⑹過去の影

「――翔太くん?」




 大阪歓楽街の雑踏で、声が背中に突き刺さる。

 翔太は反射的に振り向き、そして、それが悪手だったと後悔する。派手な衣服に身を包んだ人々の中、グレーのスーツを着た男が此方を見ていた。


 翔太は後退あとずさった。

 少なくとも、面識が無かった。何者だ。殺し屋か、公安か。

 男は翔太の顔を見ると表情を和らげ、距離を詰めて来る。逃げるべきか。いや、此処で騒ぎを起こせば民間人が巻き込まれる。後手に回ってしまった以上、慎重に行動しなければならない。


 その男は一見すると、柔和な雰囲気を持った好青年だった。つぶらな瞳は何処か芝犬に似ている。




「君、神谷刑事の息子の翔太くんだろ?」




 翔太は答えなかった。沈黙が肯定を示すとしても、この男には何の情報も与えたくない。翔太が黙っていると、男は内ポケットに手を伸ばした。


 まさか、銃か?

 翔太は身構えた。けれど、男が取り出したのは銃ではなく、黒い手帳だった。旭日章きょくじつしょうのエンブレムと、男の写真、名前。それがただの警察手帳ではないことは、明白だった。


 公安警察――。

 翔太が身をひるがえそうとすると、その男、羽柴はしばりょうは予備動作無く、肩を掴んだ。




「逃げなくても大丈夫。僕は君の敵じゃない」




 そんなこと、信じられるはずが無い。

 公安は敵だ。俺の妹を人体実験して、家族を抹殺した。




「君のことは誰にも言わない。僕は神谷刑事の事件を調べているんだ」




 こんな時、ミナがいれば。

 翔太は口を閉ざしたまま、羽柴の手を振り払った。このまま逃げても追い掛けては来ないだろう。だが、この男は銃を持っている。


 どうする。どうする。

 立花は車に残して来た。翔太はトイレに行く為に車を離れたのだ。此処に立花が来るのもまずい。せめて、ミナ。――いや、それも良くない。

 最適解は、このまま何の情報も与えず、羽柴を撒いて逃げることだ。だが、それは可能なのか。


 前にも後ろにも動けなかった。

 だが、その時、聞き覚えのある声がした。




「何してんだ、番犬」




 予想もしていなかった声が、雑踏の中、一筋の光みたいに差し込む。翔太は半身で振り返った。

 ごった返す人混みの中、その男はスポットライトでも当たっているかのような存在感を放ちながら凛と立っていた。


 鮮やかな金髪、エメラルドの瞳。――国家公認の殺し屋、ペリドット。

 どうしてこんなところに。


 ペリドットは羽柴を見遣ると、口元に悪い笑みを浮かべた。




「こんな所で油売ってて良いのかァ?」

「……お前こそ。どうして、此処に」

「オフの日に何しようが俺の勝手だろォ?」




 ペリドットは公安のカードだと聞いている。けれど、仲は良好とはいかないようだ。公安の内部分裂の可能性は、ミナが言っていた。


 逃げるチャンスかも知れない。

 翔太がタイミングを見計らう横で、羽柴とペリドットは一触即発の険悪な雰囲気を漂わせていた。道行く人が遠巻きに眺めている。良いのだろうか。


 ペリドットは、まるで虫けらでも見下ろすかのような冷ややかな眼差しで、羽柴を睨んでいた。




「今度は何処の誰を生贄にするつもりだ?」

「お前には関係無い」

「ああ、関係無いさ。……だけどな」




 ペリドットのエメラルドの瞳は、残酷に透き通っていた。其処には、剥き出しの敵意が篭っている。




「お前等が平和とうそぶいて生贄を探してる間に、命懸けで世の中を変えようとする馬鹿がいる。泥沼の中を足掻いて、少しでもマシな未来を作ろうとする奴もいる。……そいつ等の邪魔をするってんなら、俺が相手になってやる」




 翔太には、ペリドットという人間の本質が全く読めなかった。この男は国家公認の殺し屋で、公安の犬だ。

 この男は、何を願って公安の犬となり、何の為に銃を握ったのか。翔太には分からない。だけど、この男には、確かな信念がある。


 羽柴が何も言い返さなかったので、ペリドットはつまらなそうに舌打ちして、さっさと雑踏の中に消えてしまった。翔太は羽柴と二人取り残され、まるで車に泥水を跳ねられたような心地だった。


