⑻伝染する勇気
心臓が冷えて行くような嫌な感覚だった。
自分は確かにミナと一緒に此処まで来たはずだ。
逸れた?
いや、そんなことは――……。
翔太の動揺が伝わったのか、ノワールは目付きを鋭くして、シャッターの降りた中華料理屋を睨んだ。そして、口を真一文字に結んだまま、ピカピカの革靴でシャッターを蹴った。
金属の軋む
裂けたシャッターの隙間から、ノワールが身を滑り込ませる。チンピラみたいな態度の悪さに、翔太は閉口した。これで無関係だったらどうするのか。
後ろは見ないとばかりにノワールが進むので、翔太は慌てて追い掛けた。店内は暗く、油の臭いが充満している。
物音が聞こえる。
それから、言い争うような怒鳴り声。
しかし、警戒するのが馬鹿らしいと言うようにノワールは堂々と不法侵入する。第六感が告げる。此処だ、此処にいる、と。
店の奥が仄かに明るかった。
ノワールは調理場に踏み入った。食器や調理器具の数々が整然と並ぶ。其処はキッチンと呼ぶよりは湿った廊下のようだった。殺菌灯の青白い光が羽虫のような音を立てる。
調理場には扉があった。裏口だろう。冷たい鉄の扉は鍵が開かれている。その横に地下へ続く階段があった。裸の白熱灯が吊り下げられ、古い油の臭いに混じって血の臭いがした。
感情的な男の声が大きくなる。コンクリート打ちっ放しの壁に、影絵のように人の姿が浮かぶ。小さな悲鳴が聞こえ、翔太は
途端、何かが胸にぶつかって来た。
咄嗟に抱き止める。胡桃色の髪が白熱灯に照らされる。
紬は、絶望と諦念の入り混じった悲しい顔で翔太を見上げた。血の気の無い唇が震える。
「助けて!!」
ノワールが飛び出したのは、殆ど同時だった。
紬を追って来ただろう若い男が怒鳴り散らす。日本語じゃなかった。ノワールは一瞬で間合いを詰めると、男が抵抗する間も無く顎を抉るように拳を振り上げた。
後方に弾け飛んだ男が壁に衝突し、立て掛けられたデッキブラシが音を立てて倒れる。音を聞き付けた仲間らしき男達が、巣穴を
翔太は紬を背中に隠し、ナイフを振り
ノワールは二人の男に挟まれていた。右手の茶髪の拳を避けると、その頭を引っ掴み、壁に叩き付ける。流れるようにもう一人の男の
「テメェ等のボスは誰だ。何処の組織だ」
男は何かを早口に捲し立てる。何処の国の言語か分からないが、日本語や英語でないことは確かだった。
ノワールの
「手ェ出す相手を間違えんじゃねェ」
知らない。分からない。
片言の日本語で、男が必死に弁解する。ノワールは顔を
ノワールは立ち止まらない。湧き出す男達を片手で往なしながら、最奥へと進んで行く。翔太はノワールが
迷路のような地下室を進み、人の出て来る方を目指した。奥の扉は半開きだった。ノワールは銃を持ち、扉を蹴り飛ばした。
銃撃は無かった。
翔太はノワールの背中越しに、部屋の中を見た。
壁際には湿気ったベッドが置かれている。裸の白熱灯、打ちっ放しのコンクリート。スプリングの飛び出したベッドの枕元には、翔太が使い方も知らないような道具と、手錠、注射器が置かれている。
部屋の中にいたのは、分厚い眼鏡を掛けた小太りの男だった。ろくに洗濯もしていないようなシャツを着て、肩口には
三脚にビデオカメラが設置されていた。何を撮影していたのかは、明白だった。男の後ろで、ミナが壁に寄り掛かるようにして倒れていた。上着を着ていなかった。衣服が
その瞬間、ノワールから湯気のように怒気が噴き出すのが見えた。彼がどんな顔をしていたのかは分からない。だが、眼鏡を掛けたその男は、まるで鬼や夜叉にでも
ノワールの銀色の銃が火を噴く、――刹那。
ミナが叫んだ。
「ノワール!」
ノワールの肩が震える。翔太は逃げ出そうとする男の側頭部を捉え、回し蹴りを放った。全力では無かったが、男は呆気なくその場に倒れ、気を失ってしまった。
