13.夜明け前

⑴ハイエナ

 満開の桜が風に煽られ、雪のように散って行く。突き抜けるような蒼穹に雲は無く、手を伸ばせば何処までも届くような気がした。


 寂れたアパートの一室は、湿気と化学薬品の臭いに包まれている。絵の具を塗り重ねる筆の音、パレットナイフの尖った音。開け放たれた窓から吹き込む風がレースのカーテンを揺らす。ミナは湿気った畳に寝転び、キャンバスに向き合う背中を眺めていた。


 背凭れの無い丸椅子に、麻生地のシャツを着たノワールが座っている。真新しい鉛筆みたいに伸ばされた背中が綺麗だった。ミナはごろりと腹這いになり、肘を突いて顎を支えた。


 部屋の隅には、海に沈んだ繁華街の絵がある。先日までずっと描いていたが、完成したのだろう。次作に取り掛かるノワールは殆ど下書きをしなかった。絵画の知識が乏しいので、普通はどういう手順を追うのか分からない。今度は赤や橙色を基調としたグラデーションで、端の方に罅割ひびわれみたいな筋が走っていた。


 夕陽かな、とミナは思った。

 そうだったら良いな、と何となく。


 事務所で朝食を食べ、立花と翔太が出掛けてしまったので、ミナは一人だった。パソコンの復旧作業は粗方終わっていたので暇を持て余し、ノワールの元へ来た。


 ノワールは修道者のように規則正しく生活している。どんなに夜遅くに帰宅しても起床時間は変わらず、三食をきちんと食べ、仕事をして、時間があれば油絵を描く。ミナが突然やって来ても持て成しはしないが、邪険にもしない。




「Is it a sunset?」




 ミナが尋ねると、筆を止めたノワールが振り向いた。

 エメラルドの瞳は、水晶のように澄み切っている。




「好きなんだ」




 ノワールは肩を竦めて笑った。

 ミナは身を起こし、同意を示して微笑んだ。


 キャンバスの端に描かれた筋は、木々の枝だろう。葉が無いから、冬なのかも知れない。不思議な人だ。外には青空で桜が満開だと言うのに、室内に篭って冬の夕焼けを描いている。


 小さなキッチンからソースの匂いがする。ノワールが空腹だと言うので、昼食にお好み焼きを作ったのだ。ソースの味しかしないと言った癖に、ノワールはおかわりをした。


 そうだ、と唐突に思い出して、ミナはポケットに手を入れた。指先に冷たい金属の感触がある。ミナはそれを手の平に乗せ、ノワールに差し出した。




「誕生日プレゼントのお返し」




 ノワールは子犬みたいに目を丸くした。

 大きな手だった。そして、苦労して来たてのひらだと思った。肉刺まめ胼胝たこだらけの節ばった指先はカサついている。ミナは其処に、鎖を垂らした。


 ノワールは鎖を目の前に下げ、不思議そうに観察していた。

 鎖の先には銀色の金属のプレートがある。所謂、ドッグタグである。軍人が付けるようなシンプルなデザインは、どんな衣服や状況でも邪魔にならないだろう。


 本来は、名前や座右の銘を刻むのだが、ミナはノワールのことをあまり知らなかった。彼の本名を勝手に入れて良いのかも分からない。だから、彼の素性を示す情報は全く入っていなかった。


 タグを手の平に乗せ、ノワールは顔を上げた。




「なんて書いてあるんだ?」




 ミナは笑った。

 購入した時に、業者には何も頼まなかった。代わりにミナが自分で書いた。金属を削るのは初めてだったので、悪筆なのは許して欲しい。




「When it is dark enough, you can see the stars」




 どんなに暗くても、星は輝いている。

 ミナが言うと、ノワールは口を開けて笑った。

 裏面は真っさらである。いつか、ノワールが過去を清算して、自分の名前を書いても良いと思えたら、刻めば良い。その時に側にいられたら、もっと良い。


 筆をパレットに置き、ノワールは黙ってそれを首に掛けた。華奢だが強い金属だ。簡単には壊れないだろう。ノワールはタグを見せて、子供みたいに笑った。




「ありがとな」

「It’s my pleasure」




 ノワールは少しだけ笑って、またキャンバスに向き合った。丁度その時、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。取り出してみると翔太からの着信だった。


