⑼跳梁跋扈

 事務所の中は異様な静けさに包まれていた。

 窓の向こうから聞こえる小鳥のさえずり、秒針の音、コーヒーを飲み下す喉の音、新聞をめくる音。普段なら気に留めないような些細な物音がやけに耳に付き、空気が張り詰める。


 立花は定位置に座り、コーヒーを啜っている。その側には黒く長い革のケースが立て掛けられ、とても静かであるが臨戦態勢であることは明白だった。


 ミナはソファに膝を立てて座り、目を閉じて何かを考えているようだった。高次元の集中状態は、呼吸すら感じられない。


 翔太は、ブラインドの隙間を覗いた。街は茜色に染まり、黒い鳥の影が夕焼けを横切って行く。人気ひとけは無い。まるで、人々が世界最後の日を祈りながら家族で過ごしているような、そんな穏やかで静かな空気が流れている。


 ノックの音が転がったのは、午後五時を過ぎた頃だった。

 立花がマグカップを置き、ミナが目を開ける。翔太は窓辺から客人が入って来るのを、ただ待っていた。

 客人は返事も聞かず、陽気な足取りで事務所に足を踏み入れた。


 リクルートスーツをラフに着崩し、艶やかな黒髪を風に流しながら、渋谷・ロクサーナ・初音は現れた。褐色の肌は健康的な印象を受けるのに、黒曜石のような瞳は無機質に暗く見えた。




「出迎えも無しかい?」




 渋谷は扉の前で腕を組んだ。

 露出した胸元を強調するような姿勢に、翔太は目を逸らした。渋谷が笑うと耳元の金色のピアスがゆらゆらと煌く。

 ミナは感情を削ぎ落とした冷たい無表情だった。だが、振り返った時には天使の微笑みで渋谷を迎え入れた。


 渋谷は意味深な笑みを浮かべたまま、扉の近くの椅子に座った。スカートのまま長い脚を組み、渋谷がハイヒールで床を叩く。




「世間話をしたい訳じゃなんだよね? あたしは情報屋だ。どんな情報が欲しいんだい?」

「気が早いね。この後、何か用事でも?」




 ミナは立花の机に寄り掛かり、腕を組んだ。

 渋谷の眉間に皺が寄るのが、微かに見えた。無条件の脅しである。敵になるのなら、いつでも立花がお前を殺すと脅迫している。


 そういえば、情報屋の品川が言っていた。

 渋谷はハヤブサが大好きだと。

 冗談の類だと思っていたが、もしかして。




「そうだね。あたしも暇じゃない。呼び出したからには、相応の価値のある取引なんだろうね?」




 ミナは薄く笑った。




「飼い犬に餌をあげようと思ってね。飢死うえじににさせるのは可哀想だから」




 そう言って、ミナはうっとりと微笑んだ。

 渋谷は背凭れに体を預け、溜息を吐いた。




「昨日の夜の航空事故の真相と、上層部の汚職データを持ってる」

「へぇ。それは勿論、裏が取れてるんだよね?」

「裏も取らずに取引する三流とは違うんだよ。これは、死んだ青島さんの切り札だ」




 黒曜石の瞳が鋭利に光る。

 反応で分かる。渋谷はそのデータの重要性を知っている。

 青島の切り札、航空自衛隊幹部の汚職の証拠。これが暴露されると、鷹派の大御所、氏家うじいえ議員まで火の手が及ぶ。


 出来るなら、正規のルートで世間に暴露し、しかるべき処罰を受けて欲しいと思う。だけど、ミナにはそれを潰してでも欲しい情報がある。




「マスコミに売れば巨額の金になり、当事者たちに渡せばコネクションになる」




 渋谷は懐から煙草を取り出した。

 灰皿を出すべきかと思ったが、渋谷は携帯灰皿を持っていた。




「……それで? 何が欲しいの?」

「分かるだろう?」

「……」




 渋谷は深く煙を吐き出した。翔太は立ち上がり、給湯室の換気扇を回した。戻って来た時、渋谷が言った。




「それをアンタにあげるには、報酬が足りない。青島の切り札も魅力的だけど、あたしが欲しいのはじゃないよ」

「……初めて会った時も言ってたね。俺の何が欲しいの?」




 渋谷は灰皿を叩いた。

 僅かに身を乗り出した渋谷は、冷たく歪んだ顔で笑っていた。




「アンタの持ってる切り札さ。アンタは青龍会にパイプがある。誰かに何かを運ばせたね? あたしが欲しいのは、それさ」




 煙草の切っ先を突き付けて、渋谷は笑ってる。

 翔太には、何のことか分からなかった。立花は知っているのだろうか。ミナは完璧なポーカーフェイスで、感情の機微など読み取れはしない。




「……ショータ、扉に鍵を」




 いきなり呼ばれたので驚いた。翔太は頷きつつ、扉を施錠した。その時になって初めて、内鍵が二箇所増えていることに気付いた。


 何だ?