 何でペリドットが此処にいたんだ。

 よく分からないが、野放しにしておく訳にもいかない。立花やミナにも伝えておかなければならないだろう。


 街の中の古びた電気屋に、テレビが設置されていた。先日の巽警部が力強く訴え掛ける映像が繰り返し報道されている。彼を見ていると、この世界もまだ捨てたものじゃないと思える。組織の腐敗に染まらない人間が、まだ。




「巽か……」




 羽柴が、呟いた。

 そして、口に出たことを誤魔化すみたいに此方を振り向いたので、翔太は聞かなかった振りをした。

 羽柴は苦笑した。




「見苦しい所を見せて、悪いな。……君のお父さん、神谷刑事は俺の先輩だったんだ。なんて、君には関係無いことだった」

「いや……」




 訊いてみようか。

 家族の事件がどんな扱いになっているのか。世間では煙草の不始末による火災事故だと言われているらしいが、誰が何処までの真実を知っているのか。


 自分はどういう扱いなんだ。

 死者なのか、行方不明なのか。


 いや、止めよう。この人がどんな人間なのか、翔太には分からない。公安には関わるなと立花から言われている。

 翔太は考えを打ち払い、テレビに目を向けた。




「巽警部は、アンタの知り合い?」

「ああ、同期なんだ」




 巽警部と同期。――これは、重要なキーワードなんじゃないか?

 翔太が黙っていると、羽柴はやや疲労感を滲ませて、名刺を差し出した。




「何かあったら、力になるよ」




 名刺は受け取りつつ、翔太は黙っていた。

 去り行く羽柴の背中を眺めていた。


 父の後輩だと、言っていた。仕事一辺倒で、家庭のことなんて顧みなかった父。けれど、家族の為ならば自分の手を汚すことも厭わなかった。


 聞いてみたい。知りたい。

 過去の人間ではなく、生きていた父の話を。


 携帯電話が鳴る。

 着信、立花。ワンコールで切れた着信は、翔太を現実に繋ぎ止めるいかりだった。


 翔太は深呼吸をして、歩き出した。

 父の幻想は、初夏の日差しの下に消えて行った。













 14.正義の所在

 ⑹過去の影












 歓楽街から離れたコインパーキングに、黒のBMWが停まっている。運転席では立花が退屈そうに窓の外を眺めていた。

 翔太が戻ると、立花は冷めた眼差しで鍵を開けてくれた。特に迎え入れてくれる訳ではない。しかし、翔太にとってはそれが気楽だった。


 助手席に乗り込むと、ダッシュボードに携帯電話が置かれていることに気付いた。誰かと電話でもしていたのだろうか。立花は手が塞がるのが嫌なのかも知れない。


 ミナから電話があったと、立花が言った。




「何て言ってた?」

「ノワールと合流して、悪巧みしてたよ」




 悪巧み。翔太は笑ってしまった。

 仲直りが出来たようで何よりだ。




「ノワールの情報では、明日の午前二時に取引が行われるそうだ。どんな規模で、何をするのかは分からねぇ」

「どうするんだ?」

「乗り込んで、構成員の一人を取っ捕まえて来いってよ」




 翔太は腕を組んだ。

 青龍会と繋がっていることを吐かせる為だろう。尋問するつもりなのか、拷問するのか知らないが、それは構成員が本当に情報を持っていればの話である。


 立花は続けた。




「警察に潰させたいらしい」

「どうやって?」

「信頼出来る警察の幹部がいれば、そいつにリークして、摘発させる。警察としても、青龍会が関わっていると分かれば無視は出来ねぇ」

「警察幹部のコネクションなんてあるのか?」

「ねぇよ」




 立花は吐き捨てた。

 当たり前だ。立花は殺し屋で、警察とは対極の立ち位置にいる。




「航空自衛隊幹部を弾劾してる馬鹿な警官がいるだろ? テレビに出てた奴」

「ああ」

「あいつを動かそうとしてる。脅迫状を送って、大阪に引っ張って来るとか言ってたぞ」

「無理だろ。脅迫状なんて送ったら、ややこしいことになるぞ」

「青島のデータを餌にする案も出てたが」

「……」




 どっちが悪者か分からない。

 情報とは信憑性が大切だ。如何に重要なデータであっても、何処の誰かも分からない人間が持っていたとしたら信用出来ない。自分達には地盤が無いのだ。生きている世界が違う。


