⑷鳩首謀議
事務所に戻ると、ミナが出迎えてくれた。
出る時には死にそうな顔色だったけれど、今は普段と変わりない。翔太はほっと胸を撫で下ろした。
ミナは踊るような軽やかな足取りで給湯室に行くと、二人分のハーブティーを入れてくれた。コーヒーテーブルに並べる背中を見ながら、翔太は立花と目を合わせた。
「青龍会と連絡は取れたのか?」
単刀直入に、立花が問う。ミナはハーブティーを並べながら「これから」と言った。目が合わないのが、気になった。
夕飯を温め直すから、お茶でも飲んでいて。そう言って、ミナは再び給湯室に姿を消す。何かを隠していることは明白だったが、巧みに嘘を吐くこの子には珍しいことだった。
夕飯はサバの味噌煮と切り干し大根だった。
切り干し大根が冗談みたいに大量で、味噌汁にも入れられていたので嫌がらせかと思った。三人で手を合わせ、食卓を囲む。
何処に行っていたのか問われたので、立花が答えた。
「情報屋の所に行って来た。
「
ミナは切り干し大根を白米の上に乗せ、大きく口を開けて頬張った。相変わらず、どんな料理も美味そうに食べる。
翔太が先程行った隠れ家的なバーは、ミナも立花に連れられてよく行っていたらしい。その頃は正体を隠す為にフードを深く被ったり、眼鏡を掛けたり、女装したりしたこともあったと言う。立花が品川を指してロリコン野郎と言っていたのも、そのせいなのだろう。
食事を終え、微睡み始めた午後十時。
ミナの携帯電話が鳴った。ミナは携帯電話をテーブルに置き、スピーカーに切り替えた。聞かせてくれるらしい。いや、もしかすると、これは疑いたいなら疑えば良いというミナの挑発なのかも知れなかった。
翔太と立花が、ミナの友達を疑っているということを察したのだろう。だから、敢えてこの場で。
英語で繰り広げられる二人の会話には、確かに親しさが滲んでいる。翔太には殆ど聞き取れなかったが、日本人かと尋ねるその声には、何かを押し殺すような凄みがあった。
国家間の
『こんばんは、初めまして日本の皆さん。僕は李嚠亮と申します』
日本語も話せるらしい。日本人かと思う程、流暢な口調だった。ミナが、彼は大学で言語学を専攻していたと補足した。
声だけを聞いていると、まるで新社会人のような固さと、丁寧な口調に誠実そうな人柄を感じる。けれど、彼は、中国マフィア青龍会の若頭、犯罪組織のトップである。
ミナの友達だからと言って、簡単に信用出来るはずも無かった。
立花は定位置の椅子に座り、テーブルの上のスピーカーを覗いた。
「俺は立花。殺し屋だ」
『殺し屋……?』
李嚠亮は途端に、訝しむように低く問い返した。
『ミナトとどういう関係ですか?』
「保護者代わりなんだ」
『留学と聞いていましたが』
「今度、話す。親父との約束なんだ」
状況が読めて来た。
李嚠亮はミナが殺し屋の事務所にいることを知らなかった。SLCとの一件で身を潜める必要があり、親しい人にも留学と言って詳細は教えていなかったのだろう。
留学しているはずの友達が殺し屋の元にいるなんて知ったら、普通は事件を疑う。
李嚠亮はスピーカーの向こうで再び溜息を吐いた。
何となく、苦労人なのかも知れないと思った。あまり悪い人じゃなさそうだとも。
「青龍会の下っ端が、うちの国で悪さしてる。大阪から薬物運んで来たり、売春斡旋したり、やりたい放題じゃねぇか」
『それはお互い様でしょう? 大体、其方が開発した薬物を勝手に逆輸入しているだけで、自作自受です』
最初の穏やかさは何処に行ったのか、李嚠亮の口調には無数の
それは電話するより先に言うべき情報じゃないのか。
翔太が呆れていると、ミナはソファから身を乗り出した。
「リュウの仕事についてあれこれ言うつもりは無いんだよ。……少し前、売春斡旋の犯罪グループが摘発された。それがどうやら青龍会の下っ端で、そいつ等が報復の為に俺達を探してる」
『ああ……。何となく状況は分かりました。
「誰だ?」
思わず翔太が尋ねると、ミナが言った。
青龍会は先代が逝去してから、次期総帥の席を巡って派閥争いをしている。若頭である李嚠亮が次期総帥として有力視されているが、それを面白く思わない反対派閥が存在する。
杜梓宸はその筆頭であり、先代総帥の右腕だった男らしい。
訊いて良かったと、翔太は密かに思った。
李嚠亮は落ち着いた声で言った。
『杜梓宸は僕にとっても
「それが知れただけで十分さ。心置きなく、ぶっ潰せる」
スピーカーの向こう、微かな息遣いが聞こえた。
笑ったらしい。何がおかしかったのかは、分からない。
立花は退屈そうにやり取りを眺めていた。
ミナは眉を下げて、そっと尋ねた。
「ワタルは元気?」
『僕は連絡を取っていませんが、
「そうか」
ミナは短く言って、泣きそうな顔で微笑んだ。
会いたいのだろう。そんな顔をするくらいなら、クリスマスの時に一目だけでも会えば良かったのに。
ミナは咳払いをした。
「色々、ありがとう。また連絡する」
『こちらこそ。あまり、無茶はしないで下さいね。ワタルが心配しますよ』
「分かってる」
『それなら、僕から言うことはありません。困った時は、必ず頼って下さい』
本当に――。
本当に、仲の良い友達なんだろう。
人種とか立場とか関係無く、互いを尊重し合えるミナの味方なのだ。
『そういえば、SLCが其方の国に入り込んでいると聞きました。何をしようとしているのかは知りませんが、巻き込まれないようにして下さいね』
