⑶日陰の集い

 名簿を見せろ、と立花が言った。


 ミナは少し躊躇ためらったようだったが、黙って椅子を滑らせるとパソコンの前を譲った。立花が屈み込んでパソコンを睨んでいる間、翔太はまるで裁かれるのを待つ罪人のような心地だった。


 マウスのスクロールホイールが滑る。室内は水没しているみたいに息苦しかった。酸素を求めて視線を彷徨さまよわせると、ミナがソファの上で膝を抱えた。


 顔色が悪かった。まるで、貧血状態みたいに青白い。

 エンジェル・リードのことを考えているのだろうか。

 若い芸術家に資金援助をする個人投資家。金の出処が極道というのは印象が悪いけれど、別に違法行為をしている訳じゃない。笹森だって悪人じゃなかった。だけど、この世界は偏見を持った暇人が多いので、無遠慮に他人の粗探しをする。


 ミナには弱味がある。だから、例え合法であっても表舞台に出ないし、渋谷のような獅子身中の虫を飼わざるを得ない。

 どんなに崇高な理念を持っていて、清廉潔白であっても、悪口雑言は避けられない。それを退しりぞけるだけの土台は、まだ無い。


 立花は名簿に目を通し終えたようだった。

 眼精疲労を誤魔化すように目頭を押さえると、ミナを呼んだ。




「中国にパイプ持ってんだろ? 敵の正体を聞き出せ」

「……敵を増やすことになる」

「味方じゃねぇ奴は全部、敵だ」




 溜息を吐いて、ミナは携帯電話を取り出した。

 ミナは目の前で電話を掛け始めた。今更、隠すつもりは無いらしい。


 繋がらないと言って、ミナは携帯電話をポケットに入れた。




「中国のパイプって何だよ」

「大学の友達がいるんだ」

「何者なんだよ」




 ミナが言い淀むと、立花が鋭く言った。




「情報を小出しにするメリットは無ぇぞ」

「……青龍会っていう中国マフィアに所属してる」




 この子供は、もう後戻り出来ない程、深い闇の中に足を踏み入れているんじゃないだろうか。翔太には、目の前の子供が天使の皮を被った別の生き物のように思えた。味方の内は良い。信念と正義を持って踏み止まっている間は良い。だけど、ブレーキが壊れた時、この子供は何をするだろう。


 立花は目を眇め、尋問するみたいに冷たく問うた。




「其処から情報が漏れた可能性は?」

「絶対に無いね。ワタルと同じくらい信用出来る、俺の親友だ」




 双子の弟を引き合いに出すということは、少なくともミナにとっては本当に信用出来る相手なのだろう。

 ミナは腕を組み、尖った口調で言った。




「第一ね、俺がエンジェル・リードのことを話したのはレンジとショータだけなんだよ。渋谷さんは、お金の流れから俺に辿り着いたんだ。それを知ることが出来るとしたら、資金源である大阪から情報が漏れたんだろう」

「笹森さんが裏切ったって言うのかよ」

「知らない」




 ミナは突き放すように言い、携帯電話を取り出した。どうやらメッセージが届いたらしく、黙って眺めてからポケットに戻した。




「今は立て込んでるから、夜に折り返してくれるって。どうする、レンジ。すぐに行動した方が良いなら、大阪に行って真偽を確かめる。でも、俺は優先順位としては低いと考える」

「今お前が動くのは得策じゃねぇな。渋谷に嗅ぎ付けられる」

「だろうね。探るなら水面下が良い」




 何事も即決即断の彼等らしかぬ選択だ。

 それだけ事態が深刻なのだろう。

 立花が言った。




「青龍会にいるお前のオトモダチの名前は?」




 ミナはすっと目を細め、答えた。




李嚠亮り りゅうりょう




 立花が嗤った。




「大物が出て来やがったな」




 翔太は目をまたたかせた。




「誰だ?」

「青龍会の若頭だよ」




 青龍会とは、中国の様々な犯罪組織の元締めである。先代の総帥が逝去してから組織内の派閥争いが激化し、現在、中国は国そのものが犯罪のシンジゲートと化している。


 違法薬物、賭博、密航、人身売買、武器密売。その煽りを受けてこの国の治安も悪化していると言う。そして、立花が言うには、つむぎが拉致された事件も青龍会の抗争の末端だった。