 律儀で心配性な優しい友達である。

 ミナは立ち上がり、着信に応じた。










 13.夜明け前

 ⑴ハイエナ










 早く。

 早く来い。

 早く、早く、早く。


 翔太は事務所の扉に寄り掛かり、中々帰宅しない飼い主を待ち侘びていた。


 近江の元で格闘技やら銃の扱い方やら、今後使うかも分からない物騒な技術の手解てほどきを受けて、疲労困憊ひろうこんぱいの状態だった。一緒に行ったはずの立花は到着するなりふらっと消えてしまい、昼過ぎに戻って来たと思ったら「先に帰れ」と言い放った。


 うんざりする程の距離を電車で移動し、慣れない駅で乗り換えをして、漸く帰り着いたと思ったら、其処にはスーツを着た見知らぬ女がいたのである。




「座ったらどうだい?」




 まるで家主みたいな不遜ふそんな言い方で、女はソファを指し示した。翔太は何も答えず、ミナを呼び出したのだった。


 何処に行っているんだか知らないが、とりあえず戻って来てくれるらしい。状況を伝えそびれたが、ミナなら良いようにしてくれるだろう。


 その女は立花の机に腰掛けて、悠々と煙草を吹かしていた。

 波打つ黒髪は腰の辺りまで伸び、肌は褐色で、異国の顔立ちをしていた。幸村と同い年くらいだろうか。化粧をすると女は化けるので、年齢はよく分からない。


 この事務所のセキュリティは甘いと思う。

 以前も隣の幸村法律事務所を狙った武装グループが間違って襲撃して来たし、立花の師匠である近江が勝手に入り込んでいたこともあるし、ペリドットがお茶を飲みに来たこともある。立花がいる時は別に構わないのだけど、そうではない時は非常に困る。闖入者が敵なのか味方なのか分からないのだ。


 翔太は携帯電話を握ったまま、女を見張っていた。

 何者か分からない以上は放っておけない。逃げることも出来ず、翔太は頭が痛くなるような緊張をいられていた。


 だから、ミナが帰って来た時には、救世主に見えた。

 呑気な顔をして扉を開けたミナは、女を一瞥すると少しだけ驚いたみたいに目を見開いた。女が胡散臭い笑顔で手を振ると、ミナはそれに応えてから翔太を見た。




「誰?」

「俺が知る筈無いだろ」




 ミナは困ったみたいに眉を寄せ、女を見た。




「どちら様ですか」

「尋ねる時には、自分が先に名乗るのが礼儀だぜ?」

「不審者に名乗る義理は無いね」




 いつに無く強気な態度である。

 尤もだと思いながら、翔太は身構えた。最悪、この女が殺し屋の可能性もあるのだ。女はやれやれと言った調子で溜息を吐くと、机から降りて歩み寄って来た。


 女の手が懐に伸びたので咄嗟にミナを庇ったが、銃を持っている気配は無かった。女は一枚の名刺を差し出した。

 受け取ったミナが名刺を読み上げる。




「アイムラシュッパン、シブヤ、ロクサーナ、ハツネ」




 名刺を見ても、身分はおろか、何処の国の人間なのかも分からない。兎に角、胡散臭いことだけは分かった。

 女は思った反応が得られなかったのか、些か憮然として説明した。




「愛村出版という会社で、記者をしてる。渋谷・ロクサーナ・初音よ。宜しく」




 握手を求めて来たが、翔太もミナも応えなかった。宜しくする理由が一つも無かったのである。

 渋谷は苦笑いすると、差し出した手を引っ込めて腕を組んだ。相対すると背が高いことに驚く。ハイヒールのせいだけでないだろう。ミナは身長差のせいか完全に見下ろされている。




「俺はマスコミがこの世で一番嫌いだ」




 冷ややかにミナは言った。

 嫌いなものもあるんだな、と翔太はそんなことに感心した。

 渋谷は笑っている。意外と大物なのかも知れない。




「ハヤブサはいないの?」




 その一言で、この女がただの記者ではないことが分かった。

 ハヤブサ――立花に用があるらしい。女の影も見当たらないストイックで謎の多い男である。ミナは名刺を棚のファイルに入れると、突き放すように言った。




「事前に連絡を入れるのがマナーだろ」

「頭が固いねぇ。そんなんじゃ、ビッグチャンスを逃すよ?」

「堅実が俺のモットーなんで」

「若いのに、お爺さんみたいだねえ」




 ミナは答えなかった。

 持て成すつもりは無いらしい。渋谷の横を擦り抜けてブラインドカーテンを上げる。積もっていた埃が雪みたいに舞った。そのまま窓を全開にすると、ミナはパソコンの前の回転椅子に座った。




