⑹深淵の使者

 汚れた街の路地裏に、黒塗りの車が停まっていた。

 傷一つ無い滑らかな装甲は、一目で高級車と分かる。運転手はブランドものらしきスーツに身を包み、マネキンのように前方を見詰めたまま動かない。


 後部座席の窓がするすると下りて行く。スモークの張られた硝子は分厚かった。其処から覗く男の顔は腐った蜜柑みかんみたいに見えた。

 白髪混じりの頭髪、皺だらけの顔は脂で光り、重い瞼の下から覗く眼球は白内障でも患っているのか濁っている。スーツに身を包んだ男はまるで汚いものでも見るみたいに翔太たちを一瞥すると、嫌そうに眉を寄せた。




「お前がハヤブサか?」

「そうだ」




 立花は無機質な声で答えた。目の前の男に何の興味も示していないことが傍目はためにも分かる。二人の間に流れる居心地の悪い沈黙に、翔太は固唾を呑んだ。




「随分、若いな」

「テメェがジジイなだけだろ」




 立花が吐き捨てると、男は嫌そうに顔を歪めた。


 その男は、那賀川金治郎なかがわ きんじろうと言った。

 参議院議員の一人で、ゲルニカと呼ばれる連続猟奇殺人犯の実父である。立花の依頼人だ。


 窓が僅かに持ち上がる。下水道を通過したから、臭うのだろう。仕方が無いとは言え、気分は悪かった。

 立花は懐に手を伸ばし、舌打ちを漏らして腕を組んだ。煙草が無いのだ。




「テメェに訊きてぇことがある」




 立花はコンクリートの壁に寄り掛かると、見下すような目付きで言った。




「依頼内容は脅威の殲滅だったな。テメェの指す脅威とは何だ」




 立花が問うと、那賀川議員は懐から一枚の写真を見せた。


 其処に映っていたのは、眼鏡を掛けた男だった。

 六十代半ばくらいだろうか。草臥れたシャツに短い髪は胡麻塩のようで、まるで長い間、何処かに閉じ込められていたかのような疲労感が滲む。少なくとも、翔太には悪人には見えなかった。




「五年前にうちの馬鹿息子が起こした事件の被害者の父親だ。私の失脚を狙う愚か者が、こいつを利用する為に国家公認の殺し屋を動かした。それが」

「ペリドット」




 立花は言葉の先をさらった。

 男は口元を歪めた。それはまるで、獲物をなぶるような嗜虐的しぎゃくてきな笑みだった。




「……そうだ。この男は私の敵対派のカードで、ペリドットの依頼主でもある。こいつがね、邪魔なんだ」




 相変わらず、立花の依頼人はクソ野郎である。

 どいつもこいつも私利私欲の為に、自分は手を汚さずに邪魔者を排除しようとする。




「五年前に起こした事件って、何だ」




 翔太が尋ねても、那賀川議員は目も向けなかった。視界にすら入れようとしない。代わりに立花が答えた。




「五年前、六歳の少女が誘拐され、惨殺死体で見付かった。未成年者の犯行ということで罪には問われなかった」




 過去に少女を殺し、今度は芸術家を名乗って連続猟奇殺人。

 更生の余地があるとは思えなかった。死刑にしたって良いと思った。そんな奴がコネクションの為に今ものうのうと生きているということが堪え難く、不快だった。




「被害者に対して、何も思わないのか」




 つい、翔太は問い掛けてしまった。



 腐っている。

 この国も、この男も、司法も政治も腐っている。

 こんなクソみたいな依頼を受けたところで誰も救われないし、野放しにされることで被害者は増え続ける。だが、ミナは言っていた。――ゲルニカを、司法の場で裁くのだと。


 どうやって、裁くというのか。

 五年前の繰り返しだ。そいつはまたコネクションで罪には問われず、事件は闇に葬られる。真相を知る者は秘密裏に殺され、また罪も無き人々は殺されるのだ。


 立花は眉間に皺を寄せた。




「テメェの馬鹿息子は何処にいる」




 温度の無い冷たい声で立花が言う。

 それはまるで、感情の無いロボットみたいだった。しかし、翔太は、その伽藍堂の瞳の奥に、確かに燃ゆる炎を見た。


 那賀川議員は車窓の向こうで目を眇め、静かに言った。




「私の別宅に隠れているように言ってある」

「アンタの息子は、親の言い付けに大人しく従う奴か?」

「それも含めて、お前に依頼している」




 勝手な言い分だ。自分では管理することも監視することも出来ない癖に、他人に責任をなすり付けて、それが当然だと言っているみたいだった。こんな奴が議員の一人では、国の行末など知れている。