そういえば、ミナがSLCとやり合った時、大学の仲間と一緒だったと聞いた。もしかすると、この李嚠亮もその一人なのかも知れない。
親しい友達なのだろう。何となく、彼はミナを弟のような存在と感じているのかも知れない。中国マフィアの次期総帥と期待されるような若者だ。心を許せる人間は少ないだろう。
李嚠亮は、少し間を置いて、言った。
『立花さんと仰っていましたね。僕はその国の殺し屋業界のことは詳しくありませんので、貴方がどういう方なのかは存じ上げません。……ですが、ミナトは僕の友達です。もしも何かあれば、僕は持てる限りの武力を持って、貴方を粛清する』
淀みなく告げたそれは、脅迫だった。
血の通わぬ機械のような冷たい声に、室内の温度まで下がったように感じる。けれど、立花は眉一つ動かさなかった。
それでは、また。
そう言って、通話は切れた。ミナは苦笑して携帯電話をポケットに戻した。
「さっき、大阪から薬物を運んで来ているって言ってたね」
「ああ」
「笹森さんに直接会う。先手を打とう」
出発は早い方が良い、とミナはやけに澄んだ目で言った。翔太は慌てて尋ねた。
「ちょっと待て。大阪に行って、何をするつもりなんだ? 裏切り者探しか?」
「目的は二つ。一つはショータの言うように、情報の出所を確認すること。もう一つは、敵対勢力の動きを封じる」
「マフィアと戦争でもするつもりか? たった三人で?」
「違ぇよ、馬鹿」
立花が言った。
「青龍会の密売ルートを潰すんだ。ドンパチする必要は無ェ。証拠があるなら警察に流して摘発させても良い。二度と俺達に手ェ出せないようにな」
「ルートが潰せたら、リュウにとっては追い風になる。俺達は邪魔者がいなくなるし、一石二鳥だろ?」
つまり、敵が一致したということか。
正直、話の規模が大き過ぎて理解し切れない点もある。しかし、彼等はやる気だ。立花は腕を組み、天井を仰いだ。
「色々と準備が要るな……」
しかし、その顔は何処か楽しそうに見える。
味方の内は本当に頼もしい男である。相対して、ミナは何処か上の空というか、何か考え事をしているように見えた。
何かあったか、と問うが、ミナは「何が?」と微笑んだ。
そのまま給湯室に戻って皿洗いを始めたので、追求することは出来なかった。
13.夜明け前
⑷
荷物を取りに行って欲しい、と立花から言い付けられていた。翔太は固まった関節を
終電を逃した酔っ払い達が、春の虫ように漫画喫茶から現れ始める。世間は祝日。駅前では若い女が季節感の無い衣服で待ち合わせをしている。
翔太は記憶を頼りに、品川の元を目指していた。
立花から話が言っているらしく、品川は翔太をカウンターチェアに座らせ、店の奥に消えた。
当然ながら、店の中は誰もいなかった。昨夜の騒がしさはまるで夢のようだ。翔太が店内を眺めていると、戻って来た品川がカウンターの上に段ボール箱を置いた。何が入っているのか、随分と重い音だった。
「これ何」
「ベレッタとスムラクの銃弾」
「銃弾?!」
翔太が
「うちは武器も扱ってんだ」
包装を破って、中から金色の銃弾を見せてくれた。指先程の銃弾は、立花がよく使っている拳銃のものだろう。品川はもう一つ箱を取り出して、中身を見せた。それは手の平程に長く、先端が鋭利に尖っていた。
「これは?」
「だから、スムラクの銃弾だよ。あんまり出回ってねぇから、苦労したぜ」
「スムラクって何?」
「スナイパーライフルだよ。そんなことも知らないのか」
品川は呆れたように言うけれど、普通に生きていたら絶対に必要の無い知識である。
立花はいつも片手拳銃を使っていた。腕前は勿論、咄嗟の判断力も超人的で、他の武器なんて必要無いように思う。
そういえば、と翔太は近江と特訓していた時のことを思い出した。最近、立花は黒い鞄を背負っていて、到着するなり何処かへ消えてしまっていた。スナイパーライフルを試していたのだろうか。
理由は分からないが、立花が必要と考えるのなら、自分が口を出すことではない。
「お前も何か欲しいのあるか?」
翔太は少し迷ったが、断った。
近江の元で、対人格闘技や銃の扱い方、ナイフ術なんかは教えてもらっている。だが、いざと言う時に使える程、馴染んでいない。使い慣れていない武器は荷物になる。
翔太は段ボール箱を受け取って、店を出た。
職務質問でもされたら大変だ。翔太は人通りの少ない道を選び、慎重に帰路を辿った。
事務所に帰り着いた時には心身共に疲れ切っていた。
出迎えてくれたミナが天使に見えた。翔太に代わって段ボール箱を抱えると、事務所のテーブルに運んだ。
中身について、ミナは追求しなかった。
買い物に行くと言ってナイロンのパーカーを羽織ったので、翔太は付いて行くことにした。下っ端とは言え、中国マフィアに狙われているのに買い物に行けると言うのはどういう神経なのだろう。
「中華料理屋にいた奴等は全員逮捕されている。俺達に繋がる証拠は無い」
「渋谷はどうなったんだよ」
「俺を売るメリットは無い。今はね」
ミナは冷たく言った。
渋谷が来てから、ミナはずっと気を張りっぱなしだ。
「今日は魚にする。レンジがカツオを食べたいって言ってたから」
魚屋さんに行こう、とミナが笑った。
シャッター商店街へ向かうミナは、まるでスラム街の孤児みたいだった。何とかしてやりたいが、今はその時ではない。
翔太は頷いて、後を追った。
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