⑷百鬼夜行
中部地方で起きた猟奇殺人の犯人は北上を続けている。
マスコミに直接コンタクトを取っていることから他者承認欲求が高く、報道に規制が掛けられているにも関わらず犯行が規則的なのは同一犯による犯行の裏付けになる。
電話口で、ミナは機械みたいに語った。
彼なりに根拠があるのだろう。翔太は立花の愛車の助手席に座り、ミナの声を聞いていた。
翔太と立花は、依頼人である国家の要人の元へ向かっていた。依頼の受理自体はパソコンで行えるらしいが、立花は公安の動きが気に掛かるらしかった。
公安という言葉には余り良い印象が無かった。彼等は国家の脅威に対して水面下で行動する。サイバーテロを引き起こしたミア・ハミルトンという少女を手駒にする為に画策したり、権力争いの為に要人を暗殺したりする。自分達を襲撃したペリドットも、その配下である。
通話が切れると、車内は低いエンジンの音に支配された。翔太は流れ行く車窓を眺め、事務所に一人残して来たミナのことを思った。
怪我人を引っ張り回すよりは、安全な場所で待機させる方が安全だ。ミナは自分の状態をきちんと理解している。無茶はしないだろうし、出来る状態でも無い。
何度でも自分に言い聞かせ、小さく息を吐いた。
車は首都高速に乗った。
殺人事件の影響か外出する人間は少なく、道は空いていた。川のように滑らかに流れて行く他車を眺める。
空は鈍色の雲に覆われ、やがて訪れる夜の闇を恐れるかのように静かだった。春が近付いているとは思えない程に街は暗く、埃のような粉雪が舞っている。
「……ミナが言ってた深淵って、何のことなんだ」
ふと思い出して問い掛けるが、立花は運転に集中しているのか目も向けなかった。
彼等は自分の知らない何かを共有している。
立花もミナも、必要であれば話してくれる。それを明かされないということは、自分には不必要だと判断しているか、打ち明けるだけの信用を得られていないのだろう。
沈黙が幕のように降りて来る。
翔太は追求はせず、胸の内で悪態吐いた。
ごうごうと、エアコンの音が
「掴まってろ」
そう言った瞬間だった。
車は悲鳴のような音を立てて、スリップするように車線を移動した。凄まじい重力が掛かり、翔太の体は左右に大きく揺さぶられた。
咄嗟に車窓の上に据え付けられていた手摺りを引っ掴む。立花は全くの無表情で、ハンドルを勢いよく回転させた。川の流れに逆らって泳ぐような強引な運転だった。
口を開いたら舌を噛む。
翔太は奥歯を噛み締めた。立花がアクセルを踏み切る。車はミサイルみたいに急発進し、翔太は座席に叩き付けられた。
何が起きた?
翔太が問い掛けようとしたその瞬間、フロントガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走った。一瞬で視界を覆われる。立花は舌打ちをした。
不明瞭な視界の中、立花は淀みなくハンドルを操作し、車は速度を上げて行く。道路を包み込むような防音壁に車を寄せ、立花はフロントガラスを肘で砕いた。爆発音が轟いたのは殆ど同時だった。
前方の車が炎上している。操作を失ったそれは蛇行し、側を走る別車に衝突すると爆発した。連鎖的に幾つもの車が爆破炎上し、高速道路の上空は真っ黒な煙に包まれていた。
排煙とゴムの焼ける嫌な臭いが漂う。突風が熱波と共に真正面から吹き付け、目を開けていることすら困難だった。
その時になって漸く、翔太は襲撃されているということに気が付いた。
燃え盛る車の隙間を擦り抜け、立花は防音壁に沿って車を走らせる。道は大きくカーブし、平衡感覚が狂って行く。
立花は片手でカーナビを操作した。
このまま走ればトンネルがある。何処かから狙撃されたのだ。だだっ広い場所にいては的になる。立花は口元を歪め、ミナに電話するように命令した。
「ミナにナビさせろ。トンネルじゃ逃げ場が無ェ」
「……分かった……!」
襲撃者の居場所の正体も、今の自分達では探れない。
ミナを残して来て良かったと、心の底から思った。
翔太は通話履歴からミナに電話を掛けた。数コールと呼び出さない内にミナは応答した。立花がハンズフリーに切り替えるように言ったが操作が分からず、スピーカー越しに教えられるという間抜けな状態だった。
風の唸りが轟き、ミナの声が掠れて聞こえる。
立花は手短に現状を話した。
「襲撃されてる。多分、ライフルだ」
『狙撃地点を絞り込む。三十秒待って』
スピーカーの向こうからタイピング音が細波のように響いた。
防音壁の透明な窓に亀裂が走る。襲撃は止んでいない。ライフルの銃弾は防音壁を貫通し、アスファルトの道路を鋭く抉った。立花が苦い顔でハンドルを回す。
『Thank you for waiting. I guide you』
三十秒と経たない内に、ミナが言った。
流暢な英語は、それだけ状況が緊迫していることを示している。
ミナは高速道路を降りるように指示した。
襲撃者が何者かは分からないが、ライフルで狙われている。しかも、相手は無関係の人間を巻き込むことを厭わない。
なるべく障害物と逃げ道の多い場所を。立花は短く相槌を打ち、ハンドルを握り直した。
前方でアスファルトが爆ぜる。銃弾を受けた車が操作を失って蛇行し、突っ込んで来る。流石に其処までミナには予測出来ない。立花は紙一重でそれを躱しながら、ナビされた高速道路の出口に向かっていた。
「今は手が離せねぇ。襲撃犯をどうにかしろ」
