⑽明けの明星

 BMWは新車のように、泥汚れや傷の一つも無かった。

 修理工場から帰って来たばかりの車に乗り込み、翔太たちは大阪に向けて出発した。夜の街は下品なネオンライトに照らされ、夜行性の人間達が餌を求めて彷徨さまよっている。


 立花はハンドルを握り、深く思案しているかのように黙り込んでいた。その集中は尖った硝子片のようで、声を掛けることすら躊躇ためらわれる。


 翔太は助手席で地図を眺めていた。都市部を中心に広がる数多の道はまるで人体の血管のように見えた。高速道路は動脈となり、枝分かれしながら各地に繋がっている。


 立花の車にはカーナビも付いていたが、機械に頼り切るのは何となく怖かった。自分がこれから何処へ行くのか目で見て確かめていないと、帰り道を見失いそうな気がした。


 高速道路のゲートが見える。

 テールランプが消えて行く様は、巣穴に帰るありのように見えた。料金所で支払いが必要なのかと身を起こしたが、ETCが付いていると立花に言われた。自分がやることは何も無いらしい。


 何か出来ることは無いだろうか。

 フロントミラー越しに後部座席を見る。ミナはシートに凭れ掛かり、ぼんやりと車窓を眺めているようだった。

 車内は静かだった。立花が何の気紛れか、有線ラジオを付けた。流れ出す静かなバラードに、ミナが顔を上げる。海外で有名なロックバンドらしい。


 ミナの携帯電話が鳴ったのは、その時だった。

 冷めた口調で、ペリドットだよと告げる。時刻は深夜零時。時間帯もタイミングも発信者も、全てが不安要素だった。

 車はゲートを越え、高速道路に乗った。辺りは防音壁に囲まれた殺風景なものになり、幾つもの車が水のように流れて行く。




「レンジ、高速を下りよう」




 後部座席から身を乗り出したミナが、焦燥感を滲ませたまくし立てるような声で言った。立花の眉間に皺が寄る。

 車は既に高速に乗ったばかりだ。此処では停車もUターンも出来ない。出口は一方通行の遥か先で、一つの判断の過ちが事故に繋がる。




「何故だ」

「栁澤さんが殺される」

「どういうことだ?」




 栁澤は、確かに暗殺の危険があった。

 しかし、それを阻止する為にミナはペリドットと取引したはずだ。栁澤を抹殺したいと考える鷹派の弱味を掴み、渋谷に託した。自分たちはやるべきことをやった。違うのだろうか。


 ミナは忌々しげに言った。




「栁澤さんは夜中に退院したんだ。そのまま、航空自衛隊の基地に送られてる」

「何で」

「……戦闘機に乗るらしい」




 それこそ、何故だ。

 パイロットは栁澤だけではない。例え、国家の危機であるスクランブルであったとしても、彼が出る理由は無いはずだ。


 しかし、あの時、ペリドットが言っていた。

 俺がやらなくても、どうせ死ぬ。

 、手を出さない。


 ――知っていたのか。


 翔太は愕然とした。ペリドットはあの時点で、栁澤が殺されるのを知っていたのだ。自分が直接手を下さなくても、国家が彼を抹殺すると。

 栁澤は、青島が調べていたことを知っていた。彼等の存在は邪魔だった。


 しかし、もう無理だ。

 自分達がどんなに急いで向かっても栁澤の元には行けないし、今から国家の陰謀を止めることは出来ない。栁澤は覚悟を決めて死地へと向かったのだ。もう誰にも、何も出来ない。


 ペリドットなら、間に合うか?