 何をしようとしているんだ?


 ミナは机から身を起こすと、ポケットに手を入れた。其処から取り出されたのは、外科医が付けているような青い手袋だった。ミナが手袋を装着しながら渋谷に歩み寄る。立花は動かない。




「交渉は決裂だ。……残念だね」




 ミナは携帯電話でも取り出すような自然さで、腰から鈍色の刃を引き抜いた。刃渡りは包丁よりも長い。軍隊で使うような、大振りのナイフだった。


 翔太はぎょっとした。どうしてミナがそんなものを持っていたのか、何に使うつもりなのか分からない。何の為に。


 刃が鈍く発光する。それはまるで、地上を打ち抜く稲妻のように、一瞬で振り下ろされた。


 渋谷の煙草の先が切断され、灰が舞った。息も出来ない強烈な威圧感で、ミナはナイフを握ったまま渋谷を睨んでいる。其処には、寒気がする程の残酷な光が宿っていた。




「最初に言った筈だ。俺はアンタの餌になるつもりは無い。其方が条件を呑まず、口を開かないというのなら、今度はアンタの体に訊くことにする」

「……アンタの欲しがる情報が手に入らないよ?」

退け、ミナ」




 立花が言った。

 定位置から銃口を向け、死神はマネキンのような無表情である。金色の瞳に温度は無く、その指は既に引き金に掛かっている。ミナはナイフを引き抜くと、弾道を空けるように壁へ寄った。




「テメェはこっちの条件を呑まねぇんだろ? 口を割る気もねぇんだろ? じゃあ、もういらねぇよ。邪魔なんだよ」

「……」

「テメェの狙いが何なのかなんて、俺にはどうでも良いことだ」




 立花が言った。




「じゃあな」




 引き金が絞られる、刹那。

 渋谷が呆れたような顔で両手を上げた。




「……分かった。条件を呑むよ」




 しかし、立花は銃を下さなかった。




「何言ってんだ? まだ対等なつもりなのか? もう取引は終わってんだよ。交渉は決裂した」




 それは、侮蔑を極めた冷たい眼差しだった。




「俺達はもう、お前の情報なんざいらねぇと考えている。生かしておく理由が無ェ。……やるべきことは、分かるだろ?」




 立花は決して声を荒げてはいなかった。激昂もしていない。けれど、その金色の瞳にはこの世の地獄を見て来たかのような凄味があった。







 立花は笑みを浮かべていた。それは虫をなぶり殺すように残忍で無慈悲な、悪魔の微笑みだった。

 空気も凍る緊張感の中、渋谷は溜息を吐いた。そして、黙ってミナに向けて何かを投げて寄越した。

 ミナが空中で受け取ると、渋谷は魂の抜けたような力無い声で言った。




「それがあたしの持ってるゼロの研究データの全てだ。嘘かどうかは、アンタには分かるんだろ?」

「……」

「あーあ。折角の金の成る木が」




 渋谷は大きく背伸びをすると、まるで何でもないことみたいに席を立った。

 帰る、と渋谷が言った。振り返った渋谷は、少女のような笑顔を浮かべていた。翔太は黙って鍵を開けた。閉める時は簡単だったのに、どういう仕組みなのか開けるのが難しい。

 翔太が苦戦している間に、ミナが呼んだ。




「ショータ。あれを、渋谷さんに」




 あれって何だっけ。

 翔太は最後の開錠を一旦止めて、ポケットに手を伸ばした。

 不機嫌そうに腕を組む渋谷に、翔太は魚の形をしたUSBメモリを手渡した。

 渋谷は魚型のUSBメモリをかざして首を捻った。




「これは?」

「青島さんの切り札。その複製」




 片手でナイフを弄びながら、ミナが言った。コンバットナイフと天使の親和性の低さに、前衛美術でも見ているような気分だった。




「それは金の成る木だよ。使い方を間違えなければね」

「複製なんだろう?」

「アンタが正しく使えるなら、本物をあげる」




 渋谷は笑った。

 ミナはナイフをさやに戻すと、手を振った。翔太はやっとのことで最後の鍵を開けた。知恵の輪をいた気分だった。

 扉が開くと、渋谷は振り返りもせずに歩いて行った。微かに漂った煙草と甘い香水の匂いが、いつまでも鼻の奥に残った。












 13.夜明け前

 ⑼跳梁跋扈ちょうりょうばっこ











 渋谷のデータを受け取ってから、ミナはパソコンに向かったままだった。鬼気迫る勢いでキーボードを叩いたと思ったら、いきなり長考に入る。どんなデータが入っていたのか知らないが、少なくとも、全くの無駄足では無かったのだろう。