 ミナは両手を組み、深く椅子に凭れた。




「俺は青龍会まで手は出せない。身に掛かる火の粉は振り払うけれど、自分から火を点けて回るつもりも無い。親友の顔に泥を塗るのも嫌だし、敵に回すには失うものが多過ぎる」

「……夜まで時間がある。仕方無ェな」




 立花は舌打ちを漏らし、椅子に掛けていたジャケットを羽織った。何処かに出掛けるつもりらしい。




「行くぞ、翔太」

「えっ?」

「テメェが此処にいて出来ることあんのか」




 いや、何も無いけど。

 翔太が目を白黒させていると、ミナが席を立った。そのまま棚に向かい、段ボール箱から何かを取り出すと、翔太に投げ渡した。

 カーキ色のモッズコートだった。生憎、ブランドには疎いので価値は分からないけれど、それなりに高価な品であることだけは分かった。

 煙草臭い事務所の中にありながら、新品の匂いがする。




「夜は冷えるからね。あげる」




 ミナは笑った。

 真冬に着るような厚手のものではないが、春先の冷たい夜風はしのげるだろう。今まで来ていたダウンコートが草臥くたびれて、銃撃されたり、下水に浸かったりしてから、着るものが無かったのだ。




「サンキュ」




 翔太が短く礼を言うと、ミナは肩を竦めた。

 事務所の扉の前で立花が翔太を呼ぶ。黒いコートを着た立花は出来るサラリーマンみたいな風体である。比べると余りにもラフに見えるが、構わないだろう。


 扉を開けると、冷えた夜風が頬を撫でた。蛍光灯の白い光に照らされ、階段の踊り場は夜の病院みたいな不気味な雰囲気を漂わせている。


 扉を閉める前に立花がミナを呼んだ。




「暴走すんなよ。取り返しの付かないことになるぞ」




 ミナが何と答えたのかは、分からない。

 立花は扉を閉めると、施錠もせずにさっさと階段を降りて行ってしまった。何処へ何をしに行くのかさっぱり分からないが、此処にいても出来ることは何も無かった。












 13.夜明け前

 ⑶日陰ひかげつど











 暖色の仄かな室内灯、辛気臭いジャズピアノ。飴色あめいろのカウンターにテーブル席が五つ。窓の無い部屋にアルコールと紫煙の臭いが充満し、頭がくらくらと酩酊めいていする。其処はまるで、地下深くの洞窟みたいだった。


 繁華街の路地裏にある寂れたバーの横、地下通路みたいな階段の下。隠れ家みたいな店は、西部劇に出て来る酒場のような雰囲気と洒落しゃれたカフェみたいな不思議な雰囲気を持っていた。


 翔太が入口で立ち止まっていると、立花がかかとすねを蹴った。鈍痛に呻く間も無く、立花は黙って店の中へ進んで行く。ゲームセンターにあるような背凭れの無いカウンターチェアに座ると、店員らしき壮年の男が現れた。


 スキンヘッドにサングラス。大凡おおよそ、堅気の人間とは思えないいかつい顔付きに、のりの効いた黒いエプロンを着けている。カウンターや並べられたグラスがミニチュアに見える程に大柄な男だった。


 何を飲む?

