14.正義の所在

⑴鬼の霍乱

 閑静な住宅街にどっかりと腰を据える、純和風の家屋。

 大阪某所、笹森一家の総本山は、開け放たれた大きな門構えとは裏腹に、来客を選別するかのような拒絶と警戒を滲ませている。


 笹森一家は、所謂いわゆる、関西一帯のヤクザを取り仕切る親元である。警察でも迂闊うかつに手が出せない程の歴史と権力、地域からの信頼を持っているとされる。

 開け放たれた門扉の向こうでは、明らかに堅気でない屈強な体付きの強面こわもての男達がちらほら見掛けられる。普通の神経ならば、この道は避けるだろう。


 翔太は門扉の前に立っていた。男達の射抜くような視線を受けながら、隣のミナを見下ろした。その内、敷地内の男が肩を怒らせながらガニ股で歩み寄って来た。トラブルの予感にうんざりし、翔太はミナを庇うように前に進み出た。




「笹森さんに会いに来たんだ。約束してる」




 翔太の背中から顔を覗かせて、ミナが言った。

 威嚇いかくするように睨んで来た男は、はと豆鉄砲まめでっぽうを食らったような顔をした。けれど、すぐ様、威圧的な態度に変わり、関西特有の訛りのある言葉で恫喝した。




「自分等みたいなガキを入れるはずあらへんやろ!」

「じゃあ、名前を伝えてくれ。それで分かるはずだから」




 本物のヤクザ相手に一歩も退かない度胸は、正直、翔太にはよく分からない。鈍感なのか大物なのか、ミナは怖いもの知らずである。

 流石に翔太まで一緒になって注文を付ける訳にはいかないので、ミナの肩を叩いた。




「電話してみろよ。その方が早い」

「何で? 事前に約束して、時間を守って、玄関まで来てるのに?」

「良いから」




 ミナは口を尖らせて、渋々と携帯電話を取り出した。ミナが電話を掛けている間も男は蛇蝎だかつの如く睨んで来たので、翔太は目を逸らすべきなのか、睨み返すべきなのか分からなかった。


 その時、門扉の向こうから電話の呼び出し音が聞こえた。翔太とミナ、そして門番の如く立ち塞がる男が顔を上げると、着物を纏った一人の男が腹を抱えて笑っているのが見えた。




笹森ささもりさん」




 ミナが呼ぶと、笹森春助は軽く手を上げて応えた。門番は先程までの高圧的な態度を一変させ、さっと頭を下げた。笹森が親しげに声を掛けると、門番は少しだけ表情を和らげたが、腰を折ったままだった。


 笹森は翔太とミナを順に見遣ると、腕を組むように両手を袖の中に入れ、仮面のような笑顔を貼り付けた。


 悪かったな、と少しだけ眉を下げ、笹森は屋敷の中へ迎え入れてくれた。門番はまだ信じられないかのように此方を睨んでいたけれど、ミナが英語で謝ると、毒気が抜かれたのかきょとんとして、それ以上は睨んで来なかった。


 屋敷は高い塀で囲まれており、内部はまるで寺の境内のように広い。笹森に促されるまま玄関に向かい、引き戸の向こうの三和土たたきで靴を揃える。その間も強面の男達がうろついていたので、翔太はちょっと緊張した。


 以前、案内された客間に連れられ、翔太はミナと一緒に下座しもざへ座った。何となく、そうした方が良いと思った。この屋敷を徘徊はいかいする男達の神経を逆撫でしたくなかった。


