⑻一蓮托生
病院の待合室に差し掛かった時、立花が足を止めた。
革靴が床を滑るようにして進路を遮ったので、翔太は咄嗟にミナを庇った。
点滴液を運ぶ入院患者、見舞いらしい中年女性、忍び足で歩く子供、忙しそうな看護師。昼間のような蛍光灯の光の下、その男は壁に寄り掛かるようにして其処に立っていた。
ローファーにグレーのスラックス、ベージュのベスト、七分丈の白いカットソー。シンプルながら
暗いツバ付きの帽子の下に、鮮やかな金髪と宝石のようなエメラルドの瞳が静かに光る。
国家公認の殺し屋――ペリドットは、昼下がりの街を散策するかのような自然さで、目の前に現れた。
「よォ、ハヤブサ」
ペリドットは壁から身を起こすと、足音も無く距離を詰めた。歩き方で分かる。銃を持ってる。翔太は周囲を見渡した。辺りには何も知らない無関係の人間が溢れている。
此処で戦闘になったら、大勢の血が流れる。それは駄目だ。場所を変えなければならない。
翔太の焦燥など御構い無しに、ペリドットは立花の目の前までやって来ると足を止めた。
「病院に死神なんて縁起でもねェ」
「テメェに言われたくねぇんだよ」
立花が言い返すと、ペリドットは笑った。
此処でやり合う気は無いのか。いや、分からない。この男はいつもそうだ。何でもない顔をして、笑いながら銃口を向ける。一瞬でも気は抜けない。
「栁澤を始末しに来たのか?」
抑揚の無い声で、立花が訊いた。
ペリドットは公安の手先だ。国家の邪魔になると判断すれば、どんな相手も殺す。今の自分達にとって、ペリドットは間違いなく敵だった。
ペリドットは演技掛かった動作で思案すると、ぞっとする程、冷たく笑った。
「俺がやらなくても、あいつは死ぬ」
どういう意味だ。
ペリドットは氷のような嘲笑を口元に掠め、翔太とミナを順に見遣った。
「なあ、クソガキ。俺と取引しねぇか?」
エメラルドの瞳は、ミナを見ていた。その眼光は触れるもの全てを切り裂く刃のように鋭かった。
「お前が条件を呑むなら、俺は手を出さねェ。どうする?」
条件って、何のことだ。
ミナばかりが神妙な顔付きでペリドットを見据えている。
そういえば、前にも言っていた。ゲルニカの一件で、ミナが、次は
ミナは翔太の横を擦り抜け、立花の横に並んだ。頭一つ分くらい身長差があるので、大人と子供みたいだった。
「いいよ。アンタの欲しい情報をあげる」
その代わり。
そう言って、ミナはペリドットを睨んだ。
「その代わり、栁澤さんには手を出すな」
ペリドットは、冷ややかな意地の悪い笑みを浮かべていた。
ペリドットの欲しい情報って何だ。彼等は何の取引をしているんだ。
分からない。だが、一番分からないのは、立花が何も言わないということだった。
ペリドットはポケットから携帯電話を取り出すと、ミナに向けた。連絡先を交換するらしい。
大丈夫なのか?
翔太は生きた心地がしなかった。
渋谷、笹森、青龍会、ペリドット。ミナが築きたいコネクションというのは、こういうものだったのか?
家族の為なら何でも出来る。いつもそう言っていた。だけど、家族は本当にそれを望んでいるのか?
