⑼夜空を辿る

 太平洋という巨大な水溜りは、まるで巨大な怪物の腹の上に見えた。緑の灯火みたいな潮の匂いと拍動に似た潮騒しおさいが、頭の上からかじり付こうと大口を開けている。翔太には、そんな風に思えた。


 コンクリートで出来た足場が海に向かって伸びている。その先には田舎の教会みたいな白い灯台が、水彩絵の具みたいな蒼穹に向かって屋根を突き立てている。綿菓子を千切ったような浮き雲は白くて、眩しかった。夏を思わせる日差しの下、翔太は慣れない麦藁帽子を被り直す。


 立花の愛車が修理工場から帰って来たので、三人で海釣りに来ていた。広大な海を前にはしゃぐミナをたしなめ、近場の店で釣具一式をレンタルした。借りを返すと言って、費用はミナが出した。


 波一つ立たない穏やかな海だった。

 川釣りの経験があるらしいミナがあれこれと教えてくれて、どうにか釣竿を海に向けることは出来たが、魚は全く釣れなかった。


 釣り針に引っ掛けたイソメはふやけて白く膨張している。水死体はこんな風になるんだろうと思った。ベテランらしい釣り人がちらちらと此方の様子を窺っている。口を出したいのだろう。しかしながら、引率保護者の立花の人を寄せ付けない雰囲気に気圧され、遠巻きに眺めるだけに至っている。


 ふやけたイソメを見て、ミナが付け直してあげるよと言った。任せてみたら、ミナは虫も殺さないような優しい笑顔で、イソメの体をはさみで切断した。この暴挙には流石の立花も咥えた煙草を落とし、呆然としていた。


 針に刺し易くなったでしょ、と微笑むミナは、正直言ってサイコホラーだった。ベテランの釣り人が絶句するのも仕方ない。


 二時間くらいねばったが全く釣れないので、翔太はきて辞めてしまった。立花は少し離れた所で何匹か釣ったようだった。ミナが大物だと叫び、引いてみたら隣の釣り人の糸にからまっていたというお約束をこなし、半日近い初めての海釣りは終わった。


 アジとイワシ、それから頑固爺がんこじじいみたいな顔をしたイシモチという魚を二、三匹ずつ釣って、海沿いの居酒屋で調理して貰った。刺身と煮付け、粗汁あらじるで白米を二杯食べ、心地良い倦怠感と共に帰路に着く。


 車窓から水平線に沈む夕陽を眺めた。仲睦なかむつまじいカップルの姿が幾つか見られ、ミナが「平和だねぇ」と皮肉だか率直な感想だかよく分からないことを言う。


 翔太は助手席だった。カーナビの調子が悪いらしく、ナビを頼まれたのだ。立花曰く、ミナはいきなり寝るから信用出来ないとのことだった。


 高速は渋滞も無く、車がすいすいと流れて行った。

 立花は窓枠に肘を突き、退屈そうに運転している。特に誰が喋る訳でも無いが、居心地の良い静寂だった。


 高速を降りた頃、ミナが訥々と言った。




「昔、学校に淫行教師がいて」




 微睡まどろんだ口調に見合わない嫌な単語だ。

 翔太がフロントミラー越しに見遣ると、ミナは車窓を眺めていた。




「女子生徒を餌にしてた。俺が見掛けたのは偶然だった。思わず怒鳴ったら、被害者と加害者が、誰にも言わないでって言った」




 ミナの声は朝の湖畔みたいに静かだった。

 返答を求めていないそれは、独白だったのかも知れないし、地蔵じぞうに言い訳をしているようなものだったのかも知れない。




「だから、誰にも言わなかった。二度とするなって脅して、女の子を送って帰った。でも、そいつは同じことを繰り返した。そんで、今度は俺が餌にされた。未遂だったんだけどね」




 怖かっただろうな、と思った。

 ミナは中性的な顔で小柄だった。真面目な優等生だっただろう。きっとその最低な教師には、ミナが餌に見えたのだ。




「抵抗して、殴ってやった。次の日、お母さんと一緒に学校に呼び出されて、暴力を振るったことを学校から咎められた」

「何だそりゃ」




 言ったのは立花だった。運転に集中しているように見せて、ちゃんと聞いていたらしい。ミナは続けた。




「俺もお母さんも頑張ったんだけど、立場がとても弱かったから。味方はいないし、誰も信じてくれなかった。或る日の放課後、誰もいなくなった教室で、そいつが来た。何か言ってたけど、忘れちゃったな。……ただ、もう無理だ、無駄なんだって、思った」




 性犯罪の立証というのは難しいと聞いたことがある。被害者は社会的な立場を考えて泣き寝入りすることが多く、名乗り出るにはメリットがあまりに少なく、援助も望めない。ミナもそうだったのかも知れない。この子が弱音を吐くくらい、風当たりは厳しかったのだろう。