 お茶が運ばれて来ると、ミナが微笑んで礼を言った。運んで来たのも当然、ヤクザである。自分ならこんな所にいたら半日で体調がおかしくなるだろう。

 御茶請けを運んだ男が退出し、ふすまが閉じる。ミナは子供のように手を振って、そのまま穏やかな声で言った。




「どうしてあんなに警戒してるの?」




 笹森は座椅子の背凭れに体を預け、口元だけで微笑んだ。

 警戒。それは、翔太も感じた。以前の笹森一家の様子と違うのだ。表面上は静かで平和的なのに、その下に地雷でも埋め込んでいるような緊張を感じる。


 廊下を行き来する男達の中には、銃を持っている者もいた。此処が普通の場所ではないことをかんがみても、まるで、敵襲に備えているみたいだった。


 笹森は茶を一口だけ啜り、肩凝りをほぐすように関節を鳴らした。彼は立花と同じくらいの年齢だったはずだが、忙しいのだろう。




「FXでごっつ儲けたみたいやな。使い道は決まってるんか?」




 笹森は、ミナの質問には答えないつもりらしかった。

 ミナは濃褐色の瞳を僅かに眇めると、鼻で笑った。




「安い演技はやめなよ。知ってるだろ?」




 笹森は笑っている。

 知っているとは、どういうことか。

 ミナは若い芸術家に資金援助する投資家でもある。起業するに当たり、その元手を貸してくれたのは笹森である。


 エンジェル・リードのことを話したのは、レンジとショータだけなんだよ。

 以前、ミナが言っていた。では、笹森は知らないはずだ。――やはり、情報の流出源は。


 ミナは姿勢を正して、笹森を見詰めた。




「今一度、訊かせて欲しい。貴方は俺の敵か?」




 静電気のような緊張が走った。対峙する二人は眉一つ動かさない。笹森は灰皿を引き寄せ、緩慢な動作で煙草に火を点けると、勿体ぶるように煙を吐き出して、言った。




「味方や」




 その瞬間、ミナが僅かに肩を落とした。

 この子は他人の嘘を見抜ける。笹森は嘘を吐いていなかったのだろう。




「自分がなんぼ儲けたのか、こっちはちゃんと把握してるんやぞ。でかい金額が動けば自分や思うで」

「そんなに分かり易かった?」

「自分がどういう人間か知っとったら分かるやろうな。寄付やら個人投資やら、自分のやりそうなことやんけ」




 なるほど、笹森はミナを見張っていたのではなく、性格や行動から推察したらしい。

 エンジェル・リードがどのくらいの資産を持っているのか知らないが、確かに、話題性に事欠かない派手な活動をしていたのだろう。


 笹森がエンジェル・リードとミナを結び付けた理由は分かった。ミナは安心したのか茶を啜り、熱いと言って舌を出した。




「それを誰かに言った?」




 湯呑みに息を吹き掛けながら、ミナは問い掛けた。

 笹森は片眉を跳ねさせ、少し身を乗り出した。




「どういうことや?」

「或る情報屋が、俺の資産や活動を知っていて、脅しに来たんだ。情報の流出源を掴みたい」

「……自分、ほんまにいらんことばっかりせんといてや」




 笹森は溜息を吐いた。

 エンジェル・リードが脅迫のネタになってしまったら、それは笹森一家にも影響してしまうのだ。ミナの行動自体は決して違法ではないけれど、元手をヤクザから借りたとなると印象が大変悪い。