 コーヒーテーブルにはコンバットナイフが置かれていた。

 翔太はそっと手を伸ばし、刃を覗いた。刃毀はこぼれ一つない新品だ。刃は研ぎ澄まされ、鏡のように翔太の顔を映している。


 どうして、ナイフを持っていたのだろう。

 一体、いつから、何の為に。

 渋谷が交渉に応じないことを想定していたのか。そして、その時、彼等はどうするつもりだったのか。


 痛い程に思い知る。

 ミナも立花も、覚悟を決めて生きている人間なのだ。

 彼等は、目的を達成する為なら地獄でも進むのだろう。戻りの道が無いとしても、迷いもせずに足を踏み入れる。


 ペリドットも、ノワールも、渋谷もそうなのだろう。命が大切だなんてことは分かっている。だけど、それよりも大事なものがある。


 その時、ミナが大きく背伸びをした。

 一区切り着いたのか、回転椅子から立ち上がり、そのまま給湯室に向かった。電気ケトルにはまだ湯が入っているはずだ。

 ミナはマグカップを持ってすぐに戻って来た。




「どうだった」




 立花が言った。

 ミナは壁に寄り掛かり、マグカップの中を見詰めていた。




「……投薬記録と、臨床データが入ってた。薬の成分から考えると、脳を破壊する薬だ」

「それで?」

「CTスキャンも残ってた。脳が萎縮いしゅくして、殆ど空洞みたいになってる人もいた」

「……砂月は」




 翔太が問うと、ミナは顔を強張らせた。

 マグカップを持つ手に力が篭る。ミナは泣きそうな顔で、「聞きたい?」と尋ねた。


 翔太は頷いた。此処で逃げたら、真実は永遠に分からない。妹が何をされたのか、どんな状態だったのか。ちゃんと聞いて、受け止めようと思った。

 ミナは言った。




「脳の眼窩皮質と扁桃体の活動は元々低かった。先天的なサイコパスだったんだろうね。でも、薬を投与されてから、前頭皮質が徐々に萎縮してる。……つまり、この子は少しずつ理性を失くし、衝動的になり、考える力を失って行った」




 翔太は目を伏せ、唇を噛み締めた。

 漏れそうな嗚咽おえつを噛み殺し、どうにか踏み止まる。

 分かっていた。予想もしていた。妹は人体実験されたのだ。


 破壊された脳は元に戻らない。

 あの日、血塗れで玄関に立っていた砂月を思い出す。

 両親を殺し、帰宅した自分を待ち構えていた時、砂月はもう、ただの殺人鬼だった。誰にもどうすることも出来なかった。




「人工的な超能力者、強化人間の開発。それを洗脳し、操り人形にしようとしたんだね。軍事応用を考えると、都合が良い」

「……腐ってんな」




 立花が吐き捨てた。

 腐ってる。その通りだ。こんな人を人とも思わない悪魔の実験に父が関わってしまったことも、その大元に国家に準ずる人間がいることも、我慢ならない程、悔しかった。




「ショータの記録もある。君は妹さんと同じ薬を注射されてる」

「……覚えてねぇ」

「予防接種とでも言ったんじゃないかな。医療の普及は平和のいしずえなのに、こんな風に利用されるのは許せないね……」




 ミナは怒りを押し殺すみたいに、震えた声で言った。




「記録上、ショータの脳に異常は見られない。個人差があったのかな。何でだろう」

「俺、大丈夫なの?」




 翔太が尋ねると、ミナは虚を突かれたみたいに目を真ん丸にした。そして、とろけるように微笑むと、穏やかに言った。




「記録上はね。でも、やっぱり検査した方が良い。後遺症が無いとは限らないから。……レンジもね」




 立花は舌打ちした。




「レンジのことはデータには残ってない。統計データがあるだけ」




 立花は何も言わなかった。

 統計データしか残っていない。その意味が、翔太には分かる。SLCにとって、孤児院での人体実験は、詳細なデータにする必要も無い、ただのだったのだ。結果が出ればラッキーで、無ければそれまで。その程度の認識で、孤児院の子供たちは苛烈な拷問とも呼べる人体実験を受けた。


