うのなら、関係性に名前なんていらなかった。
ノワールの瞳が歪む。何かが零れ落ちそうだった。
手を伸ばすと、腕を引かれた。ノワールの鎖骨が額にぶつかった。腕が背中に回り、強く抱き締めて来る。他人の体温と鼓動が心地良いものであることを、産まれて初めて知る。
自分よりも大きな無駄の無い体、鍛えられたしなやかな筋肉、微かに聞こえる吐息は喘鳴みたいだった。服越しに熱が伝わる。
胸が軋むように痛かった。泣きたいのか、笑いたいのか、自分でも分からない。口を開けば何かが溢れ出しそうで、ミナは縋るように腕に力を込めた。
海の向こうでは紛争が続き、民間人は
君の為に何が出来る?
いつも優しく受け止めてくれる君の為に、俺は何が出来るだろう?
14.正義の所在
⑺
笹森一家の邸宅まで、ペリドットが来てくれるそうだ。
ミナは携帯電話をポケットに入れ、部屋を出た。鏡のように磨き込まれた板張りの廊下、枯山水の庭。時折、屋敷の人間と擦れ違った。体付きは
笹森が、家族だと言っていた。
ミナも、アメリカに家族がいる。守りたい、信じたい。笹森の気持ちが自分のことのように分かる。
公安の刑事、羽柴は話してみると穏やかで、何処か学生のような気易さの男だった。どういう人間なのかは会ってみないと分からないが、悪い人だとは思えなかった。
けれど、信用はしない。
そういうことだろ、レンジ。
エンジェル・リードを名乗ったら、少し不審がっていたが、
スニーカーに足を入れ、靴紐を締める。
ノワールは屋敷に残して来た。ペリドットに会うことは伝えてあるが、会うかどうかは訊かなかった。彼等の問題に、自分が首を突っ込むべきじゃない。
引き戸を開け、庭先を抜けて、大きな門を潜る。外はもう夕暮れだった。夕陽が街を朱色に染め上げる。
だだっ広い街路に
金色の髪、エメラルドの瞳。
国家公認の殺し屋、ペリドット。
そして、ノワールの実兄で、本名を
「よォ」
ペリドットは気の抜けた声を出した。
ミナは周囲に目を向けた。
ミナはポケットに手を入れた。
赤いゴム製の
「中国の青龍会、若頭の
「すげぇ大物じゃねぇか。どういう繋がりだよ」
「俺の親友だ。アンタのことは話しておく。絶対に失くさないで」
「当たり前だろ」
ミナが手渡すと、ペリドットは不思議そうに眺めて、すぐに懐に入れた。
「ねぇ、ペリドット」
そのまま去ってしまいそうなペリドットを引き止める。
半身で振り返ったペリドットは夕陽に染まっている。それが初めて会った日のノワールにそっくりで、要らぬことを言ってしまいたくなる。
「レンジが言ってたよ。復讐は不毛だって」
「ハヤブサは、そうなんだろうさ」
ペリドットは皮肉っぽく笑った。
復讐が不毛だなんてことは、ミナだって知っている。翔太を諫めたこともある。だけど、この人は違う。
この人は、ずっと冷静だった。
残酷で、悲壮で、崇高な覚悟をして生きている人だ。善悪や正誤では測れない。命が大切だと伝えることは出来る。けれど、命よりも大切なものがある人間に伝えることは困難だ。盲目の人間に空の青さを伝えることが難しいように。
「お前は、どう思うんだ?」
ミナは答えた。
「正論で納得出来るなら、誰も涙なんて流しはしない」
どう言えば、伝わるだろう。どうしたら、この手が届くだろう。どうしたら、ペリドットを、ノワールを、翔太を、立花を。
「俺は誰にも、死んで欲しくない」
それだけなんだ。
ただ、それだけなんだよ。
世界平和とか、富とか権力とか、そんなことはどうだって良いことだった。ただ、誰にも死んで欲しくないだけなのだ。
大切な人を亡くしたことがある。きっと、初恋だった。
手を伸ばせば届いたはずなのに、目の前にいたのに、助けを求める声は聞こえていたのに、助けられなかった。
今際の際に、彼女が言った。
君だけが守れるものが、何処かにあるよ。
意味は分からない。呪いだったのか、励ましだったのか、慰めだったのか。答え合わせは永遠に出来ない。解釈するしかない。
もう、あんな思いは二度としたくない。
ペリドットは笑った。
子供みたいに純粋な笑顔だった。
「お前のこと、ちょっと気に入ったぜ」
「俺もさ」
ミナも釣られるようにして笑った。
ペリドットやノワールを見ていると、何故だか泣きたくなる。もう良いんだよと許してやりたくなる。けれど、きっとそれは自分の役目ではなかった。
「ノワールが、来てるよ」
ミナが言うと、ペリドットは口角を釣り上げた。
「俺に弟はいねぇ」
暴く必要も無い嘘だった。
ミナは目を伏せた。目の前にいて、会話が出来て、同じものを願っているのに、何も変えることが出来ない。
じゃあな、とペリドットが歩き出す。
旅立つ船を見送るような物悲しさを感じながら、ミナは拳を握った。
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