 裏と表を繋ぐ架け橋。

 翔太は或る可能性に思い至った。




「エンジェル・リードか」




 立花は頷いた。

 情報のリーク元がエンジェル・リードならば、社会的地位がある。自分達のような日陰者よりは信用されるはずだ。


 作戦内容は大凡、把握した。

 明日の午前二時、港の倉庫で取引が行われる。翔太は立花と一緒に潜入して、構成員の一人を拉致する。


 証拠が掴めれば、ミナがエンジェル・リードの立場を使って警察に情報をリークする。その中で内通者が尻尾を出せば、ノワールと一緒に抑える。


 最終的には密売ルートは警察が潰す。


 翔太は、唸った。

 ミナが考えたというのなら、信用して良いのだろう。だが、都合が良い計画だと思う。一つでも失敗すれば、計画そのものが頓挫し、修復が難しい。


 構成員の確保というのが問題だ。立花は殺し屋であって、誘拐犯でもテロリストでも無い。殺すことは出来ても、生かして捕まえるのは相当難しいだろう。


 此処で失敗すれば、取引は中止になり、次はより難しくなるかも知れない。それに、翔太には懸念があった。

 昨晩の大量の密輸された武器である。何処に運ばれたのか知らないが、下手に刺激して、街中が火の海なんてことは避けなければならない。


 嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。本当に上手く行くのか。

 失敗したら、どうなるんだ。――いや、彼等はもう、その次元で生きていない。

 生きる為にはやるしかないのだ。失敗したら死ぬだけ。そういう覚悟で此処にいる。


 深く考え込んでいると、立花が言った。




「お前、さっきから何を持ってんだ?」




 言われて、はっとした。

 手の中にあるのは、一枚の名刺だった。公安警察、羽柴綾。父の後輩だったという男である。そういえば、巽と同期だとも。


 翔太が説明すると、立花は名刺を受け取って吟味した。発信器の類は無さそうだったが、立花は公安を毛嫌いしている。




「ミナに連絡させよう」

「ミナに?」

「交渉はあいつの得意分野だろ」




 確かに、自分が連絡するよりは安全である。

 ミナは大丈夫なのだろうか。犯罪歴の無い未成年だが、信用してもらえるか。公安相手に立ち回れるか。


 不安はあったが、翔太は写真を撮って送信した。

 折り返しの連絡は無い。忙しいのだろうか。内通者も見付かっていない。




「そういえば、ペリドットに会ったよ」

「ペリドット? 何で」

「オフとか言ってたけど。公安の羽柴さんと鉢合わせて、かなり険悪だった」

「へぇ……」




 立花は興味も無さそうに相槌を打った。




「お前等が笹森の所に行ってる間に、先代のペリドットに会ったんだ」

「先代?」

「ああ。近江さんの友達だって言うからよぉ」




 立花は忌々しげに舌を打った。

 国家公認の殺し屋、ペリドットは襲名性で、基本的にはスカウトで雇われる。以前、立花が言っていた。




「ペリドットは国家の犬で、超法規的措置の一つだ。だが、今のペリドットは違う。復讐者だ」

「……ああ」

「何か知らないかと思って話を聞きに行ったんだけどよ、元気過ぎる爺さんでな、彼方此方あちこち連れ回されたんだよ」




 そういえば、あの時、電話口の立花は酷く疲れていた。元気を持て余した老人の暇潰しに付き合わされていたのか。

 立花には内心でご愁傷様と言っておき、翔太は先を促した。




「ペリドットは元々フリーの殺し屋だった。それが国家からスカウトされて、ペリドットの名を継いだ。だが、奴は国家の為に動いてない。……俺には、ペリドットの目的が分からねぇ」




 ペリドットは復讐者――。

 それは、何に対する復讐なのか。




「国家、とか……」




 翔太が言うと、立花は軽く笑った。

 しかし、翔太にはそれ以外のことは想像出来なかった。彼の家族は公安絡みの人体実験の被害者である。そんなペリドットが、公安にいるというのは、意味があるはずだ。


 何をするつもりなんだ?

 どうやって復讐する?

 一個人が国家を相手に何が出来る?


 その時、携帯電話が震えた。メッセージが届いていた。

 ミナから、英語で礼が来た。電話ではなかったということは、やはり忙しいのだろう。


 立花は思案するように窓の向こうを眺め、それ以上は何も語らなかった。

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