 笹森は机に手を突いて、身を乗り出した。




「自分に貸した金は、俺のポケットマネーや。経理士も関与してへん」

「なるほど」

「なるほど、やないわ。言いたいことあるやろ。ちゃんと言え」

「だって、俺が言ったら怒るだろ」




 ミナは困ったみたいに眉を寄せた。

 かなり不穏で深刻な話をしているはずなのに、緊張感が無い。

 ミナは少しばかり真剣な顔をして、静かに言った。




「内通者がいるよ」




 机の上に置かれた笹森の手が、拳を握った。

 表情は忌々しげに歪められ、今にも拳を振り上げそうだった。翔太は机を引っ繰り返されないように脚を押さえ、いざとなったら逃げられるように襖の向こうに意識を向けた。


 ミナは座布団に胡座を掻き、目を眇めた。




「青龍会と繋がりを持ってる?」

「何でや」

「この前、売春斡旋グループの摘発に協力したんだけど、それが青龍会の下っ端だったんだ。そいつ等は危ない薬も売りさばいてる。流通経路を調べたら、出所は大阪だった」




 笹森は身を引くと腕を組み、黙り込んだ。

 眉間にぎゅっと皺が寄っている。ミナは退屈を紛らわすみたいに体を前後にゆらゆらと揺らしながら、言った。




「俺は身に掛かる火の粉は振り払う。それが笹森さんの身内であってもね」




 穏やかな口調に反して、ミナの視線は白刃のように鋭かった。笹森は何も言わない。何かを思案しているようにも、言葉を失くしたようにも見えた。


 笹森は気を落ち着けるように煙草を吹かした。




「仮に――、うちに裏切り者がおったとして。そいつが青龍会と関係してるって何で分かるんや」

「捕まえてみれば分かることさ」




 何だか、ややこしくなって来た。

 翔太は襖の向こうに気配が無いことを確認し、二人の話に意識を戻した。


 確かに、タイミングを考えると無関係とは思えない。

 笹森一家に潜んだ内通者が、ミナやエンジェル・リードのことを調べ上げ、情報屋の渋谷に流したのだ。

 その内通者が何者かは、分からない。勿論、無関係の可能性だってある。その辺の根拠が無いことは、ミナ自身は分かっているだろう。ただ、ミナのその言い方では、敵を作る。




「俺達は、最悪の事態を想定しているだけだよ。アンタ等を疑いたい訳じゃない」




 翔太が言うと、笹森は少し驚いたみたいに目を丸めた。

 ミナが力無く笑ったので、軽く肩を叩いた。この所、ミナはずっと気を張りっぱなしだ。言葉が足りなくて、刺々とげとげしいのも余裕が無いせいだろう。本来はもっと、相手に寄り添った言葉を選べるはずだ。


 翔太は、そんな時があっても良いと思う。そして、そんな時に自分が側にいられたことが、少し嬉しかった。




「此処が無関係で、内通者なんていなかったなら、それで良い。ただ、もしも此処にいる内通者が青龍会やSLCと繋がっていたとしたら、俺達も対応を変えなきゃいけない」

「自分、ただの犬やなかったんやな」

「うっせぇ」




 翔太が笑うと、机の下でミナが袖を引いた。

 囁くような小さな声で、ありがとうと言った。

 別に、このくらい。翔太は笑った。ミナの表情から硬さが少し取れていたので、翔太は密かに安堵した。


 翔太はミナを指差し、笹森を見遣った。




「こいつ、ちょっと気が立ってんだよ。物事を悪い方に考えちまう。でも、別にアンタに喧嘩を売りたい訳じゃねぇ。そうだろ、ミナ?」




 ミナは力無く笑った。

 その時に気付いたのだが、顔が真っ赤だった。緊張が顔に出るタイプではないし、もしかして。


 しかし、ミナは毅然と背筋を伸ばして言った。




「笹森さんには、恩がある。今度は俺が力を貸す。貴方の家族を、俺に守らせて」




 いつものミナらしい。だが、何となく嫌な予感がした。

 笹森は煙草を消し潰すと、座椅子に凭れて笑った。




「ええで」




 笹森の声は、自信に満ちていた。カリスマ性とでも言うのか、その声を聞くと何処までも信じてみたくなる。

 猫のように笹森が背伸びをする。さあ、何から取り掛かろうか。笹森が言った、その時だった。


 ミナの体がぐらりと傾いて、畳の床に倒れる。その瞬間、翔太は全身から血の気が引くような転落感に襲われ、まるで膜に包まれたみたいに現実感を喪失してしまった。















 14.正義の所在

 ⑴鬼の霍乱かくらん












「39.4℃……」




 体温計を片手に、笹森が言った。

 客間でいきなり倒れたミナを、座敷の奥の布団に寝かせた所だった。ミナは真っ赤な顔で、額に大粒の汗を幾つも張り付けていた。呼吸は不規則に荒く、喉の奥から呼気の抜ける嫌な音が聞こえる。




「お医者さん呼んだるさかいな。大人しゅうしとけ」




 笹森はそう言って、ミナの頭を撫でた。

 酷い汗だった。部下らしき男が水を張った桶と手拭い、氷枕を持って来てくれた。よく見ると門番の男だった。最初の敵意は何処へ行ったのか、うなされるミナを気の毒そうに、とても優しい目で見ていた。


 翔太は布団の側に正座して、意識の無いミナを愕然と見ていた。何も出来ることが無いということが、一番辛かった。


 何かの病気なのだろうか。それとも、ただの疲労?