 いや、ペリドット自体が敵のカードだ。どうすれば良い。このまま栁澤が死ぬのを待っていることしか出来ないのか。




「……ちょっと、寄り道するぞ」




 そう言って、立花はハンドルを切った。

 行き先は大阪ではない。向かう先にあるのは、航空自衛隊基地だった。




「此処で栁澤が死んだら、青島は無駄死にだ」




 そうだ。栁澤は、生き証人なのだ。

 航空自衛隊幹部の汚職が明るみに出たって、蜥蜴とかげの尻尾切りだ。また同じように悪は蔓延する。


 交通事故で家族を亡くした遺族、古海ふるみが言っていた。


 ――被害者が負けたり、譲ったりしたなんて前例は作っちゃいけないと思った。


 誰かが歯止めを掛けなければならない。例えそれが無駄な足掻きだったとしても、黙って指を咥えて見ていては同じことの繰り返しだ。あんな思いはもう、御免だった。


 後部座席からキーボードを叩く凄まじい音がする。暗い車内でブルーライトに照らされたミナは、死人のように青白い。


 立花がミナを呼んだ。




「マスコミをき付けろ。渋谷も使え。凡ゆる方法で、基地周辺に注目を集めろ」

「今からマスコミを動かしたって止められない!」

「良いから、やれ」




 有無を言わさぬ強い口調だった。

 ミナは一度頷くと、再びパソコンに目を落とした。




「翔太、地図は頭に入ってんな?」

「ああ」

「運転は出来るか?」

「ええ?!」




 代われ。

 直線道路に差し掛かるタイミングで、立花はシートベルトを外した。時速100kmを超える車内で本当に運転を代わるつもりらしい。

 立花は何かする気だ。ミナは動けない。

 翔太は頭の中で、これまで見て来た立花や幸村の運転を思い返した。


 細かい技術はいらない。

 最低限、事故を起こさない程度の運転が出来れば良い。

 立花がシフトレバーを跨ぐ。翔太は冷や汗が止まらなかった。ハンドルを握るのは、正真正銘、これが初めてだった。


 立花が言った。




矢倉囲やぐらがこいだ」

「I got it」




 ミナが言った。

 翔太はハンドルを握った。景色が凄まじい勢いで流れて行く。指先が氷のように冷たかった。足元の感覚が無い。左右を走る乗用車がまるで弾丸のように駆け抜け、今にも自分にぶつかって来るんじゃないかと思うと腰が抜けそうだった。


 冷や汗が止まらない。体中の血液が逆流しそうだった。

 自分の間違い一つで立花もミナも死ぬ。自分が運転しているはずの車が、凶暴な鉄の塊に思えた。

 道路は直線だ。アクセルを踏んだまま、ハンドルはいじらなくて良い。手の平に汗が滲んで、今にも手が滑りそうだ。


 その時、頬に冷たい風が勢いよく吹き付けた。

 助手席に移動した立花が窓を開けたのだ。同時に、辺りが日没を迎えたように少しずつ暗くなる。周辺地区、高速道路の灯りが消えて行く。けれど、遥か前方にあるコンクリートの箱が薄ぼんやりと照らし出されるのが見えた。


 航空自衛隊基地である。翔太達の位置からは丁度直線で見下ろす形になっていた。辺りが闇に包まれると、その建物は不自然にぽっかりと浮かんで見えた。


 立花が窓から身を乗り出す。振り返る余裕は無かった。




「何してんだ!」




 翔太が叫ぶと同時、すぐ横を大型のトラックが嵐のように通り過ぎて行った。身を裂くような寒風にハンドルが鈍る。まずい、と思った時、後部座席から腕が伸びた。

 ミナだった。小さな手がハンドルを支え、そっと元の位置に戻してくれる。


 蝋が溶けるように、不安が消えて行くのが分かる。

 翔太が横を見遣ると、助手席の窓から立花が体の殆どを乗り出していた。何かを持っている。黒くて長い、棒状の何か――。




「スムラク?」




 スナイパーライフル。

 界隈は停電し、基地だけがライトアップされたように明るい。上空からヘリコプターの音がする。だだっ広い滑走路に、F2戦闘機が動き出すのが見えた。


 栁澤が乗っているのだろうか?

 分からない。分からないが、まさか、立花は此処から狙撃するつもりなのか?

 時速100kmで走る車の中から、遥か先の戦闘機を止める為に?




「降着装置を狙って。ミサイルを積んでる」




 ミナが言った。

 ミサイル。頭がおかしくなりそうだ。

 戦闘機ということはミサイルを積んでいるだろうし、燃料も詰まっている。銃弾で撃ち抜いたら大惨事だ。

 立花は返事をしなかった。吹き飛ばされそうな豪風を浴びながら、その体は銃身を構えて微動だにしない。


 高速道路の直線が終わる。カーブに入ったら基地は死角になる。けれど、停止すれば追突される。

 神経がやすりで削り取られているみたいだ。


 間に合うか?

 当たるのか?


