⑵墓荒らし
情報屋というのは、名の通り凡ゆる情報を商品として取引する職業である。その活躍は多岐に渡るが、
翔太は、情報屋という名の響きから、路地裏でホームレスのような格好をしていたり、ハードボイルドな中年男性を勝手に想像していた。だが、目の前にいる情報屋は若いキャリアウーマンみたいな格好で、如何にも軽薄そうに見えた。
立花とは駆け出しの頃からの知り合いらしく、ミナがやって来るまでは彼女に世話になっていたそうだ。依頼人を紹介し、ターゲットの情報を高値で売り、その反面で裏切られることもあったそうだ。敵対組織に情報を流されて殺されかけたと言うので、笑えない。
しかしながら、彼女の持って来る情報は常に最新で、正確だった。その職業柄、身柄を狙われることもあるらしいので、相応の処世術やコネクション、自衛の術を持っているらしい。
「――結局、何の用なの」
ミナは、軽蔑するような冷たい目付きで言った。
自分ならこんな風に睨まれたら死にたくなるだろうな、と翔太は思った。渋谷は勝手にソファに座り、膝上のスカートで足を組んだ。
「君たちが潰した中華料理屋なんだけどね、あれは中国マフィアの息の掛かった
「ふうん」
「報復に来るよ。今も血眼で君達を探してる」
「それは、脅し? それとも、警告?」
ミナは回転椅子に背を預け、腕を組んだ。
立花もミナも平然としているように見えるが、翔太は楽観出来なかった。中華料理屋を襲撃したのは、紬が拉致されたからだ。其処にミナが侵入して、翔太とノワールが滅茶苦茶にした。目の前のことに精一杯で、背後に何がいるのかなんて考えもしなかった。
「此処にいるってことは、何か取引がしたいんだろ」
「流石、話が早いねぇ」
渋谷は笑った。
「取引したいのは、二つ。一つは、君たちの情報を君が買うかどうか。それから、もう一つ。君の持ってるパイプをあたしに繋げて欲しい」
渋谷はミナを見ていた。
その時になって、この女は初めから立花ではなく、ミナに会いに来ていたのだと気付いた。何故なのかは分からない。先物投資という奴なのだろうか。だが、内容を聞く限り、これは脅迫である。
自分たちの情報を流さない代わりに、ミナの持っている情報を寄越せと言っている。しかし、この女はいつ裏切るかも分からない
こういうことは好きではないが、――生かしておくメリットが余りにも少ない。
「アンタを信用するくらいなら、中国マフィアを敵に回した方がマシだね」
ミナは鼻で笑った。それが本心なのかは分からないが、渋谷と取引するつもりは無いらしい。息の詰まるような沈黙の中、立花が言った。
「交渉は決裂だな」
立花は、銃を握っていた。
銃口は渋谷に定められ、指先は既に引き金に掛かっている。
「あの頃とはもう立場が違ェんだよ。情報屋なら分かるだろ? まずは信用を勝ち取ってみせろ」
立花は本気で、彼女を殺しても良いと言っている。だが、渋谷は首を竦めただけで、怖がりもしない。
「じゃあ、こういうのはどうかな?」
渋谷は言った。
「今回は初回特典で、敵さんの情報をあげよう。それが満足出来るものだったら、今後とも是非ご
ふざけているのか、おちょくられているのか、試されているのか。
渋谷は、この展開まで想定していたのだろうか。
兎に角、自分達は今、とても厄介な状態にある。
敵ではないが、味方でもない。中立でもないし、いつ裏切るかも分からない。殺してしまえば早いのだろうが、彼女がどんな情報を持っているか分からないのだ。
ミナは不敵に笑っている。
「その程度の情報を俺が掴めないと思ってるの?」
「……いいや? 本命はもう一つさ」
渋谷は言った。
「ゼロの研究データ」
ミナの目が僅かに鋭くなる。
渋谷は微笑み、席を立った。
「さあ、どうする? あたしを飼うか、それとも、殺すか」
何のことなのか分からない。分からないが、そのゼロの研究データというものが、ミナにとって必要なものだということは、分かる。
静電気のような緊張が走る。ミナは足を組んだ。
「ペットを飼ったことが無いからなあ。……死なせちゃったら、ごめんね?」
ミナは子供のように小首を傾げ、天使のように微笑んだ。
渋谷は薄く笑うと、ミナの前に歩み寄った。右手が差し出される。立花の銃口は外れていない。ミナは立ち上がり、その手を取った。
13.夜明け前
⑵墓荒らし
渋谷がいなくなった後、ミナはいきなりソファに突っ伏した。体調でも悪くなったのかと思ったら、ソファに顔を押し付けて声を殺して叫び出した。
わー、とも、あー、とも付かない叫び声は、秒針がたっぷり二周するくらいまで続いた。銃を戻した立花は開いていた窓を閉め、ブラインドカーテンを下ろした。
そして、顔を上げた時、ミナは少し疲れた顔をしていた。
お茶が飲みたいと叫ぶので、翔太は緑茶を入れてやった。手渡した時にはいつものミナだった。
「あれは氷山の一角だぞ」
立花は煙草に火を点けた。