後戻り出来ないぞ。お前の未来が無くなってしまうぞ。
ミナトという一人の少年の未来が、閉ざされてしまうんだぞ。
連絡先を交換すると、ペリドットは満足そうに笑った。そして、最後に立花を見遣り、不敵に笑った。
「なァ、ハヤブサ。誰もがテメェみてぇに、過去を切り捨てて生きて行ける訳じゃねぇ。……生きてりゃ救いはあるだろうさ。じゃあ、死んだ人間はどうしたら救ってやれるんだ?」
ペリドットは、もう笑っていなかった。
この男がどういう人間なのか、翔太には分からない。国家に飼われた殺し屋で、野生動物みたいな身体能力を持ち、笑顔で銃を握り、
この男は、冷静なのだ。
いつもそうだ。
「番犬、テメェなら分かるだろ?」
問い掛けられ、翔太は答えられなかった。
ペリドットはそのまま背を向けて、光の中を歩いて行く。人殺しで、復讐者。けれど、彼は血に塗れても、平気で光の中を歩いて行ける。そういう覚悟を決めている人間だからだ。
立花は舌打ちを一つ漏らすと、黙って歩き出した。
13.夜明け前
⑻
復讐は、善か悪か。
其処に救いはあるか。
彼等の間にあるのは、虚無のように答えの無い
立花は、復讐を請け負わない殺し屋だ。復讐は不毛で、非生産的で、無意味だと。殺して恨みを晴らすより、生きて罪を償わせろと言う。
ペリドットは、国家公認の殺し屋で、指令を受ければどんな相手も殺す。そして、彼自身は復讐者である。過去を清算しなければ未来には進めない。守る為に、復讐は必要だと。
ミナは、社会が理性を保つ為に復讐は必要だと言っていた。少しでも救いのある方へ賭ける。そう言って、自分が納得出来るように、罰という名の復讐をして来た。
翔太には、分からない。
翔太自身、復讐者だった。失くした家族の無念を晴らしたい。妹の
病院を出てから、駐車場に向かった。立花は終始無言だった。
運転席に立花が座ると、ミナが助手席に滑り込んだ。椅子取りゲームみたいに翔太は後部座席に座り、シートベルトの装着を待たずして車は発進した。
「ペリドットの欲しい情報って、何だ?」
立花が訊かないので、翔太が尋ねた。きっと、彼は追求しないし、ミナも訊かれなければ答えない。それはいつか、深い
ミナは車窓を眺めながら、答えた。
「ペリドットは公安とSLCの情報を欲しがってる」
「何で。あいつは公安の手先だろ」
「知らない。でも、内部分裂してくれるなら、好都合だろ」
「そんなに上手く行くか? あんまり深入りするべきじゃねぇ」
「そんなの、」
ミナは其処まで言って、俯いた。
叫び出しそうなのを、堪えたように見えた。
渋谷が来てから、ミナはずっと変だ。神経を尖らせて、何かを警戒している。
「どうしようもなくなる前に、話した方が良いんじゃねぇか?」
ハンドルを握ったまま、立花が言った。その視線は前を見詰め、振り返りもしない。
ミナはシートの上で膝を立てると、頭を抱えた。翔太にはそれが、泣いているように見えた。
「……ゼロの人体実験の名簿に、ノワールの名前があったんだ」
絞り出すような掠れた声だった。
ミナは蹲るように
翔太は思わず問い掛けていた。
「何で……」
「知らない。分からない」
「同姓同名の別人かも知れないだろ」
「でも、本人だったら? その時のリスクを誰が背負ってくれるの?」
希望的観測に囚われて選択肢を見失うのは、もう嫌だ。
前に、ミナはそう言っていた。今まさに、ミナはその時なのだ。
SLCの人体実験――。
翔太も、妹の砂月も、立花もその被験者だった。翔太はどんな実験を受けたのか全く覚えていないけれど、砂月は正体不明の薬を投与されていたし、立花はその苛烈な人体実験の為に死んだ沢山の子供を見て来た。
人工的な超能力者の開発、強化人間の軍事的導入。そういうゴミみたいな思想で、人間の脳を破壊する薬を作って来た。
脳を破壊する薬。
そして、破壊された脳は元に戻らない。
ノワールも、そうなのか。
ミナにとって、ノワールはこの国に来て初めて出来た友達だ。そして、SLCはミナの友達を殺した組織でもある。
足掻いても足掻いても這い上がれない、深い泥沼の中にいるみたいだった。
「薬の効果がいつ現れるのか、どんな副作用があるのか、全く分からないんだ。……だから」
ミナは鼻を啜ってから、顔を上げた。泣いてはいない。それが翔太には、悲しかった。
「俺はゼロの研究データが欲しい。その為なら、ペリドットの信念も、栁澤さんの正義も利用する」
公安を探っていたのは、その為か。
ミナにとっては、自分も、立花も、ノワールも、時限爆弾なのだ。渋谷から名簿を受け取って、その事実を知ってからずっと、ミナはそのことを考えていたのだろうか。
だけど、ミナは態度を変えなかったし、距離も取らなかった。当たり前みたいに隣にいて、一緒に行こうと言ってくれた。――それを、どんな気持ちで。
「……そのデータが手に入ったとして、何が出来るんだ」
立花は遠くを見ていた。
運転は滑らかで、少しの鈍りも無い。金色の眼光ばかりが鋭く、そして透き通って見えた。
顔を上げたミナは、立花を睨むように見詰めて言った。
「俺は医者の息子で、脳科学の研究者だぞ。今すぐは無理でも、必ず
立花は鼻を鳴らした。
ミナの欲しがる研究データは、今は渋谷の手にある。しかし、彼女は対価無くそれを渡しはしない。渋谷はミナの持つパイプを欲しがっていた。そしてそれは、国家に通じる切り札だと。
渋谷の要求に見合う対価は何だ。
警察の汚職? 笹森一家とのパイプ? 中国マフィアのコネクション? それとも、フィクサーと呼ばれる彼の祖父か?