立花が言った。
離れた場所から自分達を導きながら、手掛かりも無い犯人をどうにかすることなんて可能なのだろうか。
しかし、スピーカーの向こうからミナが返事をした。
『I got it』
明るい声でミナが言う。
それは気が抜ける程に頼もしい言葉だった。
『俺は助けに行けない。だから、切り抜けてくれ』
祈るように、ミナが言った。
立花は笑った。
「余裕」
それはまるで、子供のように無邪気な笑顔だった。
11.ゲルニカ
⑷百鬼夜行
『襲撃犯は俺が抑える。だから、あとは頼んだ』
そう言って、ミナは通話を勝手に切ってしまった。
通話の切れた携帯電話を、翔太は呆然と見詰めていた。
それはまるで暗闇の中で灯火を失ってしまったかのような心細さだった。
高速道路にはオレンジ色の明かりが点灯していた。
午後五時。厚い雲に覆われ、辺りは夜のように暗い。吹き付ける風は身を裂くように冷たかった。緊急車両のサイレンが何処か遠くで鳴り響く。
防音壁を抜けた瞬間、再び激しい銃撃が始まった。
立花はレーサーのような鮮やかなハンドル捌きでそれを躱し、一般車両の隙間を縫って疾走する。フロントガラスが無いせいで排気ガスが眼球に染みる。翔太は目を擦りながら声を上げた。
「切れちまったぞ!」
しかし、立花は笑っていた。
片手でハンドルを握りながら、懐から手の平程の黒い機器を投げて寄越した。携帯型のレコーダーに似ている。何かと問えば、立花はトランシーバーだと言った。
紙を丸めているような雑音の中で、コツコツと何かの音がする。スピーカーを爪で叩いているような音だ。
「携帯が使えない状態を想定して、用意しておいた」
使えない状態――。壊れた、とか?
翔太が言うと、立花は口元を歪めて笑った。
「襲撃犯の方はミナに任せる。俺等はゲルニカをどうにかする」
「どうやって!」
翔太が叫んだ瞬間、視神経が切断されたのかと思う程の暗闇が突如として訪れた。遠くに光る街の明かりは消え失せ、夜の海原に投げ出されたかのような心地だった。
停電だ。
彼方此方で急ブレーキを踏む音が聞こえる。サイレンと人の悲鳴が混ざり合って、酷い不協和音を奏でている。
高速道路の外灯も消え、赤い回転灯ばかりが目に付いた。往生する車のテールランプを頼りに立花はアクセルを踏む。事故を起こさないのが不思議なくらいだった。
トランシーバーから乾いた音がする。
立花は滑らかな運転で高速道路を降りると、一般道に合流した。界隈一帯は停電し、人々の持つ携帯電話の光が蛍のように道を照らしている。
立花はカーナビを操作して目的地を入力した。
「何処へ向かうんだ」
「ゲルニカの所さ」
「犯人が何処にいるのか分かるのか?」
翔太が問うと、立花はトランシーバーを指差した。
「コツコツ言ってんだろ? それは地図の座標だ」
「この音、ミナか?」
「そうだよ」
つまり、ミナは犯人の居場所を捕捉出来ているということである。有能な事務員であることは分かっていたが、余りにも手際が良過ぎて怖いくらいだった。
携帯電話が使えない事態を想定していた。
それは、一体どういうことなのか。
「ミナは大丈夫なのか……?」
翔太はそれだけが気掛かりだった。
トランシーバーからは変わらず乾いた音が聞こえる。しかし、声が聞ける訳でも顔が見える訳でもない。向こうにミナが無事でいる保証は何処にも無い。
「あいつが任せろって言うんだから、任せるしかねぇだろ」
「携帯が使えない状態ってどういうことなんだ?」
「俺にはよく分かんねぇけど、多分」
立花は車窓を見遣り、ぽつりと言った。
「サイバー攻撃」
サイバー攻撃とは、コンピュータに侵入して破壊活動を行うことである。つまり、今のミナは何者かから攻撃されている。だから、通話を切った。
何なんだ、一体。
自分達は芸術家気取りの猟奇殺人犯を追っていて、その途中、何者かに銃撃された。事務所に残して来たミナはサイバー攻撃を受けている。
ゲルニカなのか?
それとも、別の何かが動いている?
肌を羽虫が這うような恐ろしさを感じ、翔太は身震いした。立花は悠々と車を運転している。
「俺が事務所にいたって何も出来ねぇ。適材適所だろ」
コンピュータに関してミナにどうにも出来ないものを、自分や立花が解決出来るとは思えない。信じて任せるしかない。
では、自分に出来ることは何だろう?
そんな疑問が胸の中に芽を出して、心臓に根を張って行く。
適材適所。ならば、自分には何が。
薄く雪の積もったアスファルトをヘッドライトが照らして行く。其処此処で蛍のようなLEDの光が浮かぶ。
そして、それは突如として現れた。
ヘッドライトの黄色い光に照らされ、それはまるで天から舞い降りた使者のように神々しく、美しかった。宝石のようなエメラルドの瞳が闇の中で煌き、目を逸らすことを許さない。
国家公認の殺し屋――ペリドットは、銃口を向けて静かに佇んでいた。
立花が大きくハンドルを切る。翔太にはそれがコマ送りに見えた。
銃口から放たれた銃弾が迫る。翔太が反応し、手を伸ばす間も無い刹那。吹き飛ばされそうな程の重力に押さえ付けられ、車体は人で溢れた路地に突っ込んだ。
視界が真っ黒に染まる。息も出来ない程の爆炎と熱波の中、酷い耳鳴りがした。掠れ行く意識の片隅で、翔太は夢を見た。
それはとても、懐かしい夢だった。
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