⑸日向を歩く
シャッター商店街の中程に、景品交換所みたいな小さな魚屋があった。看板は出ているがどんな海鮮類が売られているのかは全く分からない怪しげな店である。
店主は金髪の若い男で、日焼けサロンでも通っているのか真っ黒だった。ミナがカウンターを覗き込むと、親しげに男が挨拶をした。常連らしい。
この商店街は殆どの店にシャッターが下りている。駅の近くに大型のショッピングセンターが出来たせいで、売り上げが伸びずに閉店したのだと言う。その中でこの魚屋は、居酒屋やホストクラブ等の大口の固定客を相手に営業を続けているらしい。
この国に来て日が浅く、日本語に不自由していたミナは、大型のショッピングセンターに行くのが億劫だったそうだ。立花が付いて来てくれる訳ではないし、誰かが助けてくれる訳でもない。自炊の経験も豊富ではなく、売られている食材が何なのかもよく分からなかったと言う。
そんな頃にこの魚屋を見付けて、店主が丁寧に接してくれたことから、通うようになったそうだ。
顔が良い奴は得だな、と翔太が囁くと、何故か店主が豪快に笑った。カツオの切身と、メバルやカンパチの刺身を持たせてくれた。ただみたいな金額で、刺身醤油にあら汁までくれるのだから、人が良過ぎるくらいだった。
意図せず大荷物になり、付いて来て良かったと思った。
帰り道、ミナがコーヒー豆を買いたいと言うので、駅前の喫茶店に寄った。ミナや翔太はそんなに飲まないが、立花が飲むのだ。
昼前の街は静かだった。
観光客らしき外国人や、サラリーマンみたいな男が歩いている。翔太はミナが喫茶店でコーヒー豆を買っている間、店の外で待っていた。
春の日差しが暖かく、上着もいらないくらいだった。
コーヒー豆を購入しに行ったはずのミナが、小さな紙の箱を下げて出て来た。何かと思ったら、売れ残りのケーキらしい。サービスで付けてくれたそうだ。
硝子張りの壁の向こうで、店員らしい若い女性が手を振っている。ミナが振り返すと、嬉しそうに微笑んだ。異性に対する好意というよりも、幼い子供に対する愛玩に近い。
駅前の大通りを抜け、公道に面した道を選んだ。この街の路地裏に潜む
ミナが鼻歌を歌う。ガードレールの向こうでは激しく車が行き交い、路上に捨てられたプラスチックトレーが踏まれる度に破裂音みたいな音が響く。
平和だ。欠伸が出る程に平和だった。
「ノワールがね」
ふと思い付いたみたいに、ミナが言った。
「絵を描くんだ。外は青空で桜が咲いているのに、部屋で冬の夕焼けを」
「へぇ」
「それから、繁華街の街をね、青いグラデーションに塗るの。面白いだろ」
家に通う程に仲が良いとは知らなかった。
絵を描くことも初めて知った。初対面の時は軽薄そうな印象だったけれど、多分、彼は翔太が思うよりずっと繊細な人間なのだろう。
「俺はねぇ」
歌うみたいに、ミナが言う。
「この国に来て、ずっと息苦しかったんだ。言葉も通じないし、味方もいないし、真っ暗なトンネルの中を一人で持久走してる気分だった」
過去のこととは言え、この子が弱味を見せるのは珍しいことだ。翔太が黙っていると、ミナは笑った。
「でもね、ノワールと会って、初めてちゃんと息が出来たと思った」
「……」
「それから、ショータが来て、言葉を教えてくれた。レンジと話が出来るようになった」
ミナの声は不思議に澄んでいて、胸の中に静かに染みて行った。こういうことを照れもせずに言える所が若さであり、
この子の乗り越えて来た日々に同情もするけれど、決して不幸ではなかったのだと思うと少し、救われる。
いつか、自分もそう思えるのだろうか。
今がどんなに苦しくても、前も見えない暗闇の中でも。ミナがノワールと出会って救われたように、自分もまた、人との出会いの中で顔を上げて生きて行けるのだろうか。
「エンジェル・リードは、ノワールの為か?」
