⑸出来ること

 真っ白い部屋だった。

 白い壁、白い天井、白い床。白いベッド、白いカーテン、白い蛍光灯。眼鏡を掛けた男は白衣を着ていて、死人みたいに蒼白な顔色をしていた。


 箱のような部屋は息苦しい程の閉塞感だった。窓は硬く閉ざされ、春の日差しに鉄格子てつごうしが透けて見えた。ベッドの上に妹が腰掛けていた。


 艶やかな黒髪は鎖骨より長く、いつの間にか伸びていた妹の髪に驚いた。

 両親は白衣の男と何か一言二言話すと、翔太を外に連れ出した。扉が閉まる刹那、翔太は振り返った。残されている妹が気に掛かったのだ。けれど、妹は無邪気な笑顔を浮かべて機嫌良さそうに両足をぱたぱたと揺らしているだけだった。


 砂月は、自分を見ない。

 その目には、何も、何もかもが、無機質に映っている。

 透明な硝子板が挟まっているみたいだった。自分達は太陽の日差しに照らし出された影、或いは投影機の映像でしかなく、会話はいつも擦れ違い、相対していても互いの姿は見えていなかった。


 声は泡となって浮かんでは消え、形を成さない。視線は絡まず、ただ其処にあるだけ。


 きっと良くなる。きっと良くなる。きっと良くなる。

 父が、母が、医師が言った。


 自己暗示を掛けるみたいに、神に祈るみたいに、それだけが救いであるかのように何度も言い聞かせる。

 チューブを流れる透明な液体。等間隔に響く心電図の音。風の吹き込まない閉ざされた部屋。


 あの時、俺は、どうしたら。

 どうしたら、妹を。








 11.ゲルニカ

 ⑸出来ること








 水滴の落ちる音で目を覚ます。

 視界がかすんでいた。ぼんやりと浮かび上がるのは、薄闇に包まれた狭い回廊かいろうだった。漂う腐臭と血の臭い。

 ぽたぽたと、水が落ちる。此処は何処だ。




「目ェ覚めたか?」




 聞き慣れた声がして、翔太の意識は一気に覚醒した。

 暗く湿った回廊。点在する白熱灯。濁った水が腐臭と共に川のように流れて行く。


 翔太は身を起こした。体が軋み、悲鳴を上げる。

 脇腹に走った鋭い痛みに、銃撃された時の傷が開いてしまっていることを悟った。


 金色の瞳が白熱灯の光を静かに照らしていた。普段装着している医療用の眼帯は取り払われ、猛禽類に似た双眸が前方を鋭く睨んでいる。


 コンクリートの床に胡座を掻いて、立花はトランシーバーを弄っていた。黒いスーツは煤を被ったかのように真っ白だった。




「駄目だ。ぶっ壊れてる」




 立花は舌打ちすると、トランシーバーをポケットに戻した。




「……此処は、何処だ?」




 声が反響する。

 そうだ。襲撃犯から逃げて、停電した街を車で走ってた。そうしたら、路上にペリドットが立っていて――。


 立花は湿った髪を掻き上げて、溜息混じりに言った。




「下水道」

「下水道……」




 何かと縁のある場所だ。流れ込む生活排水はヘドロのように濁った緑色をしていて、其処此処から水音が反響する。


 ペリドットに撃たれたあの時、立花はハンドルを切った。そのまま路地に突っ込んで、翔太は意識を失ったのだ。


 立花が、助けてくれたのだろうか。他に可能性は無かったが、信じられなかった。ペリドットに銃口を向けられ、絶体絶命のあの状況で、わざわざ足手纏あしでまといの自分を連れて逃げてくれたと言うのだろうか。


 立花は黙って立ち上がると、スーツのほこりを払った。酷い汚れ方だ。洗濯で落ちるだろうか。




「ミナと連絡が取れねぇ。良くない状況だ」




 立花は闇に沈む回廊の先を見詰めて、面倒臭ェな、と呟いた。目の下に刻まれた刺青のせいで眼下が落ちくぼんで見え、何日も砂漠を彷徨さまよった旅人のような疲労を感じさせた。