「殺し屋なんだろう?」

「ああ、そうさ」




 そう言って、立花は何処か寂しげに笑った。

 そして、次の瞬間、立花は銃を握っていた。

 那賀川議員の顔色がさっと変わる。立花の銃口はその眉間を捉え、身震いする程の冷たい眼差しを向けていた。




「俺は薄汚い殺人鬼だ。テメェの息子と同じさ。でもな、俺にだって、プライドはある」




 金色の瞳に残酷な光が宿る。翔太は咄嗟にその銃口を押さえようと身構えたが、立花の冷たい眼差しに抵抗の術は全て奪われていた。




「俺がテメェの馬鹿息子を守る義理は無えよ。テメェが何処の誰だろうが、どんだけ大層なコネクションを持っていようが、関係無え」

「何だと! お前はこの私が!」

「だから、関係無ぇんだよ」




 テメェがどんだけ偉いんだ?

 絶対零度の声で吐き捨て、立花が言った。

 興奮に顔を紅潮させる男の口の端に唾が泡になって張り付いている。脂汗の滲む額が月光を反射する。


 立花は指先を引き絞った。




「テメェは気に入らねェ」




 男の言葉は、続かなかった。

 一発の間抜けな銃声と人々の喧騒、何処かで響く緊急車両のサイレン。立ち昇る硝煙と火薬の臭い。後は、沈黙だけだった。


 血塗れの車内、血液の鉄臭さ。

 頭部を撃ち抜かれた那賀川議員は動かない。立花は眉一つ動かさず、今度は運転席に銃口を向けた。




「なぁ、おい。こっち向けよ。……さっきから、気持ち悪ィんだよ」




 運転席の男は、振り返らない。

 フロントミラーに糊の効いた帽子が見える。白いシャツ、黒いベスト、真っ赤なネクタイ。それから、褐色の肌に透き通るような青い瞳。

 後部座席で人が死んでも振り返りもしない。翔太は其処から滲み出す異様な殺意に、殆ど反射的に身構えていた。




「テメェは何者だ?」








 11.ゲルニカ

 ⑹深淵の使者









 背を向けるその男は、一見すると何処にでもいそうな若者に見えた。けれど、フロントミラーに映る宝石のような青い瞳に温度は無く、背後で人が射殺され、後部座席が血の海になろうとも振り向きもしない。


 滲み出す殺気は地中深くで煮え滾るマグマのようで、飢えた野獣のようで、そして、人形のようだった。


 銃口を突き付けた立花は凍り付いたように動かない。己の一挙一動が死に直結するとでも言うかのように、全身で警戒をしている。


 男が、言った。




「必要悪というものを、ご存知で?」




 その声は、木々の隙間を通り抜ける一陣の風のように爽やかに、温度が無かった。

 ハンドルを握ったまま、男は鏡越しに立花と翔太を見ている。




「例えば、戦争。国家間の紛争や国際問題の最終的な解決手段は戦争です。例えそのものが悪であっても、人はその手段を捨てられない」




 引き金に指を掛け、立花は目を眇めた。




「それは、俺の質問への答えか?」

「いえ」




 男は少しだけ、笑ったようだった。

 鏡越しに見るその顔はあどけなく、純朴そうな若者にも見える。




「貴方と話してみたかったのです。最速のヒットマン、同業者の抑止力とさえ呼ばれる伝説の英雄がどんな人間なのか知りたかった」




 振り向いた男の横顔には、確かな笑みが浮かんでいた。青い瞳は無機質なガラス玉のように透き通り、伽藍堂だ。翔太は目の前の男との間に見えない透明な板が挟み込まれているように感じた。

 どれだけ言葉を尽くしても、絶対に分かり合えない。そんな仄暗い確信が、翔太にはあった。




「また会いましょう、ハヤブサ。それから、ヒーローの番犬」




 この男は、何を知っている――?

 翔太の追及も、立花の銃口も届かない。青い目をした男は緩慢にアクセルを踏むと、血塗れの死体を乗せて夜の喧騒の中を走り出した。排気音はまるで、地中深くに繋がれた魔獣の咆吼ほうこうのようだった。

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