 知れば知る程、残酷な事実が出て来る。

 聞くのは辛かった。けれど、ミナはちゃんと向き合ってる。

 翔太は先を促した。




「ノワールは?」




 翔太が言うと、ミナは眉をひそめてコーヒーを啜った。




「ノワール――、天神新てんじん あらたと、たすくも人体実験を受けてる。かなり小さい時だ。研究は凍結してる。二人が失踪したからだね」

「天神?」

「ノワールとペリドットだよ」

「へぇ。仰々ぎょうぎょうしい名前だな」




 煙草を吹かせて、立花が他人事みたいに言う。

 そういえば、立花はノワールとペリドットの名前を知らなかったのだ。言っても良かったのだろうか。

 そんなことを思っていたら、ミナが言った。




「ノワールとペリドットのお父さんは、SLCの信者だったよ」




 SLCは、独自に開発した新薬を信者へ大量に投与する――。

 翔太は、ノワールから聞いた話を思い出した。

 クソ野郎だった。暴力者だった。いつも殴られて、兄貴が庇ってくれた。――まさか、それは新薬の影響なのか?




「天神家は、父親と息子二人が実験台にされてる」




 ノワールが言っていた。

 母親は自分を産んで死に、親父は強盗に殺された、と。

 報われない人生だ。虚しくて、遣り切れ無い。何処で何を間違えたのか、どうしたら良かったのか、考えれば考える程、彼等の袋小路に息が詰まる。


 ミナはマグカップを片手にパソコンの前に戻ると、USBメモリを抜き取った。白くて小さなそれは玩具みたいだった。けれど、それは確かに、砂月が、自分が、立花が、ノワールが、ペリドットが、苦しみ生き抜いた証拠だった。




「これは親父に送る。今の俺が持ってるより、有効活用してくれる。時間は掛かるかも知れないけど、効果を和らげる薬を作ってくれるかも知れない」




 ミナの父は医者で、アメリカにいる。専門知識も持っているだろうし、此処より研究設備が整っているはずだ。

 問題は、どうやって送るかということだ。インターネットはミア・ハミルトンがいる限り不安である。


 そういえば、さっき渋谷が気になることを言っていた。

 青龍会のパイプ。誰かに何かを運ばせた、と。

 ミナには、海を越えて物を運ばせる方法があるのではないだろうか。


 翔太が見ると、ミナは白々しく目を細めた。




「前に、親父に渡したいものがあって、大阪から青龍会を通じて届けてもらったんだ」

「何を?」

「……ショータとペリドットの血液と、ブラックっていう薬」




 翔太は頭を抱えた。立花もそうだった。

 知らない所で、色々やっていたらしい。確かに、翔太はよくミナに手当てをしてもらったが、ペリドットの血液なんてどうやって手に入れたのだろう。


 ミナが言うには、ミア・ハミルトンの護衛依頼を受けた日。ミナはペリドットに撃たれ、翔太は意識を失くしていた。助けに来てくれた立花がペリドットを狙撃し、その時にミナは返り血を浴びたらしい。それを取っておいて、海の向こうの父に送ったのだと言う。


 何が目的だったのかよく分からないが、変に頭の回る子供である。違法薬物まで一緒に送っているのだから、密輸と同じだ。だから、中国マフィアに運ばせたのかも知れないが、本当に意味が分からない。


 疲労感から復活したらしい立花が、うんざりした顔で尋ねた。




「大阪までどうやって運んだんだ。笹森に会いに行った時か?」

「内緒」

「……もう良い」




 この後に及んで知らばっくれるこの神経はどうなっているのか。

 流石の立花も面倒になったらしく、追求は止めてしまった。


 兎に角、やるべきことは分かった。

 やはり、大阪に行かなければならないのだ。

 青島の切り札を渋谷がどのように使うかも分からない。

 やるべきことは沢山あるが、朝日を浴びたような活力に満ちていた。何をしたら良いか分からなかった時よりはずっと良い。


 立花は携帯電話を眺めて言った。




「高速も使えそうだな。……行くか」

「うん」




 ミナはリュックにパソコンを入れ、立ち上がった。

 タフな奴等である。翔太は苦笑した。

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