「行くぞ。ペリドットに先越される前に」




 振り向いた横顔には余裕が感じられた。まるで、こうなることが予め分かっていたみたいだった。

 ペリドットが来ることも、此処に逃げ込むことも、ミナと連絡が取れなくなることも、想定内だったのだろうか。

 携帯電話が使えない事態を彼等は予期していた。トランシーバーに暗号、襲撃犯を撒く為の停電。彼等は一体、何処まで想定し、何を知っているのか。


 翔太は濡れたコンクリートに手を突いて立ち上がった。

 脇腹が痺れるように痛むが、歩けない程ではない。

 鎮痛剤を多量摂取して歩き回っていたミナを愚かだと思ったけれど、本当に痛かったんだろうな、と今更情けなくなる。


 二人で下水道内を歩いた。

 不思議なことに、隣を歩く立花は足音が無かった。微かに聞こえるのはスーツの擦れる音だけで、息遣いすら感じられない。

 白熱灯の淡い光の中、立花は導かれるように迷いなく進んで行く。




「ペリドットが待ち伏せしてること、分かってたのか?」




 翔太が尋ねると、立花が振り向いた。

 通った鼻梁びりょうの影が落ち、表情は険しく見える。




「分かってたら、あの道は避けてたよ」




 そりゃ、そうか。

 では、立花は前方にペリドットがいることに気付いてから回避したことになる。相変わらず、超人的な反射神経である。


 暫く歩くと、道が二つに分かれた。立花は腕を組んで双方を睨み、右の道を選んだ。二手に別れる意味は無いので、翔太も付いて行った。




「ペリドットが待ち伏せしてたってことは、ミナが負けたんだろうな」




 独り言みたいに、立花が言った。

 翔太は向けられた背中に追求の言葉を投げ掛けた。立花は振り返りもせず、昼下がりの野良猫みたいに悠々と歩いて行く。




「携帯電話が使えなくなったのは、ハッキングされたんだろ。俺達の居場所や遣り取りを抜き取られたから、トランシーバーに切り替えた」




 それは、かなり悪い状況ではないだろうか?

 コンピュータを手足みたいに操るミナに勝つなんて、相手は一体何者だろう。しかも、それはペリドットと繋がっている。もしかして、高速道路の襲撃犯も仲間なのだろうか。




「ミナは誰に負けたんだ」




 立花は立ち止まると、奇妙に落ち着き払った声で言った。




「恐らく――、ミア・ハミルトン」




 翔太は息を呑んだ。

 ミア・ハミルトンは、味方じゃなかったのか。ミナとはまめに連絡しているようだったし、翔太の過去についてのデータを提供してくれたのも彼女だった。


 だが、彼女以外に考えられないのも事実だった。ミナと繋がりを持ち、打ち勝つ程にコンピュータに精通しているのは、ミア・ハミルトンしか思い当たらない。


 では、何故、彼女は裏切ったか。

 翔太は喉の奥から出そうな問いをどうにか呑み込んだ。


 ミア・ハミルトンは、元々味方ではなかったのだ。彼女は恩義や情よりも好奇心を優先する。それに、彼女の身柄は国家が押さえているし、今回のような国家内の派閥争いでは敵対する可能性は十分に考えられた。


 立花もミナも、分かっていたのだろうか。

 ミア・ハミルトンやペリドットが敵に回る可能性や、その対抗策も。少なくとも、今の翔太には何も打つ手が見当たらなかった。




「ミア・ハミルトンは元々公安の手札だ」




 公安。

 その単語を聞いていると、深い水の底に引き摺り込まれるような、断崖絶壁の淵に立たされているような不安感を覚え、まるで自分が監視されているかのような心地になる。


 翔太は咄嗟に周囲を見渡した。油蝉のように唸る白熱灯と、轟々と流れる生活排水、コンクリートの天井から滴る雨水。相対する立花ばかりが針のような視線で翔太の存在を認めている。




「いいか、翔太。公安を信用するな。あいつ等は目的の為なら手段を選ばねェクソ野郎だ」




 恨みの篭った声で、立花は吐き捨てる。

 過去に何かあったのだろうか。ミア・ハミルトンの事件よりも前に、立花がそんな風に評価する理由が。


 それ以上は語るのも忌々しいと、立花はさっさと背を向けて歩き出した。公私混同を避けて、仕事は割り切る立花がそんなにも公安を憎む理由とは、何だろう。翔太には想像も及ばない。