若い芸術家に資金援助する個人投資家。もしかして、若い芸術家というのは、ノワールのことなのではないか。
ノワールは殺し屋だ。本人が望んだこととは言え、彼は社会の闇に生き、日向では生きて行けない行き場の無い落第者だ。けれど、エンジェル・リードという存在は、もしかするとノワールのような人間を救う
もしもそうならば、ミナがエンジェル・リードを守ろうとするのも頷ける。それが成功すれば、ノワールのような人間の社会復帰の足掛かりになる。
ミナは立ち止まった。何かを答えようとして振り向く――、その時だった。
急ブレーキの高音が悲鳴のように鳴り響き、視界の端で黒い乗用車が弾丸のように突っ込んで来るのが見えた。
ミナが振り向くより早く、翔太はその体を引っ掴んでアスファルトの上を勢いよく滑った。ガードレールを突き破った乗用車が凄まじい音を立てて街路樹に衝突し、爆音と共に真っ黒い煙を上げる。
乗用車から真っ赤な炎が上がり、近くにいるだけで焼けそうだった。翔太は腕の中に庇ったミナを見遣った。
子犬みたいに目を丸くしたミナが、炎上する乗用車を見る。そして、弾かれたように叫んだ。
「人が乗ってる!!」
荷物を捨てたミナが、今にも爆発しそうな車に駆け寄って行く。翔太がその腕を掴んだ時、車の中から確かに声が聞こえた。
誰か、助けて。
轟音に掻き消されそうな弱々しい声は、子供の泣き声だった。
ミナは燃え盛る車の窓を蹴り付けるが、びくともしない。窓の向こうから小さな手の平が揺れる。助けを求めてる。まだ生きてる。
「ミナ、退け!!」
ミナを押し除け、翔太は窓硝子を蹴った。
蜘蛛の巣状の亀裂が走る。車の下から黒い液体が流れているのが見えた。ガソリンの臭いだ。引火したら自分もミナも無事では済まない。
助走を付け、硝子の
扉を開けた瞬間、
運転席に誰かいる。
翔太はミナに子供を連れて離れるように言い付けて、運転席へ手を伸ばした。激しい熱に喉が焼けそうだった。翔太は息を止めてシートベルトに指を伸ばした。
指が
翔太は男の両脇を掴み、腹の力を込めて車外に引き摺り出した。アスファルトに倒れ込み、酸欠のせいか
翔太は男を引き摺って、燃え盛る車から離れようとした。野次馬が遠巻きに集まって、何処かでサイレンの音がする。体が重い。思うように動かない。
その時、雷が落ちたのかと思う程の爆発音が轟いて、翔太は引き摺っていた男諸共、アスファルトの上に吹き飛ばされた。
車の破片が雨のように降り注ぐ。二度、三度と爆発が続き、その度に地面が揺れた。翔太は頭を抱えてその波が通り過ぎるのを待った。
サイレンが近付く。
翔太は顔を上げた。人集りの中央に、女の子がぐったりと倒れ込んでいる。翔太が助け出した男が切羽詰まった声を上げ、女の子に駆け寄った。
女の子の側にはミナがいた。英語で何かを叫ぶが、それを理解する人間はいない。ミナは睨み付ける程の真剣な顔で女の子に呼び掛け、すぐに心肺蘇生を行った。その時になって、呼吸が無い状態であることを理解した。
小さな体を一杯に使って、機械のような正確さで心肺蘇生を試みる。声を掛けるのも
救急車はまだ来ない。野次馬は眺めるばかりで手伝おうとはしない。携帯電話で撮影しようとする馬鹿もいる。翔太が胸倉を掴んで睨むと、その馬鹿は腰が抜けたみたいに崩れ落ちた。
助け出された男が女の子に縋り付く。親子だろうか。
気持ちは分かるが、邪魔だ。ミナは大粒の汗を貼り付けて心肺蘇生を繰り返している。翔太は
「ミナ、代わる」
ミナが此方を見て微笑んだ。
カウントを合わせ、翔太は心肺蘇生を交代した。小さな身体である。骨が折れても構わないつもりで、翔太は心肺蘇生を行った。生きていれば骨は治る。今はこの子の呼吸を取り戻す。
救急車のサイレンが聞こえる。近付いているのは分かるが、中々到着しない。
舌打ちを飲み込みながら、翔太は胸部圧迫を続けた。呼吸が戻るかは分からないが、何もしないでいるよりはマシだ。