 翔太は、その先に続くだろう悲しい結末に覚悟をする。ミナが話すと決めたのなら、聞いてやるべきだ。過去の彼を救うことは出来ない。ならばせめて、一緒に怒って、嘆いて、汚れてやる。


 そしたらね。

 ミナが言った。




「ワタルがいきなり教室に現れて、そいつをぶん殴った」

「はあ?」

「はは」




 ミナは口を開けて笑った。

 ワタルはミナの双子の弟で、容姿も体格も身体能力も持ち合わせた癖に、気性が荒くて繊細というアンバランスな好青年だ。真面目で常識的に見えたけれど、やはり、ミナの弟である。




「すごかった。スーパーボールみたいに吹っ飛んだんだよ。物音を聞き付けて色んな人が来て、色んなことを言った。教師を殴るなんて最低だー、とか。退学させろー、とか」




 その時の情景が目に浮かび、自然と口元がゆるむ。




「そしたら、ワタルが怒鳴ったんだ。うるせえ、俺がムカついたから殴ったんだって」




 翔太は声に出して笑ってしまった。

 けれど、天晴あっぱれじゃないか。常識なんてものはどうでも良いことだと、俺がルールだと、誰に何を背負わせるでもなく、自分の正義を貫いている。


 次に会う機会があったら、訊いてみようか。ワタルは嫌がりそうだな、なんて想像するのもおかしかった。




「それがきっかけで淫行がバレて、そいつは懲戒免職になった」

「はは、最高」

「……その時、分かった。俺も初めからそうすれば良かったんだって。被害者とか加害者とか、社会的責任とか常識とか全部取っ払って、殴ってやれば良かった」

「別に、お前が悪かったとは思わないけどな」

「ショータは優しいねぇ」




 ミナが笑った。




「多分、あれが俺の原点オリジン。……格好良いだろ、俺の弟」




 ミナは白い歯を見せて、誇らしげに言った。

 翔太は頷いた。格好良いよ、お前の弟も、お前も。


 立花は黙っていたが、日に焼けた頬が緩んでいた。

 拍手を送りたいくらいの勧善懲悪である。そういう経験をしていたからこそ、つむぎに言ったのだろう。俺が代わりに殴る。――正しく、原点オリジンだ。


 事務所に帰ると、立花は夕飯を作るのが面倒だと言った。料理好きの立花が言うくらい、自分達は遊び疲れていた。けれど、夜中に腹が減るのも嫌なので、結局はミナが夕食を作ることになった。


 事務所で微睡んでいたら、給湯室からミナが呼んだ。

 幸村から電話があり、男手が必要らしい。自分は手が離せないからとミナが肩を竦めたので、翔太が応えた。


 意外なことに、立花が付いて来た。此処の所、やけにフットワークが軽い。幸村法律事務所の扉を叩くと、若い受付嬢が何かに怯えたかのような顔を覗かせた。


 法律事務所の奥からは、男の罵声が聞こえた。幸村が果敢に言い返す声もする。男手が必要と言うから肉体労働かと思っていたが、どうやら荒事あらごとの類らしい。


 受付嬢の案内で、応対室へ通された。其処にいたのは、苛立ったようなけわしい顔付きの幸村歌恋と、俯いた紬だった。

 客用ソファには力仕事を生業なりわいとして来たかのようなガタイの良い中年の男がいた。怒鳴り過ぎて喉が潰れ、興奮の為か顔は紅潮している。


 幸村は翔太と立花の姿を認めると、肩を落として室内へ促した。そいつ等は何だ、と男が怒鳴る。普通に話せないのだろうか。


 幸村が言うには、その男は紬の実父らしかった。

 結局あの後、中華料理屋の出来事を事件として取り扱う為に、紬は警察に保護されたらしい。それからは翔太たちの関わりを隠す為に幸村が代わりに面倒を見てくれていたそうだ。しかし、紬は未成年者だったので、一応保護者である実父が呼ばれたが、感情的でまるで話にならないと言う。