 ふと思い出して、翔太は尋ねた。




「アンタ、施設出身なんだろ? 近江さんに聞いたんだけど、施設では孤児を対象とした人体実験を行なってたって……」

「……」

「アンタも、そうなのか?」




 デリケートな部分に触れている自覚はあった。だけど、こんな時じゃないと聞けない。

 答えないなら、それでも良かった。聞いたって誰も救われない不毛な話だった。


 だが、立花は何でもないことみたいに、言った。




「そうだよ」




 胸が、じくりと痛む。

 痛いのは心臓か、心か。




「あいつ等、俺達を人間扱いしてなかったからな。……毎日毎日、薬ばっかりだ。錠剤、注射、点滴液。大方おおかた、実験動物くらいに思ってたんだろ。副作用が酷くてな、よく吐いてた。それで薬まで吐いたら殴られてやり直し。それで死んだ奴もいた。何の薬だったのかはよく分からねぇ」




 立花は唾でも吐きそうな口調だった。彼自身はとても落ち着いて見えるのに、当時焼き付いた深い憎悪が今の腹の底でくすぶっているような、そんな声だった。




「後遺症とか、無かったのか?」

「あったよ。視力失くしたり、下半身不随になったり、精神崩壊起こしたり、薬と暴力でボロボロになって、泣きながら許してくれって叫んでる声をいつも聞いてた」

「アンタは……」

「俺は」




 立花は其処で一度言葉を区切った。

 ミナには言うなと前置きして、立花は静かに告げた。




「俺は……。長くはないだろうな」




 覚悟していたはずなのに、翔太は目眩がする程の絶望感を味わった。


 ミナが鎮痛剤を過剰に摂取して街を出歩いていた時、立花はその松葉杖を折った。やり過ぎだと思ったし、非情だとも感じた。だけど、彼の出自を考えると、翔太にはもう立花を責められなかった。


 薬物依存症の両親を持ち、彼は生まれながらの中毒者だった。虐待の末に施設に預けられ、其処でも薬物を使った人体実験を受け、重い後遺症を背負っている。


 立花自身には、何の落ち度も無い。

 それが翔太にとっては歯痒く、遣る瀬無かった。


 立花は何でもないことみたいに言って、それ以上は語らなかった。だから、翔太も追及出来なかった。それでも、問わずにはいられない。




「俺に何か出来ること、あるか」




 立花の世界は冷たくて、苦しい。何処にも救いが無くて、敵しかいない。それでも、翔太には、立花が何かを変えようと、目に見えない何かを掴み取ろうと、足掻いているように感じられた。


 立花はふと足を止めた。

 振り返ると、金色の瞳が闇の中で太陽のように輝いていた。




「ミナを守れ」




 研ぎ澄まされた刃のような鋭さで、立花が言う。




「絶対に死なせるな」

「……でも、アンタは俺達がスマイルマンに襲われた時、静観してたんだろ?」

「そうだよ。あいつの覚悟を確かめたかったからな」




 翔太は言葉を躊躇ためらった。

 あの時、ミナも自分も死ぬところだった。立花はきっと、いつでも助けられるように、いざと言う時にスマイルマンを始末出来るように見張っていたのだ。――ミナの覚悟を確かめる為に。


 彼は、そういう遣り方しか、知らないのだ。

 信じてみるなんて生温い遣り方では、裏切られた時に殺される世界だ。ミナ自身、隠し事が多いし、行動が無軌道で予測出来ない。それも立花がミナを試そうとする一因である。


 だけど、死なせるなと。

 その言葉が、全てだと思った。




「俺はミナを守る。別にアンタに言われなくても、初めからそのつもりだ」

「ああ」

「でも、俺はアンタのことも守るからな」

「ガキが生意気言ってんじゃねぇや」




 立花は少しだけ、ほんの少しだけ笑ったようだった。

 もうすぐ目的地に到着するぞ、と立花が言った。翔太はすすだらけの背中を見詰めた。その肩に乗った凡ゆる重荷を代わりに背負えるとは思わない。だけど、どうか、知って欲しい。


 俺達は、アンタの敵じゃない。

 けれど、翔太にはそれを証明出来るだけの根拠も強さも無かった。立花の張った予防線を越える術を翔太は持っていない。でも、もう傍観者でいるつもりは無かった。

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