 自分に何か出来るのか?

 このまま目を覚さなかったら?

 そもそも、此処に寝かせておいて良いのか?

 嫌な想像ばかりが膨らんで、翔太はその場から一歩も離れることが出来なかった。




「疲れたんやろ。寝かせたれ」

「……ああ」




 けれど、翔太はその場を動かなかった。

 此処は事務所じゃない。敵地かも知れない。隙を見せるのは、怖かった。




「こいつの家系は病気に滅法強い。大抵は寝とったら勝手に回復するで」

「……よく知ってんね」

「子供の頃からの付き合いやで? まあ、こいつはあんまり覚えてへんみたいだけど」




 笹森は手拭いを固く絞ると、ミナの汗を拭いてやった。


 彼等の祖父は親友らしい。その縁で、ミナが幼い頃には一緒に過ごしたこともあるらしいが、年齢が離れていたことや、言葉が通じなかったことからそれ程、親しくは無かったそうだ。


 ミナはコネクションを確立しようとしているが、実際の所、父親がこの国出身の英雄なので、わざわざ危ない橋を渡らなくても協力者は多いそうだ。


 父親のコネクションがとても大きいのだ。弁護士であったり、警察であったり、元メジャーリーガーであったり、巨大企業の社長であったり、錚々そうそうたる顔触れである。ただ、ミナは父親を頼りたくないようだった。反抗期なのかも知れない。




「泣かへんし、逆らわへん子供やったな」

「逆らわない?」

「なんやろうな、あれ。いつもなんかしら我慢してるように見えたで。弟とはめちゃくちゃな喧嘩しとったけど」




 何となく、想像出来る気がした。

 この子は理不尽や不条理に堪えられる子供だ。それが今では他人である立花に真っ向から反発しているのだから、良い傾向だったのかも知れない。




「暫く動かさへん方がええ思うねん。こいつが起きるまで、此処におるか?」

「……取り敢えず、立花に連絡する。迷惑掛けられないしな」

「迷惑ちゃうで。歳の離れた弟みたいなもんや。ずっと此処で寝とってもええ」

「ありがと」




 少し肩の力が抜けて、翔太は立ち上がった。

 正座しっぱなしだったので足が痺れていた。


 誰が敵かは分からない。何を信じたら良いのかも。

 でも、笹森は信じて良い人間だ。内通者の存在は気になるけれど、笹森がいる限りは手出し出来ないだろう。


 電話して来る、と言い置いて、翔太は部屋を出た。板張りの長い廊下の向こうに、枯山水の庭が広がっている。鹿威ししおどしが鳴り響き、初夏の風が頬を撫でた。


 携帯電話を取り出し、立花の番号を呼び出す。

 今頃、何をしているだろう。怒るだろうか、呆れるだろうか。いや、きっとぶっきら棒で分かり難く心配するだろう。

 電話口の立花を想像し、翔太は苦く笑った。


 その時、廊下の向こうからスーツ姿の男が顔を覗かせた。笹森一家の者だろう。四十代も後半くらいの、何処か廃退的な雰囲気を纏った黒髪の男だった。


 落ち着いたテナーの声が、ミナのことを心配した。

 訛りの無い標準語だった。翔太が大丈夫と答えると、男はそっと微笑み、きびすを返して去ってしまった。翔太はその背中が見えなくなるまで待った。


 歩き方で分かる。――銃を持っていた。

 何者だろう。後で笹森に訊いてみようか。

 そんなことを考えている内に、立花と電話が繋がったので、それ以上のことは思考から締め出してしまった。

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