 弁護士らしく幸村は理路整然と状況を説明したが、男は娘を返せの一点張りだった。紬は帰りたがっていない。何しろ、この男は、紬を虐待して来た諸悪の根源だった。


 あまりにもしつこいので、幸村は警察を呼ぶと言った。男は呼ぶなら呼んでみろとかえったが、来たのは桜田だった。紬を守る為のネットワークが、見事に機能している。


 紬は渡さない。

 幸村の堂々とした宣言は、紬にとってどれ程、心強かっただろう。


 なおも言いつのる男に、立花は溜息を吐いた。

 そして、おもむろに足を踏み出すと、そのまま勢いよく左腕を振り切った。肉を打つ乾いた音がして、男の体はソファに倒れ、そのまま引っ繰り返ってしまった。




「うるせぇよ、豚野郎」




 幸村と桜田も、紬も愕然と言葉を失っていた。

 けれど、翔太だけは、立花がそうするのではないかと思っていた。




「子供はお前の玩具じゃねぇぞ」




 その言葉に、紬がどれ程、救われるか。

 よろよろと立ち上がった男が、傷害事件にしてやるだの、訴えてやるだのとまくし立てる。すると、幸村が横から出て来て言った。




「どうぞ、ご勝手に。闘う用意は出来ておりますので」




 格好良い女だな、と翔太は素直に称賛した。ミナがいたら拍手していたかも知れない。男は助けを求めるように桜田を見た。けれど、桜田は肩を竦めた。




「俺は今、勤務外なんや。堪忍な」




 微塵も悪いとは思っていない癖に、桜田が言う。

 幸村がぐっと前に進み出る。




「私は必ず、貴方からこの子の親権を取り上げるわ。子供を守るのは、大人の務めなのよ」




 子供に言い聞かせるみたいに、幸村は言った。

 男は怒りに唇を震わせて、けれど、それ以上は食い下がらず、八つ当たりみたいにソファを蹴って、けたたましく扉を閉めて出て行ってしまった。


 紬は、立花を見ていた。

 皮肉なことだ。大人に傷付けられた紬を守ったのも大人で、暴力に怯えた彼女を救ったのも暴力なのだ。


 翔太は紬の側に膝を突いた。




「この世はまだ捨てたもんじゃないぜ?」




 なんて、自分が言える義理ではないけれど。

 翔太が言うと、紬は泣きそうな顔で笑った。泣けば良いし、笑えば良い。それを咎める人間は此処にはいない。此処は安全だ。何度でも、教えてやる。


 俯いた紬の首から、あの星のネックレスが落ちる。銀色に輝く小さな星は、明る過ぎるこの街に光る一等星のように見えた。


 ミナが、立花が、桜田が、幸村が、ノワールが。

 点在していた他人が星座のように糸で繋がって、紬という一人の少女を救う。強固なとりでだ。簡単に崩されはしない。


 紬を幸村の元に預け、桜田と共に法律事務所を出た。重低音の響くエレベーター内は、圧死しそうな程の沈黙に包まれている。

 沈黙を破ったのは、桜田だった。大阪の血が抑え切れなかったのか、中身の無いことをつらつらと話し始める。場を取り持ちたかったのだろう。翔太が会話に答えようと口を開くと同時に、立花が言った。




「アンタ、大阪から左遷になった刑事だろ」




 相変わらず、この男にはデリカシーというものが無い。

 桜田は苦笑した。




「ミナちゃんから聞いたんか?」

「いや、噂好きの知り合いから」

「そうか」




 桜田は俯いた。

 立花は前を見たまま、吐き捨てるように言った。




「子供を犯した男を殴ったんだ。何が悪い」




 誇れよ、正義の味方。

 立花はそう言って、悪戯っぽく笑った。


 桜田は放心したみたいに黙っていた。エレベーターが目的地に到着する。立花は我先にと密室を脱出した。




「アンタ、何者なんや」




 立花は立ち止まり、皮肉っぽく笑った。




「テメェが決めろ」




 帰るぞ、メシが冷める。

 立花が歩き出す。翔太は雲一つ無い青空を眺めるような爽快な心地だった。実際に外は既に夜だったが、兎に角、気分が良かった。


 夕飯は何だろう。

 どうせ、お好み焼きだ。

 そんな遣り取りをしながら帰路を辿る。事務所からは芳ばしい小麦粉の匂いがする。土産話も出来たし、ミナに話すのが楽しみだ。


 ミナは、俺の勇気が紬を救ったと言うけれど。

 翔太は、そうではないと思う。ミナや立花、幸村や桜田、ノワール。沢山の人が力を合わせて、たった一人の少女の為に走ったのだ。


 この世はまだまだ、捨てたもんじゃない。

 翔太はそんなことを思いながら、階段を上った。












 12.星に願いを

 ⑼夜空を辿たど











 小麦粉の焼ける芳ばしい匂いが給湯室を満たしている。

 コンロに掛けたフライパンに蓋をして、ミナは換気扇のスイッチを強にした。唸るように勢いよくファンが回転し、白い湯気が吸い込まれて行く。


 肌寒さを感じ、ソファに掛けられていた黒いカーディガンを羽織った。煙草の臭いが染み付いていて、自然と苦笑が漏れる。


 もしもこの世が等価交換で。


 ミナはフライパンの蓋をそっと開け、お好み焼きの様子を窺った。そろそろ引っ繰り返しても良いだろう。抽斗ひきだしからフライ返しを取り出し、お好み焼きの下に滑り込ませる。