紬がミナに駆け寄ろうとする。よく見ると、紬の衣服は乱れ、両脚には幾つもの
翔太は紬の肩を掴み、引き留めた。部屋の中は、とても危うい
破裂音が耳を
紬が何をされたのか、されそうだったのか。
ミナが何をしたのか、されそうになっていたのか。
それを問い
「無事か?」
ミナは体を起こし、力無く笑った。
壁に掛けられた鍵を取って手錠を外し、衣服を整える。
口の端に、血が滲んでいた。殴られたのだろう。
「I must have been considered a girl」
英語だった。だけど、何を言ったのかは、分かった。
この下衆な男達は、ミナが女の子に、餌に見えたのだ。
ミナは紬を見て微笑んだ。
「格好良く助けてあげられなくて、ごめんね」
翔太は、何が起きたのか或る程度の想像が出来た。
この店に到着した時、ミナは裏口から侵入し、紬を助けに行ったのだ。集中すると周りが見えなくなる悪癖がある。翔太が付いて来ていないことなんて、気付いてもいなかったのだ。
余り想像したくないが、ミナは紬を庇ったのだろう。
紬の逃げるタイミングを作り、自分はこの場所に取り残された。いや、翔太や立花、ノワールが助けに来てくれると信じたのかも知れない。
何があったのか、訊くのが怖かった。きっと、ノワールもそうだった。紬が「何もされなかった?」と尋ねる。翔太は耳を塞ぎたかった。ミナは口元に微かな笑みを乗せて、澄んだ目で言った。
何も、と。
何も無かったよ。
翔太は胸が痛かった。
ミナがいなくなってから時間は経っていない。何かをされるような時間は無かったはずだ。殴られ、拘束されたようだが、他には何も。
ミナは壁際に置かれた棚から携帯電話を取り出した。どうやら、捕まった時に取り上げられたらしい。着信が沢山入っていると、ミナは苦笑した。
12.星に願いを
⑻
地上に出ると、立花が待っていた。
紬が逃げ出そうとするので、その進路を塞いだ。此処でこの子を逃したら、同じことの繰り返しだ。
今回は間に合った。ちゃんと生きてる。でも、次はそうじゃないかも知れない。この世には、人を人とも思わないクソみたいな奴等がたくさんいる。
表通りから桜田が走って来る。非番だったらしく、私服だった。安っぽい黒のダウンジャケットが暑そうに見える。どのくらい走ったのか、肺病みたいな咳をして、ひゅうひゅうと喉を鳴らしていた。
紬はますます
桜田は手の甲で額の汗を拭った。
「どうなってるんや……」
呼吸の合間、喘ぐみたいに桜田が漏らした。
立花はノワールと翔太を順に見て、ミナに視線を止めた。呆れとも、苛立ちとも付かない静かな顔付きだった。
叱るだろうか。怒るだろうか。翔太は紬を押さえながら、間に割って入るタイミングを探った。ノワールは不気味に静かだった。
「何があったのかは、訊かねぇ」
嫌な緊張感の漂う中、立花は不意に表情を緩めた。
「大丈夫か?」
ミナは驚いたみたいに、目を見開いた。
立花の金色の目には、確かに労りの色が浮かんでいる。ミナは何かを悟ったみたいに苦笑いし、胸を張った。
「俺は男だ。こんなの、ちょっとボコられそうになったってだけで、大したことないんだぜ」
立花はミナを見詰め、囁くように、そうか、と言った。
その時になって気付く。ミナの手は震えていた。怖かっただろう。男のミナでさえ、こんな風になるのだ。紬はもっと、怖かっただろう。
桜田が苦い顔をする。
呼吸を整え、諭すみたいに言った。
「性犯罪に、男も女も関係あらへん」
店の前に一台の車が滑り込む。てんとう虫みたいな赤い車には見覚えがあった。運転席の窓がするすると降りて、中から幸村が顔を覗かせる。
幸村はミナの姿を認めると、血相を変えて車を降りた。
