⑺未熟な刃

 甘いスポーツ飲料が喉に勢いよく流れ落ちる。翔太はペッドボトルの半分程を一気に飲み干すと、ベンチに座って深く息を吐き出した。


 時々、過去の記憶がフラッシュバックする。ふとした時に起こるそれは、頭痛や目眩めまい、吐き気を引き起こした。そういう時は大抵ミナが助けてくれて、さり気なく場所を変えたり、声を掛けてくれたりする。


 ミナと紬は自動販売機の前にいた。見たことのないパッケージのジュースを指差してミナが子供みたいに問い掛けると、紬が説明した。




「缶の中にゼリーが入ってるの? どうやって飲むの?」

「飲む前によく振って、クラッシュするのよ。美味しいよ」




 得意げに語る紬は、何処にでもいるような女の子に見えた。くるくると変わる表情や、頬に浮かぶ笑窪えくぼ。ミナが腕を組んで唸ると、紬が声を殺して笑う。


 ミナは結局、メジャーな缶コーラを購入した。紬には紅茶のペッドボトルを買ってやり、二人は翔太の元へ戻って来た。




「気分はどう?」

「さっきよりはマシになったよ」

「じゃあ、もう少し休んでから帰ろうか」




 ミナは翔太の隣に座ると、プルタブを起こした。空気の抜ける軽い音がする。紬はミナのすぐ隣に座った。警戒心が薄れ、心を許していると分かる距離感だった。




「夜の遊園地みたいだねぇ」




 ゲームセンターの光を眺め、ミナはそんなことを言った。

 紬がおかしそうに喉を鳴らす。




「子供みたいね」

「子供さ。俺も、君も」




 ミナが肩を竦める。それはまるで、子供であるのは悪いことではないと言っているみたいだった。

 携帯電話を取り出して、ミナが言った。




「レンジが夕飯を作ってくれてる。生姜焼きだって。食べられそう?」




 翔太が頷くと、ミナは携帯電話を操作した。立花に返事を送っているらしい。その時、紬は妙な眼差しを向けていた。眩しいものを見るような、怯えるような、そんな不安げな目だった。




「アンタ等、どういう関係なの? 兄弟?」

「友達だよ。訳ありで、一緒に住んでる」

「……あいつも?」

「レンジは俺の保護者だからね。料理が上手なんだ」




 紬はいぶかしんでいるようだった。他人同士が同居している奇妙な関係よりも、立花という人間に対して不信感を抱いているみたいだった。




「アンタは、殴られないの?」




 昨日の立花の暴挙を指して、紬は軽蔑するみたいに言った。

 確かに、あの時の立花は本当に大人げなかったし、最低だった。けれど、彼は裏社会で生きる人間だ。一瞬の躊躇ちゅうちょが命取りになる。

 ミナは無邪気に笑った。




「レンジは暴力は振るわないよ」




 紬はにわかには信じられないみたいに目を眇めた。当然の反応だろう。ミナや立花にとっては、昨日の行為は暴力ではなく、正当防衛なのだ。




「アンタって、育ちが良いでしょ。色んなものを受け入れる余裕みたいのを感じる」

「そうかな」

「そうだよ。恵まれてるんだよ」




 紬の口調には、じりじりとくすぶる熱を感じる。有り体に言えば、この子はミナが羨ましいのだろう。


 ミナは恵まれた子供である。愛してくれる家族がいて、守ってくれる保護者がいて、帰るべき家がある。貧困も飢餓きがも知らず、呑気な顔で笑っている。紬と同じくらいの年齢だろうか。自分に無いものを全て持っているこの少年が、羨ましく、憎らしいのだ。