「コネクションが出来れば当然、ハイエナも湧く。お前を利用し、餌にしようとする奴もいる。味方の方が少ないだろう」
「……分かってる」
「飼い馴らせ。それは、お前に必要な能力だ」
ミナはソファに両足を投げ出して、額を押さえた。
立花とは別の意味で、ミナは違う世界の住人である。まだ子供なのにな、と思うと可哀想に感じられた。
「なんか、俺に出来ることあるか?」
肩でも揉んだ方が良いのだろうか。
ミナは柔らかく微笑んで「そのままの君でいてね」と言った。
ミナは暫くソファに寝転んでいたが、急にスイッチが入ったみたいにパソコンの電源を入れた。集中状態に入ったら声が届かないので、翔太はソファに座った。
「なあ、ゼロの研究データって何のことなんだ?」
どうせ、ミナは聞こえていない。
翔太が尋ねると、立花はゆっくりと足を組み、煙草に火を点けた。
「お前、親父の仕事のこと知ってるか?」
余りにも唐突だったので、翔太は驚いた。
ミナはキーボードを猛烈な勢いで叩いていて、振り向きもしない。立花は悠々と紫煙を
「警察官だった。それくらいしか、覚えてない」
「……」
立花は、パソコンの方を見遣った。
相変わらずミナは集中状態である。
「お前の親父、公安の刑事だったぞ」
公安?
最近、よく耳にする言葉だ。そうだ。ペリドットにミア・ハミルトン。法改正を目論む国家の闇。戦争の火種。――全部、公安だ。
親父は、その公安の刑事だった?
分からない。仕事ばかりで、寡黙な父だった。朝早くに家を出て、たまに帰って来たと思ったら夜中で、会話すらろくにしなかった。
「公安の中に、SLCの手先がいる。……SLCは知ってるな?」
「海外の新興宗教だろ? 昔、ミナがやり合ったって聞いてるけど」
「そうだ。そいつ等は、科学による人類の救済と言って、自分達で作った新薬を信者に大量に投与する。お前の妹、どっかの施設で薬入れられてたんだろ?」
悪寒が走り、肌一面に鳥肌が立った。
突然に、何の前触れも無く、立花は真相を告げようとしている。心の準備をする間も無い。
「SLCの人体実験だよ」
耳鳴りがした。
立花は、静かだった。
胎児のように翔太が
「……昔、この国で或る犯罪組織がグレイっていう薬物をばら撒いた。死者に逢えるって謳い文句でな。望んだものを見せる幻覚作用があり、依存性が高かった。一度でも口にすれば廃人になるような、犯罪者御用達の悪魔の薬だ」
聞いたことがある。
近江が、言っていた。
「その組織自体はもう壊滅しているが、グレイの依存性や幻覚作用に目を付けた海外の組織があった。そいつ等は、人工的な超能力者を開発するとか、強化人間を作るとか、そういういかれた思想で、孤児を対象に人体実験をした」
――海外のヤバい組織がグレイに目を付けて、孤児を対象に人体実験したんだよ。
近江が、言っていた。そして、生まれながらに薬物中毒の子供が大量に生まれ、社会問題になった。先天性奇形とか、免疫不全とか、色素異常とか。
殆どの子供が死んだ。けれど、中には生き残った子供もいて、超人的な身体能力を持っていたり、感覚知覚が優れていたりした。
ドラッグベビー。
立花も、その一人だった。
「それが、SLC」
立花が言った時、ミナが振り向いた。
聞いていたのだろうか。いつから?
彼はいつから知っていたのだ。
「SLCは人工的な超能力者を生み出そうとしてた。だから、脳が発達し切らない孤児をターゲットにした」
「超能力者って、触らないで物を浮かせたり、遠くのことが分かったりする奴だろ?」
「そう。他人の思考が分かったり、手を
汚過ぎて、反吐が出そうだった。
何が科学による人類の救済だ。
「SLCが特に目を付けていたのは、精神病質――サイコパスと呼ばれる子供だ。……君の妹さんみたいな」
ミナは目を伏せた。
彼に落ち度や非は無い。そんな顔をする必要だって、無かった。
「公安の中にSLCの信者がいたんだろうね。……だから、君のお父さんは、娘を渡した」
「親父が人体実験に差し出したって言うのか!」
思わず怒鳴り付けるが、ミナも立花も微動だにしなかった。
自分が怒ることも、納得しないことも、全て想定していたみたいに。
「表向きは治療だった筈だ。君のお父さんは、娘を救おうとしたんだよ」
分かってる。本当は、全部分かってるんだ。
父が、母が、どれだけ追い詰められていたのかなんて。妹がどんな状況だったかなんて。そして、自分が何も出来なかったということも、分かっていた。
ミナの声は掠れていた。
SLCの為に、ミナは友達を亡くしている。それがどんなに危険でいかれた組織かなんて、痛い程に知っているはずだ。
「SLCの薬は、脳の扁桃体を破壊する。そうすると、人は自己防衛機能が無くなり、衝動的になる。……前にも言ったけど、全てのサイコパスが人を殺す訳じゃない。でも、SLCの薬は、そのきっかけを作ってしまう」
つまり、俺の妹は、サイコパスだったが快楽殺人鬼ではなく、真っ当に生きることも出来たのか?