 天鵞絨ビロードのような落ち着いた声が、翔太の耳の奥に響いた。




「灰皿寄越せ」




 立花が言うと、スキンヘッドの男は翔太を見た。

 サングラスを少し下げ、覗き込むように此方を見るその目は、くすんだ灰色だった。




「ミナは連れて来なかったのか?」

「ロリコン野郎に餌をやるのも気分が悪ィからな」




 立花が喉の奥で笑うと、スキンヘッドの男は口角を釣り上げた。暖色の室内灯の下、銀色の犬歯が光る。カウンターに鉄製の灰皿が置かれると、立花は懐から煙草を取り出した。


 美味そうに煙草を吹かして、立花はその切っ先を男に向けた。




「こいつは品川しながわ。情報屋だ」

「宜しくなぁ、坊主」




 カウンターの向こうから品川が手を差し出す。

 日本人には見えなかった。翔太が応えて手を取ると、品川は精悍に笑った。分厚くて大きな手の平だった。翔太の頭くらいなら、片手で掴めそうだ。


 情報屋ということは、渋谷しぶやと同業者だ。

 宜しくして良いのだろうか。翔太が警戒していると、立花が言った。




「今日、渋谷が勝手に来て、うちの姫を脅して行ったぞ」

「蓮治が大好きなのさ」

「うぜぇ。次は頭ァ吹っ飛ばしてやる」




 立花は舌打ち混じりに悪態吐くと、煙草で灰皿を叩いた。

 その時、店の奥のテーブル席から女の声が上がった。




「何を苛立ってんのさ、三代目!」




 酔っているのだろうか。

 テーブルに肘を突きながら、女は赤い顔で楽しそうに微笑んでいる。立花が鬱陶しそうに手を払うと、女はブロンドの髪を掻き上げて、って笑った。


 隣のテーブルでは、営業マン風のスーツの男がビールを片手に頬を緩ませている。立花と目が合うと、砕けた態度で何か声を掛けた。日本語でも、英語でも無かった。


 知り合い?

 翔太が尋ねると、立花は何でも無い顔で言った。




「同業者だ」




 喉の奥がひゅっと鳴った。

 同業者ということは、殺し屋か?

 ブロンド美人も、営業マン風の男も、殺し屋だと言うのか?


 翔太が黙っていると、品川が笑った。




「ハヤブサはな、最速のヒットマンなんだぜ。この国の英雄で、自由の象徴だ」




 翔太には、ピンと来なかった。

 立花は気難しい。金さえ払えばどんな依頼も受けるし、人間味というものもあまり感じられない。

 けれど、もしかすると、それは翔太の見た或る一面性に過ぎず、本来はもっと自由気ままな人間なのかも知れない。今はミナという首輪に縛られているだけで、本当は、もっと。


 そして、この店にいる人間は、それを知っているのかも知れない。


 気安く話し掛けられ、面倒臭そうに相手をして、ビールを片手に絡まれても激昂したり、銃を取り出したりしない。そういえば、まだ26歳だと言っていた。裏社会ではどうだか知らないが、世間的には若者だ。同業者に囲まれて、賑やかに過ごす姿に、立花という男の本質があるような気がした。


 立花は煙草を灰皿に押し付けると、カウンターに肘を突いた。その時には賑やかな取り巻きも離れ、周囲には誰もいなかった。立花は金色の瞳で品川をじっと睨んだ。




「中国の鉄砲玉が、俺の周りで火遊びしてやがる。邪魔だ。渋谷が嗅ぎ回ってんのも気に食わねェ」

「テメェんとこのガキが蒔いた種じゃねぇか」

「うちの姫はご立腹だぜ」




 品川が笑った。銀色の犬歯が鈍く光る。

 翔太は肩をすぼめた。今回の一件は、確かに翔太の蒔いた種だった。ミナはそれに付き合ってくれて、立花が尻拭いをしてくれたのだ。その裏に中国のマフィアが絡んでいるだなんて考えもしなかった。




「背中丸まってるぞ? 隙は見せるべきじゃねぇ。堂々としてろ」




 トイレに行っていたらしいブロンドの美女が、通り過ぎ様に翔太の背中を叩いた。殺気は全く無かったが、相手が本気だったら今頃死んでいる。翔太は曖昧に濁し、背筋を伸ばした。