その時、野次馬の群れが割れた。
担架を担いだ救急隊員を率いてミナがやって来る。誘導しに行ってくれたらしい。
翔太が救急隊員に代わろうとした時、女の子が噎せ返った。わっと歓声が溢れて、駆け寄っていた男が涙声で名前を呼ぶ。女の子はこの世の終わりみたいにわんわんと泣きながら、父を呼んだ。
もう大丈夫だろう――。
翔太は深く溜息を吐いた。
救急車が遅れて到着する。どうやら、事故の影響で道が渋滞していたらしい。担架で運ばれて行く様を眺め、翔太はその場に座り込んだ。
13.夜明け前
⑸
投げ出した生魚は無事だった、と思う。
爆発の熱で傷んだのかも知れないが、ミナが全部煮てしまったのでよく分からなかった。
カツオが食べたかったらしい立花は不満そうだったし、文句を言われたミナも不機嫌だった。気まずい沈黙の中、テレビで先程の事故が報道されたものだから、翔太は目を逸らした。
「明日、大阪に行くぞ」
温め直したあら汁を食べ終えると、立花が言った。
「新幹線?」
「車だ」
つまり、立花が運転してくれるらしい。
自分達は楽だから良いけれど、立花は大変だろう。運転の出来ない自分に出来ることは無いので、後で地図で道を調べておこうと思った。
昼食を食べ終えた頃、立花が皿洗いを買って出た。珍しい、というか翔太が見るのは初めてだった。どうしたのかと思ったら、ミナが手の平を火傷していた。燃えている車に触ってしまったのだろう。大した傷ではないらしいが、念の為にと自分で処置をしていた。
「ショータは何か訓練していたの?」
何のことかと思ったら、心肺蘇生のことらしかった。
翔太は肯定した。
「昔、空手の道場で教わった。実際にやったのは初めてだったけどな」
「君は本当に真面目だねぇ」
ミナが言った。
真面目に練習していた成果というより、単純に体が覚えていただけだ。ミナが先にやってみせてくれたことも大きい。
騒ぎに巻き込まれるのが嫌で逃げるように帰って来たけれど、あの親子は無事だろうか。何の後遺症も無ければ良いけれど。
皿洗いを終えた立花が戻って来る。スーツではないラフな服を着ているので、今日は完全な休日らしい。シンプルな白のカットソー姿は、一見すると何処にでもいそうな若者に見えた。
「笹森には連絡したのか?」
「したよ。レンジのことは言ってないけど。伝えた方が良かった?」
「いや、それでいい」
立花は会わないつもりなのだろうか。
では、自分はどうしたら良いのか。ミナを一人にするのも不安だった。翔太が迷っていると、ミナが言った。
「ショータは俺と一緒ね」
「分かった」
いつも通りだ。
立花は定位置に座ると、煙草を手に取った。
「夕飯は俺が作る。何が食いてぇ」
「おお……」
思わず声を出してしまい、翔太は口を押さえた。
立花が料理好きなことは何となく分かっていたが、リクエストを訊かれるのは初めてだった。初めてレストランに行った時のような高揚感が込み上げる。
ミナが学校みたいに挙手をした。
「刺身」
「それはテメェが駄目にしたんだろ」
ミナの図太さに呆れていると、立花が此方を見た。
自分もリクエストして良いらしい。ミナが食べたいなら刺身でも良いけれど、と翔太は迷ったが、言った。
「あれが良い。ハンバーグに目玉焼きが乗ってるやつ」
「分かった」
子供扱いされるかと思ったが、立花は何も言わなかった。
ミナが自分のことみたいに小躍りして喜んでいる。何だか不思議な感覚だった。胸の奥がくすぐったくて、隠れたいような、逃げたいような心地になる。
「俺、サラダ作る」
「お前、適当だからなぁ……」
ミナと立花の会話を聞きながら、翔太は笑った。
なんだか俺達、家族みたいだな。
翔太は、そんなことを思った。
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