でも、親父がSLCを頼ったばかりに脳味噌を
もう、頭がおかしくなりそうだ。
翔太は額を押さえ、天井を見上げた。喉の奥から自嘲が漏れて、虚しかった。
立花が言った。
「SLCの教主は半年前に逮捕され、今は服役している。……お前の家族の
だから、何だと言うのか。
だから、許せと? 納得しろと?
「その事件でミナはSLCに目を付けられて、今は家族から離れて此処にいる」
復讐は、不毛だ。
立花の声が蘇る。――じゃあ、これまでの自分は行為は全くの無駄で、無意味で、不毛な独り
ミナはノートパソコンを膝に置くと、溜息を漏らした。
「渋谷さんから、さっきゼロの研究データが送られて来た」
「ゼロって何のことだ」
「公安の中でスパイみたいな仕事をする組織を、存在しない者としてゼロと呼ぶんだ」
そういえば、幸村にもゼロの情報収集を頼んでいた。
あの時から、分かっていたのか。
ミナはパソコンに目を落としている。
「これは、名簿だね。被験者、
翔太は頷いた。
もう、何もかもがどうでも良かった。凡ゆる希望が打ち砕かれて、生きる気力さえも
「名簿にね、君の名前もあるんだ。神谷翔太、十八歳。研究は継続中になってる。……これが、君が狙われる理由」
ミナの言葉は理解出来るのに、頭に入って来ない。耳の中を通り抜けて、魂と共に風化してしまうような気がした。
「どんな実験をしたのか、何の薬を投与したのか、詳細なデータは無い。……だから、信頼出来る病院で、精密検査を受けよう。君が心配だ」
「いや、良いよ」
「ショータ」
翔太は立ち上がった。
目の前は日没後のように暗かった。
検査をして、何が変わる。何が得られる。妹は、家族は帰って来ない。仇を討ってやることすら、叶わない。
「おい」
恫喝的な低い声がして、翔太は壁に縫い付けられていた。
息苦しい筈なのに、感覚が曖昧だった。けれど、立花の金色の目が至近距離から睨み、逃げることを許さない。
「
「……」
「復讐を目的にする奴は、必ず言うんだ。命なんて惜しくないとか、命に替えてもとか、……下らねぇ」
立花の顔が怒りに歪む。けれど、それは何処か、泣くのを
「そんなの、ただのエゴだろ。不甲斐無い自分を慰めたいだけだろ。死に行く理由に、他人を使うなよ!」
立花の言葉が、刃のように心臓を抉る。
分かってる。分かってるんだ。俺が死んだって家族は生き返らないし、誰も喜ばない。何も変わらない。
「じゃあ、どうしろってんだよ!!」
あ、と思った時にはもう遅かった。
熱い涙が両目から溢れ出て、最早止めることも出来ない。けれど、立花は目を逸さなかった。
「そんなの、初めから決まってんだろ!」
一瞬、体が浮いて、翔太はそのまま壁に叩き付けられた。何をされたのかも分からなかった。ミナの悲鳴みたいな声がして、立花は獣のような息遣いで睨み下ろしている。
「生きるんだよ! 他に出来ることあんのか?!」
胸が潰れそうに苦しかった。
翔太は床に
その時、誰かが側に膝を突いた。顔を上げなくても分かっていた。
「死には、二種類ある。一つは肉体の死。もう一つは、精神の死。それは、人に忘れられた時なんだ」
ミナの声はいつもと同じく、美しく澄んでいた。
「忘れないことだ。死んだ人の為に出来るのは、それだけなんだよ。だから、人は大切な人を埋葬し、冥福を祈る」
ミナは俯き、絞り出すような声だった。
小さな掌が翔太の手を包み込む。泣きたくなるくらい、温かい掌だった。
「まだ、お墓を見付けられてない。これからも探す。探し続ける。それでも見付けられないなら、俺が建てる。……だからその時は、一緒に祈ろう」
無神論者の癖に。
翔太は
分かっている。
立花が自分の傷を抉りながら話してくれた訳も。
神を信じないミナが祈るその意味も。
全部、初めから、翔太の為だった。
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