 破裂音が数発と、耳鳴りのような高音が夜空を引き裂いた。

 舞台上のように明るい滑走路で、F2戦闘機が不自然に傾き、右に旋回する。火の手は上がっていない。数瞬遅れたサイレンが鳴り響き、上空のヘリコプターが基地目指して動き出す。


 立花はスムラクを握ったままシートに戻ると、翔太の足ごとブレーキを踏み、ハンドルを切った。

 車は速度を落として緩やかにカーブを曲がった。そして、路肩の非常停車帯に着くと、静かに停まった。


 立花はシートから身を乗り出し、後部座席を見た。ミナは膝の上に開いていたノートパソコンを向けた。自衛隊基地の様子が上空カメラにより生中継されている。栁澤の乗っていたと思われるF2戦闘機は滑走路に停止していた。


 緊急速報が流れる。

 自衛隊基地で事故発生――。


 酸素マスクを装着したパイロットが、仲間に支えられながら降りて来る。意識はあるようだった。その足が滑走路に降り立つ。画像は荒いが、其処に映っていたのは、確かに栁澤だった――。


 痺れるような安堵が体中に広がって、翔太はシートに思い切り体を預けた。たった数分。けれど、余りにも密度の高い時間だった。


 立花は懐から煙草を取り出した。

 夜風からライターの火を守りながら、煙草の切っ先に点火する。紫煙が風に乗ってあっという間に散って行く。




「That's great」




 車から降りたミナが、拳を向けた。立花は面倒臭そうに顔をしかめ、溜息混じりにそれに応えた。

 いつの間にか街には灯りが戻っている。一時的な停電だったらしい。


 周囲を停電させて基地を照らし、マスコミを集める。

 衆人環視の中で、離陸直前の戦闘機の降着装置をピンポイントで狙撃。己の目で見なければ、にわかに信じ難い芸当だった。


 しかし、これで。

 これで、栁澤は助かった。青島の無念は晴らされた。彼の娘もきっと。




「良かった……」




 翔太がその場にしゃがみ込むと、ミナが肩を叩いた。

 行こう、とミナが微笑む。翔太は頷いて、立ち上がった。












 13.夜明け前

 ⑽明けの明星












 凛とした静けさが、早朝のサービスエリアに広がって行く。

 一仕事終えた達成感と程良い気怠さが体に染み渡って、睡魔が瞼を重くする。東の空が白んで、夜明けを迎えようとしていた。


 ハンドルを握りっぱなしだった立花は、仮眠すると言って翔太とミナを車から追い出した。薄暗い車内で立花はシートを倒し、目を閉じていた。本当に寝ているのかは分からないが、確かに疲労の色は見て取れた。


 ミナに連れられてサービスエリアのフードコートに向かった。店は殆ど開店前だったが、準備中の立ち食いうどん屋が気を利かせて一杯ずつ提供してくれた。


 並んでうどんを啜りながら、ミナは何かを考えているようだった。この所、色々なことが立て続けにあったから、立花もミナも疲れているのだろう。この状態で大阪の笹森一家の元に行き、今度は中国の密輸ルートを潰さなければならないのだ。


 フードコートの端に古いテレビが置かれていた。

 昨夜の自衛隊基地周辺で起きた停電のニュースと、戦闘機の事故について記者会見が行われている。停電はシステムのエラーで、既に復旧しているとアナウンサーが言っていた。


 そして、自衛隊上層部による記者会見では、パイロットの名前を伏せていた。公表出来るはずも無い。事実は闇に葬られ、人々は真実を知らされない。


 栁澤は暫く無事だろうとミナが言った。

 このタイミングで暗殺するのは不自然だし、リスクが高い。やるなら、人々の関心が薄れた頃、秘密裏に行われるだろうと。


 けれど、死なせる為に助けたのではない。その時にこそ、青島の切り札が役立つはずだ。複製データを渋谷がどのように使うのかは分からない。原本があるとは言え、翔太は人の善性と言うものを願わずにはいられなかった。




「前のレンジなら、切り捨てろって言ってた」




 うどんを食べ終えたミナが、物欲しそうに汁を眺めて言った。見かけに寄らず、大飯食らいの子供である。足りなかったのだろうが、生憎あいにく、どの店も開店準備に忙しい。


 丸くなったねぇ、と微笑んでミナは汁を飲み始めた。翔太は分けてやりたかったが、どんぶりの中は空だった。




「公安が動くよ」




 不意に不穏な単語が出て来て、せそうになる。

 ミナは空になった丼を机に置いた。




「公安もきっと一枚岩じゃない。誰が敵なのか、分かるだろう」

「ペリドットのことか?」

「ペリドットに指令を出しているのは、恐らく公安の何処かだと思う。或る程度の権限と自由があるんだろうね。……国家公認の殺し屋なんて、本当は向こうの切り札の筈なんだから」