「お前が噂の番犬だな。今日はご主人様の側にいなくて良いのか?」

「……俺のこと、知ってんの?」

「お前のことも、ご主人様のことも知ってるぜ? 俺ァ情報屋だからなァ」




 裏社会で名が売れるというのは、どうなのだろう。

 立花のような殺し屋ならはくも付くだろうが、自分もミナもそうではない。品川は「失礼」と言い置いて、煙草に火を点けた。




「お前のご主人様、SLCとやり合ったガキだろ? 生中継で見てたぜ」

「……そんなに有名なのか?」

「そりゃそうさ。SLCのボスに啖呵切ったところなんか、最高に格好良かったぜ? なァ、お前等!」




 品川が言うと、営業マン風の男がジョッキビールを掲げた。何杯目かも分からないお代わりを要求し、何処からか現れた若い女が凍ったジョッキを運んで来る。




「ゲルニカの件も聞いてる。見事じゃねぇか。俺ァあのガキを気に入ってるからな、手を貸してやる」

「このロリコン野郎」




 立花が顔をしかめる。品川は大らかに笑うと、短くなった煙草を潰した。灰皿の上で灰が埃のように舞った。




「俺たちみてェな日陰者ひかげものは、多かれ少なかれハヤブサには世話になってる。潰されんのは困るのさ。商売がやり難くなるからな。この国のお偉いさんはペリドットを担ぎ上げようとしていたが、まるで分かってない」




 ペリドット――国家公認の殺し屋。

 ゲルニカの一件では、彼をヒーローとして社会的に祭り上げようとしていた。ミナは司法の立場からその思惑を否定していたが、品川が言うように、裏社会の人間にとってもそれは認め難いものなのだろう。


 ハヤブサが自由の象徴ならば、ペリドットは統制の象徴である。どちらが善でどちらが悪なのかなんてことは翔太には分からない。しかし、後者は確かに、息が苦しそうだ。




「テメェ等の敵になるメリットが俺達には無ェ。あのガキは大物になるだろう。その時の為に、恩を売っておくのも悪かねぇさ」




 品川は、そう言って笑った。


 話を聞いていると、そうなんだろうと思える。彼等には自分達を売るメリットが無い。だけど、翔太はミナと違って品川の嘘が見抜ける訳ではない。

 目の前の男の言葉が本心か、味方と言えるのかなんて、分からない。


 立花は黙って、灰皿を指先で撫でていた。




「俺とお前の取引に、ミナは関係無い。敵の居場所を教えろ。一人残らず殺してやる」




 その視線は、研ぎ澄まされた白刃のように鋭かった。

 品川は口元に笑みを浮かべたまま、指を三本立てた。何かのサインだろう。立花が頷くと、品川は言った。




「青龍会の派閥争いは知ってるな? 薬物の運び屋が大阪から流れて来てる。未成年の売春斡旋もその一つだ。日本の治安を悪化させることで、中国に利益誘導をしようとしてんだ」




 青龍会は、ミナの友達の組織だ。

 絶対に裏切らない、信用出来る相手だと断言していた。双子の弟を引き合いに出してまで。


 これは、ミナに伝えるのは辛いな。

 翔太が俯いていると、品川は続けた。




「あのガキは、何か価値のあるカードを持ってる。恐らく、国家に通じる切り札だ。渋谷はそれが欲しいんだろうな」




 それが何なのかは、品川にも分からないらしい。

 立花は灰皿をカウンターの奥に寄せると、席を立った。




「三日以内に入金しておく」

「宜しくなァ」




 品川は二本目の煙草を咥えて、手を振った。

 立花が店を出て行こうとすると、ブロンド美人が髪をなびかせて何か声を掛けた。けれど、立花は冷めた視線を向けただけで何も答えず、さっさと扉の向こうに行ってしまった。翔太は会釈をして側を擦り抜け、後を追った。


 街はすっかり暗かった。

 今頃、青龍会の若頭から電話が掛かって来ているだろうか。

 間に合うだろうか。ミナは友達を本当に信じていた。傷付く姿は、見たくなかった。

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