「……ツムギは?」




 ミナは口元に微かな笑みを乗せ、問い掛けた。其処には相手を侮辱しないギリギリの同情と労りが滲んでいる。

 紬は微かな冷笑を浮かべた。




「私に親なんていない。いないことにしたの」

「そう。喧嘩?」

「そんなんじゃないわ。だってあいつ、あたしのこと、餌だと思ってたのよ」




 餌。

 何のこと、とは翔太もミナも訊かなかった。訊けなかった。

 余りの悍ましさに鳥肌が立つ。紬の指すあいつというのが、世間一般で言う保護者であることは分かる。




「だから、ナイフで刺してやったの。そのまま家を出たから、どうなったのかは知らないわ。死んだかな」




 何と答えたら良いのか、分からなかった。

 紬は武勇伝を語るみたいに笑っている。一緒になって笑ったら良かったのか。大変だったねと同情するのか。それとも、正論で叱るべきなのか。


 どうしたら、この子は救われるのだろう。

 野良猫に、その場凌ばしのぎの餌を与えて、明日はどうする。

 立花の言葉が耳の奥に蘇る。例え、資金援助をしたとしても、この子は何も変わらない。この子の未来を背負える訳じゃない。


 紬には、目には見えない深い傷がある。

 この子が本当の意味で救われるとしたら、それはいつなのか。目の前の少女が、救えなかった自分の妹に重なって見えて、酷く苦しい。


 ミナが言った。




「俺がいたら、殴ってやったのに」




 頬を膨らませて、ミナが憤る。

 紬は笑った。




「何でアンタが出て来るのよ。関係無いじゃない。それに、あたしはちゃんとやり返したわ」

「……ツムギは強いねぇ」




 ミナは微笑んだ。

 ねえ、ショータ。同意を求めるみたいに、ミナが言う。翔太は頷いた。


 簡単なことだったのだ。過去を無かったことになんて誰にも出来ない。だからと言って見ない振りをするのではなく、怒れば良かったのだ。


 救うとか、助けるとか。

 そんな義務感ではなかったはずなのに。


 ミナは携帯電話を取り出し、息をするような自然さで連絡先を訊ねた。




「次は、ナイフを握る前に呼んでくれ。そしたら、俺が君の代わりにそいつを殴るから」

「子供の癖に」




 紬は笑ったけれど、きっと、連絡を一つでミナはいつでも何処へでも駆け付けてくれるんだろう。そんな風に思えた。


 立花やミナに出会う前の自分も、同じことを思っただろう。

 翔太は言った。




「人を頼るのも、勇気だぞ。我慢ばかりしてると、本当に困った時に声が出ないからな」




 紬は笑っている。

 親父臭い。説教臭い。そんな風に茶化されても、鼻で笑うくらいの余裕はあった。


 帰り道、ミナが言った。

 ショータは優しいね、と。




「俺は早く大人になりたかった。でも、ショータといると、子供でも良いなって思うよ」




 よく分からない。だが、褒められていることは分かる。

 自分の未熟さや青臭さを好意的に評価してもらえるのは、心地良い。欠点を美徳と捉えられるのは、一種の才能だと思う。


 ミナの頭を撫でてやる。

 子供扱いするなとは、言われなかった。













 12.星に願いを

 ⑺未熟な刃











 宣言の通り、食卓には生姜焼きが並んでいた。

 キャベツは機械のような正確さで千切りにされ、小鉢にはほうれん草のお浸し、茶碗には湯気の昇る白米と豆腐の味噌汁が用意されている。定食屋で出て来るようなバランスの取れた夕食は、見ているだけで自然とよだれが出る。


 黒いエプロンを付けた立花が、煙草を咥えたまま「おかえり」と言った。主夫かよ、と笑うと立花は鼻を鳴らした。


 生姜焼きは味が染みていて、肉は蕩けそうなくらい柔らかい。キャベツは細かく切ってあるにも関わらずシャキシャキとした食感があって瑞々しく、ほうれん草はさっぱりとした味付けで兎に角、美味かった。


 ミナの作る夕飯が不味まずいとは思わないが、比べると確かに、文句の一つも言いたくなる。立花は無表情で、ミナは幸せそうに食べていた。


 テレビの消えた事務所で、ミナはゲームセンターの話をしていた。楽しかったのだと言葉にしなくても伝わって来る。立花の口元が微かに緩んでいた。


 翔太が洗い物をしようとしたら、ミナが代わってくれた。手の平の怪我を気遣きづかってくれたらしい。厚意に甘え、翔太はソファに座った。


 給湯室から水音が聞こえる。満腹で、心地良く微睡まどろんでいた。今頃、紬はどうしているだろうと気に掛かる。ミナが駆け込んで来たのは、そんな時だった。




「レンジ! ショータ!」

「どうした」




 定位置の回転椅子に座っていた立花が、身を起こす。

 ミナは手に泡を付けたまま、携帯電話を見せた。ディスプレイにはメッセージが映っている。差出人は紬だ。内容は一言、――助けて。




「番号から逆探知する」

「パソコン壊れてんだろ」




 立花は溜息を吐き、立ち上がった。

 緩んだネクタイを締めるのが様になっている。


 翔太は、ミナのパソコンが壊れていることを初めて知った。ゲルニカの一件の時には無事だったはずだ。もしかして、サイバー攻撃をされたせいだろうか。




「手掛かりくらい聞き出せ。手伝ってやる」




 珍しいこともあるものだ。

 電話を掛けるミナの横で、翔太はいつになく乗り気な立花を見た。立花は自嘲するように口元を歪めた。


 電話は繋がらないらしかった。

 歯噛みして、ミナは上着を羽織った。パソコンが動かない以上、事務所にいる意味は無かった。車も無いので、三人で駅前に向かって走った。手掛かりも思い当たる所も無く、何処を探せば良いのか見当も付かない。