その時のミナは如何にも何かありましたと言っているような酷い顔付きだった。この状況で誤魔化すのは無理だろう。こうなったら全部話すのが筋だ。
ミナが紬を呼ぶ。渋々と歩み寄った紬に、幸村が優しい目をする。まるで、何もかもを見抜いているみたいだった。其処に桜田が加わり、四人は真剣な顔で話し始めた。
話に入るべきか迷ったが、翔太は外から眺めることにした。ミナ以上に上手く説明出来るとも、自分がきちんと状況を把握しているとも思えなかった。それよりも、今にも殺し合いでも始めそうなノワールが気に掛かった。
「アンタ、ハヤブサの三代目なんだろ?」
探るような目付きで、ノワールが言った。
「ハヤブサは最速のヒットマンなんだろ? 裏社会の抑止力なんだろ? なんで、間に合わないんだ」
ノワールは、確かに立花を責めていた。
間に合わない。それは、何を指しているのか。
ミナも紬も無事だった。少なくとも、今回は力を貸してくれた。間に合わなかったのは立花ではなく、自分だった。
翔太は二人の間に割り込んだ。ノワールが鬱陶しそうに睨む。針みたいな視線だった。
立花は懐から煙草を取り出すと、静かに火を点けた。
「俺は正義の味方じゃねぇぞ。テメェのルールを押し付けんな」
紫煙を横に流し、立花は退屈そうに吐き捨てた。
ノワールが顔を歪める。何かを
話し合う四人を一瞥すると、ノワールは
幸村は兎も角、桜田は警官である。この場に留まるのは、ノワールにも立花にも都合が悪かった。
「ノワール!」
去り際、翔太は名を呼んだ。
振り返ったノワールは、叱られた子供みたいな顔をしていた。
「ありがとな!」
ノワールは横顔で笑うと、軽く片手を上げて闇の中に消えて行った。その後姿は、彼の兄、ペリドットによく似ていた。
立花は煙草を吹かせている。ノワールの言葉なんてきっと欠片も響いていない。だけど。
「アンタも、損な役回りだな」
翔太が言うと、立花は喉で笑った。
幸村の怒ったような声がした。
自分を大切にしなさい。
どうやら、紬とミナが叱られているらしい。尤もだ。
彼等がどのような結論を出して、紬がどうなるのかは分からない。この世は理不尽で不条理だ。クソみたいな人間は山程いるし、必ずしも救いの手が差し出される訳じゃない。
だけど、それでも。
目の前の一人くらいなら、救えると信じたい。それが傲慢だとしても、誰かがそうして信じて行動すれば、このクソみたいな世界も少しはマシになるかも知れない。
「帰るか」
煙草を靴の裏で消して、立花が言った。
幸村の説教は続いている。立花が呼ぶと、ミナは渡りに船とばかりに逃げて来た。引き止める幸村に別れを告げ、ミナが駆けて来る。紬を押し付けるような形になっているが、良いのだろうか。
「Good night」
ミナが手を振る。
桜田も幸村も、紬もそれ以上は引き止めはしなかった。歩き出す二人を追いながら、翔太は紬を見た。
「お前の勇気、届いたぞ」
拳を向けると、紬は微笑んだ。
この子の踏み出した一歩が未来に繋がって行くことを、切に願う。
勇気はね。
ミナが言った。
「分け与えることは出来ないけど、伝染するんだよ」
相変わらずの名言製造機である。
「ショータの勇気がツムギを救ったよ」
「そうか?」
「そうだよ。俺のこともね」
ミナは片目を閉じて、キザに微笑んだ。
救ったというのなら、ミナやノワールでは?
翔太はそう思ったが、もうどちらでも良かった。
暗い道にミナの鼻歌が響く。並んで歩いていると、立花は何も感じていないような顔で言った。
「前から思ってたが、お前、音痴だな」
ミナが大口を開けて朗らかに笑う。
筑前煮は液体だし、歌は音程を外す。けれど、ミナは楽しそうだった。それを面白いと思える程度には、毒されて来た自分がいた。
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