「ハヤブサに用があるなら、別の機会にしてくれ。いきなり来られると迷惑だ」

「気が強いねえ。アンタみたいな子供は嫌いじゃないよ」




 ミナは渋谷を敵と見做したらしい。

 渋谷は中々立ち去らない。翔太は困惑しながら言った。




「用件があるなら、さっさと言え。言えないなら、帰れ。此処は喫茶店じゃねぇんだよ」




 渋谷は飄々と笑っている。暖簾のれんに腕押しというか、此方の意図が何一つ伝わらない。怪しいし、気味が悪い。ミナが追い返したがっているのも分かる。記者が殺し屋の事務所に来ているというのは、かなり悪い状況ではないだろうか。




「まあまあ、そう邪険にしないでよ。あたしはさ、アンタたちに良い情報を持って来てあげたんだよ?」

「恩着せがましいな。誰も頼んでないだろ」




 ミナがハリネズミみたいに警戒している。

 渋谷は豊満な胸元を強調するように腕を組むが、ミナは眉一つ動かさなかった。




「エンジェル・リードのことでも?」




 その瞬間、空気が冷たくなった。ミナは親のかたきでも見るかのような顔で渋谷を睨み、今にも飛び掛かりそうだった。渋谷はおかしそうに口元を釣り上げる。




「エンジェル・リードは最近出て来た正体不明の個人投資家だね。ゲルニカの逮捕に貢献したことから公安のカードじゃないかと噂されているけど、あたしはそう思わない。金の出処を探ってみたら、どうやら大阪の笹森一家に繋がっているみたいだし」




 この女は、何者だ。

 エンジェル・リードの正体だけでなく、その背後にいる笹森のことまで調べたのか。普通の出版社の記者とは思えない。




「資金洗浄が甘いね。今の所はエンジェル・リードは架空企業みたいだけど、それは今後の足枷あしかせになる」

「……」




 資金洗浄に架空企業。

 ミナは一体、何をやらかそうとしているのだろう。何の目的があるにしても、金の出処が極道と言うのは確かにまずい。それがただの元手で、合法的な個人投資であったとしてもだ。


 ミナはゆっくりと深呼吸すると、鋭い目付きで言った。




「もう、帰ってくれ。俺はアンタみたいな人が嫌いなんだ。いきなり来て用件も言わず、無遠慮ぶえんりょに他人の詮索して、一体何様なんだ」

「それは、失礼」

「俺のことを調べたいなら好きにすれば良い。でも、俺はアンタの餌になるつもりは無い。敵になると言うのなら相応の覚悟をしろ」




 帰れ。

 再度、ミナは言った。明確な拒絶だった。


 翔太は事務所の扉を開けた。もう帰って欲しかった。この女が何者で、何の情報を掴んでいて、何を目的としているのかは分からない。追い返すことが最善とも思わないが、この子が此処まで拒絶している相手を居座らせたくもなかった。




「……何してる」




 扉の向こうから低い声がした。翔太が振り返ると、立花が立っていた。ギターケースみたいな黒いバッグを背負って、まるでカブトムシだ。

 ミナは回転椅子を転がして顔を覗かせると、その名を呼んだ。しかし、立花の視線は渋谷に固定されている。




「呼んだ覚えは無ぇぞ」

「まあまあ、良いじゃないか。あたしは美味しそうなネタがあれば、何処にでも足を運ぶ。鮮度が大事だからね」




 訊かれてもいないことをつらつらと。

 翔太は苛立った。回転椅子に座ったミナが、立花と渋谷を見遣り、不機嫌そうに尋ねた。




「この人は何?」




 まるで浮気現場に居合わせた妻みたいな物言いである。

 立花は鞄を下ろすと、溜息混じりに言った。




「情報屋だ」

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