 紬という少女のことを何も知らないのだ。

 ミナが携帯電話を睨んでいるのを見て、立花が言った。




「役立たず」

「Get lost」




 立花は喉を鳴らした。そのまま携帯電話を取り出すと、何処かの誰かに向かって電話を掛け始めた。どうやら、立花の情報網も使ってくれるらしい。

 じゃの道はへびと言う。立花は通話を終えると、苦く言った。




「一つ、貸しだぞ」

「I will owe you」




 立花は携帯電話をポケットに入れた。

 どうやら、彼にはこの街に特化した子飼いの情報屋がいるらしい。コネクションとは訳が違うので、費用が掛かる。そして、情報屋というのは対価さえ払えば誰の味方にもなる。立花に情報を売りながら、立花自身の情報を敵対勢力に売ることもあると言う。


 その情報屋が言うには、中国マフィアに繋がる犯罪グループがあり、その末端が家出少女を人身売買や性的搾取の為に誘拐することがあるらしい。紬が実際に拐われたかは分からないが、そいつ等の根城ねじろを聞いたので、虱潰しに探すしか無い。


 普段、ミナが獲得する情報に比べて信憑性しんぴょうせいが低く曖昧なのは、紬という少女が透明人間のように社会的に軽い存在だからだ。彼女が事件に巻き込まれても、命の危機にあったとしても、心配したり、どうにかしようとする人がいないのだ。




「人手が足りない。手分けして探そう」

「翔太、ミナを見張っとけ」

「分かった」




 立花は睨め付けるようにミナを見据え、何も言わずに走り出した。立花が彼なりに力を貸してくれていることは分かる。

 ミナは立花から教えられた地点を地図で確認し、駆け出した。怪我人とは思えないくらい足が速い。


 夜の街はいつもと同じように、騒がしく、そして、冷たかった。キャバクラの客引き、酔っ払いの鼻歌、車のクラクション。星も見えない明るい夜空を飛行機のナビゲーションライトが横切って行く。


 生臭い路地裏を抜け、如何にも怪しいバーを覗く。ミナが店主にさり気無く問い掛けるが、紬の情報は無かった。ミナは他人の嘘が分かる子供だった。


 二軒目のダーツバーが空振りに終わった時、ミナは膝に手を突いて立ち止まった。翔太も肺が痛かったが、体力にはまだ余裕があった。




「俺達だけじゃ無理だ」




 ミナが珍しく弱音を吐く。

 確かに、広い夜の街をたった一人の少女を探すのは、わらの山から一本の針を探すように困難だった。




「応援を呼ぼう」




 そう言って、携帯電話を取り出す。

 電話の相手は、桜田だった。この状況で力を貸してくれそうな相手は、それしかいない。翔太は幸村に助けを求めた。彼女ならば、紬の状況を理解して力を貸してくれると思った。


 幸村は車を出してくれると言った。

 闇に光を見たような心地だった。ミナがまだ通話中だったので、翔太は立花に連絡した。

 紬はまだ見付からない。立花は応援を呼んだことについては特に咎めなかった。


 立ち止まっていると、嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。

 今頃、紬はどうしているだろう。無事なのか。嘘ならそれで良い。何も無かったならそれで良いのだ。兎に角、無事でいてくれ。


 祈るように携帯電話を握っていると、通話を終えたミナが言った。




「ノワールも来てくれるって」




 総力戦だな、と翔太は笑った。

 打てる手は全て打つ。最悪の事態だけは回避する。後のことはその時に考えれば良い。ミナはそう言った。


 警察、弁護士、殺し屋。

 鉢合わせたら面倒なことになりそうだ。


 三軒目は街の隅にある埃っぽい中華料理屋で、シャッターが降りていた。流石に少女を連れ込むようには見えない。

 空振りか、と溜息を吐いた時、後ろから声を掛けられた。




「助っ人に来たぜ」




 振り向くと、ノワールが立っていた。

 羽振はぶりの良さそうな上等な黒のスーツに、紺碧こんぺきのネクタイ。磨き込まれた銀色のタイピンが眩しい。何処の社交界に行っていたのか、汚い繁華街にはあまりに不釣り合いだった。翔太が呆れていると、ノワールはスーツを見下ろして言い訳するみたいに言った。




「仕事だったんだ。部屋着で来たら満足かよ」

「何も言ってないだろ」




 ノワールは鼻を鳴らした。

 連絡を受けて急いで来てくれたらしい。




「女の子だって? お前の彼女か?」

「違ェ。成り行きだ」

「説明を面倒臭がってんじゃねェよ」




 翔太は肩を落とした。胃が締め付けられるような緊張感が溶けて行く。




「ミナが後で話すよ」

「ミナは?」

「えっ?」




 ノワールはきょろきょろと辺りを見渡していた。

 隣にいたはずのミナは、忽然と姿を消していた。

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