「渋谷のデータがデタラメだったら、俺があいつをぶっ殺してやるよ」
立花は薄く笑った。
「大阪行きは延期にする。先に、目の前の問題を片付けるぞ」
そう言って、立花はハンドルを回した。
事務所に戻ってすぐ、ミナはパソコンを開いた。その手の中には長方形の小さな木箱みたいなものが握られていた。
蓋が付いていて、外すと現れたのはUSBメモリだった。ミナがパソコンに繋ぐと、中にはエクセルの表が入っていた。
それは、航空自衛隊幹部と鷹派を繋ぐ汚職の証拠だった。
青島は、組織の汚染に気付き、証拠を集め、上層部によって事故を装って殺されたのだ。
翔太はそれを眺めながら、――
初めてこの事務所に来た時、翔太は自己満足な正義感に駆られてターゲットと接触した。強い女性だった。自分の信念を貫くことに
けれど、彼女は殺された。組織上層部の汚職に気付き、それを告発する為の準備をしながら、一人の味方も得られず、最期は誰にも看取られず、たった一人で。
彼女は強かった。けれど、力が無かった。だから、死んだ。
だけど、彼女の正義は無意味じゃなかった。それを引き継いでくれる人がいた。
足掻いても足掻いても這い上がれない泥沼の中、凛と咲き誇る一輪の花。地獄に咲く花。
彼女が言っていた。
――例え、私が志半ばで倒れたとしても、誰かが同じ意志を持って道を切り開いてくれる。
あの声が、今も翔太の中で生きている。
死には二つあると言う。一つは肉体の死。もう一つは、精神の死。そして、それは人に忘れられた時なのだと。
ミナがデータを複製する。プログレスバーが進む度に、あの日の絶望が、虚しさが、救われるようだった。
無意味じゃなかったよ。
高梁が、そう言って笑っているような、そんな気がした。
「……何、泣いてんだよ」
パソコンを覗き込んでいたら、立花が呆れたみたいに言った。泣いてねぇよ、と返そうとしたのに、声が掠れて出て来なかった。
このデータを作り上げ、交通事故で娘諸共殺され掛け、最後は家族を守る為の戦闘機で殺された青島のことを思うと、何故だか涙が止まらなかった。
どんな覚悟で、このデータを集めたのだろう。どんな思いで、心肺停止の娘に縋っただろう。そして、どんな気持ちで、戦闘機に乗ったのか。
「そのデータ、どうするんだ?」
翔太は鼻を啜った。
前のように、桜田に頼むのだろうか。
ミナはパソコンを見詰めながら言った。
「渋谷さんにあげる」
「渋谷に?」
「下衆なマスコミの大好きな餌だ」
確かに、渋谷は出版社勤務と言っていた。しかし、人間としての信用が無いので、渡したデータをどうするか分からない。
「それを敵に売られたらどうするんだ」
「不完全な複製データを渡す。俺はやられたことは、やり返す」
ミナの目は凄みを増して、最早、天使の面影も無い。
渋谷はミナと取引する為に、ゼロの研究データの名簿だけを寄越した。詳細なデータを餌にして、ミナに条件を呑ませたのだ。だから、今度はそれをやり返すらしい。
翔太が心配するようなことは、ミナもちゃんと分かっている。出来ることは無いだろう。味方にいる内は本当に頼もしく優秀な事務員である。
ミナは複製したデータを魚の形のUSBメモリに入れた。正しく、餌である。そのまま当たり前みたいに手渡されたので、翔太は驚いた。
「なんで俺が持つんだよ」
「ショータは真面目だから、物を失くさないでしょ?」
ミナは笑って、原本データを立花に渡した。
「これはレンジに託す。今の俺の最大の切り札だ」
「……」
「俺は信じることにしたんだ。地獄に落ちる時は一緒だ。Uh……, What do you say in Japanese?」
既視感を覚える遣り取りだ。
立花が笑って、ミナの頭を撫でた。
「
「I see」
ミナが笑った。
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