 確かに、その存在の重要性は立花のようなフリーの殺し屋よりも重いはずだった。きっと、彼も色々な不条理を飲み込んでいるのだろう。そう思うと、あんなに恐ろしかったペリドットが、急に人間味を帯びて来る。




「なあ、ミナ」

「何?」




 声を掛けると日本語で返って来る。立花が丸くなったように、ミナもこの国に馴染んで来たのだろう。それが何となく、嬉しかった。


 翔太は濃褐色の瞳を見詰め、そっと問い掛けた。




「後戻り出来なくなるぞ。……お前、本当にそれで良いの」




 この子供がいなければ、凡ゆる計画が立案されることもなく頓挫とんざし、悪人は蔓延はびこり、遺族は悲しみに暮れ、何処にも救いは無かったのだろう。だけど、代償は無いのか。


 家族が大切だと彼は言う。では、その家族はどう思っているのか。このままどんどん闇の中へ歩いて行って、後悔しても帰りの道は無い。


 自分とこの子は違う。待っている家族がいて、帰るべき場所があって、明るい未来がある。今のままでは、その全てを失ってしまうのではないか。


 ミナが言った。

 ショータは優しいね、と。




「俺は家族が、友達が大切だ。笑っていて欲しい、幸せでいて欲しい。守るには、力が要る」




 分かっている。

 この子が欲しいのは、金でも権力でもない、大切な人を守る力なのだ。どんな道であっても、この子は進むのだろう。

 大切なものがあるから頑張れるし、帰り道を知っていても引き返さない。


 子供が子供らしくいられる世界。

 ミナが言っていた。彼はそういう世界に生きていない。

 この子は最悪の事態に備えて、最善を尽くしている。独善であったとしても、自分の信念を貫こうとしている。其処に他人の同情なんて、初めから必要無かったのだ。




「余計なこと言って、悪かったな」

「ねぇ、ショータ」




 ミナは身を乗り出すように机に肘を突き、小首を傾げた。




「前に、復讐は悪いことなのかって訊いたね」

「ああ」

「俺は、否定もしないけど、肯定もしないって答えた。でも、今はそう思わない」




 ミナは微笑んでいた。

 出会った頃と同じ、天使の微笑みだった。




「俺は君に幸せでいて欲しいし、君に生きていて欲しいと思う。……復讐は負の連鎖だ。君を其処に巻き込みたくない」




 ミナはまるで、叱られる前の子供みたいだった。

 以前、彼の双子の弟にも言われた。復讐について、ミナトは止めそうだな、と。

 彼の中では既に答えは出ていたのだろう。だけど、今まで言わなかった。それは、翔太の為だった。




「君の未来を守りたい」




 どうやって、と翔太は意地悪く思った。

 家族も無く、帰る家も無く、薬物漬けで、どのくらい生きられるかも分からない。今日明日どうなってしまうのか分からない自分に、未来なんてものがあるとは思えなかった。


 だけど、この子はその薬の抑制薬よくせいざいを開発しようとしている。そして、エンジェル・リードという個人投資家でもある。裏社会ではなく、日の当たる真っ当な道を作ろうとしている。


 エンジェル・リード――天使の導き。

 それはきっと、最後の受け皿なのだ。


 立花が言っていた。

 お前の最大の幸運は、ミナに拾われたことだと。

 そうなんだろう。自分のような行き場の無い底辺の人間にも、ミナは手を差し伸べてくれる。


 自分の未来を願ってくれる人がいる。

 それがどんなに幸福なことなのか、翔太は痛い程に知っていた。


 その時、フードコートの自動ドアが開いて、長距離運転手みたいな男達が入って来た。開店準備を終え、どの店も活気に満ちている。騒がしくなって来た。

 翔太は席を立った。ミナが何か言いたげに見て来るので、肩を叩いた。




「お前が俺の未来を守るってなら、俺がお前の道を切り開く」




 少しでも救いのある未来を。日の当たる道を。

 泥沼の中を這いながら前進するこの子の為に、自分に出来ることを。


 自動ドアを潜った時、山々の向こうから金色の朝陽が昇って来るのが見えた。光の領域が徐々に広がり、闇が後退して行く。夜明けだ。

 ふと横を見ると、ミナの濃褐色の瞳に朝陽が映り込んできらきらと輝いて見えた。ミナは心を奪われたように動かない。


 駐車場の奥、黒いBMWの前で立花が待っていた。

 欠伸あくびを噛み殺す姿を見て、待っていてくれたのかな、なんて思ったら、何だかおかしかった。

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