 もしもこの世が等価交換ならば、清算の時に何を払うか。


 ミナは、答えた。

 明るい未来を、と。

 それが俺に支払える唯一無二のものだった。


 梃子てこの原理を使って一気に引っ繰り返す。宙を舞ったお好み焼きはフライパンの上に戻り、じゅうじゅうと音を立てた。上手く行ったと自画自賛していたら、ポケットに押し込んでいた携帯電話が鳴った。


 着信。ノワールだった。

 ミナはフライ返しを置き、フライパンに蓋をする。携帯電話を調理台に置いてスピーカーに切り替えた。




「Good evening. Noir」




 ミナが言うと、スピーカーの向こうで微かな息遣いがした。

 もしかして、出先でさきだろうか。呑気な挨拶は気を悪くしたかも知れない。いや、そもそも向こうから電話を掛けている。

 取り留めも無いことを考えていると、ノワールは笑ったようだった。




『元気そうだな。……何の音だ?』

「お好み焼きを作ってるんだ。今日の夕飯」

『へぇ』

「ノワールは夕飯、食べた?」

『何処かの中国人とフランス料理を食べたよ』




 変なの。

 ミナは笑った。


 ノワールは不思議な男である。軽薄そうに見えて実直で、いい加減そうに見えて繊細。時々、母国に残して来た弟を重ね見る。




『今日は何してたんだ?』

「海釣りに行ったよ。ショータと、レンジと」

『ハヤブサが海釣りなんてするのかよ』




 まあ、気持ちは分かる。

 ミナは苦笑した。




「レンジは上手だったよ。釣った魚を料理にしてくれるお店があって、三人でお昼ご飯を食べて帰ったんだ」

『じゃあ、今は事務所か?』

「そう。ノワールも来る?」

『バーカ』




 何故馬鹿にされたのかよく分からないが、悪意は感じなかった。立花と折り合いが悪いのだろうか。どちらでも良いけれど。




「じゃあ今度、作ってあげるよ。お好み焼き、得意なんだ」

『ニューヨーカーの癖に?』

「両親は日本人だ。弟がお好み焼き好きだったんだよ。文句は言うけど、残したこと無かった」

『可愛い弟だな』




 スピーカーの向こうでノワールが笑う。ミナも釣られて笑った。

 可愛い弟である。大切な家族だ。それを守る為なら、自分は何でも出来る。




『ハヤブサはいねぇのか?』

「俺だけだよ。もうすぐ帰って来ると思うけど」

『じゃあ、切るわ』




 そんな逃げるみたいに避けなくても良いのにな。

 ミナはそう思ったが、引き止める口実も見当たらなかった。けれど、そのまま切るのは名残惜しい。ノワールはきっと、自分を心配して、電話を掛けて来てくれている。声を聞けたら満足なんて欲の無い男だ。




「ノワール。助けてくれて、ありがとう」




 一瞬、沈黙が流れた。

 ミナは、携帯電話の向こうにいるノワールを想像する。笑うだろうか。怒るだろうか。――あの時、助けに来てくれたノワールは、感情をごっそりと削ぎ落としたような無表情に、燃え盛る炎のような殺気を滲ませていた。


 その時、ミナは改めて思ったのだ。

 ああ、殺し屋なんだ。

 どんなに親しくしていても、どんなに気さくで良い人でも、ノワールは殺し屋で、人の命を奪い、これからもそうして生きて行く。そういう覚悟をしている人なんだ、と。




『……無事で良かった』

「うん。心配掛けて、ごめんね。ノワールたちが来てくれるって、信じてた」

『心臓が止まるかと思ったよ』

「それは大変だ」




 優しい人だ。

 あの時、ミナは打算があって行動した。翔太がいる。立花が来てくれる。最悪の事態を回避出来たのは、皆のお蔭だ。




『何度でも、助けに行く。だから、ちゃんと頼れ』




 ミナは笑った。

 翔太も同じことを言っていた。人を頼るのも勇気だと。




「ノワールもね。約束だよ」




 ノワールが笑った。


 事務所の外から階段を上る音がする。翔太だろう。立花は足音が無いから。


 じゃあな、とノワールが言った。

 またね、とミナは返した。


 約束は一つでも多い方が良い。

 いざと言う時に、繋ぎ止める命綱になるから。


 通話の切れた携帯電話をポケットに押し込む。

 はっとしてフライパンの蓋を開けたら、お好み焼きは少し焦げてしまった。立花に文句を言われそうだ。


 扉が開くまでのカウントダウンをする。

 ミナは棚から皿を取り出し、静かにおかえりの準備をする。

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