⑺急転直下

 空は鉛色にびいろの雲に覆われ、今にも泣き出しそうだった。

 凍えるような寒風に湿気が混じり、静寂に包まれた竹林を音も無く吹き抜ける。翔太は目を閉じて辺りに神経を張り巡らせた。深い水底に沈んで行くかのような集中が心地良かった。


 葉の擦れ合う音がする。それは遠く響く潮騒しおさいに似ていた。

 翔太がぱっと目を開けた時、視界の端に何かが見えた。脊髄反射で身を翻せば、それは眼前で拳を固め、突風とっぷうのように振り抜いていた。

 眼球に風圧ふうあつを感じた。翔太は後方にかたむききながら拳を避けると、不安定な枯れ葉の山に両手を突いた。バク転の勢いで拳を蹴り上げる。愉悦ゆえつ混じりの口笛が囃立はやしたてた。


 脹脛ふくらはぎに衝撃を感じた時、高層ビルから突き落とされたみたいな転落感が翔太を襲った。足払いを掛けられたのだ。体勢が整っていない。

 革靴のかかとが雷のように振り下ろされる。翔太が転がって躱すと、枯れ葉を踏む間抜けな音がした。


 地面を転がりながら起き上がり、翔太は身を低く構えた。追撃は、無かった。まるで興を削がれたとばかりに、近江は腰に手を当てて溜息を吐いた。




「休憩しようぜ」




 翔太は、頷いた。


 先代ハヤブサ、近江哲哉は立花の師匠である。

 見た目は何処か浮世離れした好々爺こうこうやであるが、対峙すると地中深くに根を張る大樹のような存在感を感じさせた。翔太の直線的な攻撃は柳に風というようにことごく受け流され、壮年の男とは思えない強烈なカウンターが飛んで来る。それは純粋な身体能力による技能ではなく、経験による先読みに近い。


 携帯電話を取り出すと、ミナからメッセージが届いていた。怒った顔の絵文字が二つ。日本語を打ち込むのは面倒らしく、ミナは退屈な時によく絵文字を送って来る。

 時刻は午後二時を回った所だった。ミナが寄越したリュックにはミネラルウォーターと重箱じゅうばこみたいな弁当が入っていた。


 弁当の蓋を開けてみると、薄ら笑いを浮かべたピンク色のうさぎが出迎えた。ニンジンの飾り切りやらリボン型のハムやら、意味が分からないくらいファンシーな出来栄えである。

 いつも大味で適当な料理しか作らない癖に、時間を持て余していたのだろう。近江が腹を抱えて笑っていた。


 ピンク色の兎はピラフの味がした。中にはチーズが入っていた。弁当の下段には野菜や肉がぎゅうぎゅうに詰められていたので、上段を作ってきてしまったのかも知れない。




「ミナト、外出禁止になったって?」




 兎の頭をかじりながら、近江が言った。キャラ弁を食べる近江の姿は中々にシュールだった。

 翔太はピラフを飲み込み、肯定した。


 ミナが撃たれた時、輸血や手術の為に手を回してくれたのは近江だった。伝説の殺し屋ともなればとんでもないコネクションを持っているのだろう。ミナにとっても、翔太にとっても近江は恩人だった。




「立花がミナの松葉杖を折ったんだ」

「喧嘩でもしたのか?」

「そういう感じじゃなかったけど」




 立花は当たり前のことみたいに平然としていたし、ミナも分かっていたみたいに冷静だった。彼等の関係性はよく分からない。


 翔太は口をとがらせた。




「出歩かせて良い状態じゃないのは分かるけど、遣り方が一方的で乱暴だ」




 こんな陰口かげぐちみたいなことを言うのは好きじゃないが、吐き出す先が他に無かった。近江は「でもなァ」と鷹揚おうように笑った。




「昔の蓮治なら脚のけんを切って監禁してた」

「……」

「マシになっただろ?」




 住む世界が違うことを再認識し、翔太は黙って水筒から緑茶を入れた。水面から立ち昇る湯気を眺めていると、手の甲に滴が落ちた。


 とうとう降り出したらしい。

 近江が弁当を片付け始め、早々に腰を上げる。冷たい雨が竹林に降り注ぎ、静寂を埋めて行く。近江との特訓はそれでお開きとなり、翔太は肩を落とした。


 一先ず雨宿りをすることになり、近江に促されるまま彼の自宅に向かった。山奥の古屋は御伽噺おとぎばなし木樵きこりの住処のようだった。文化財産にでも指定されそうな藁葺かやぶきの木造家屋の一戸建てで、居間には古めかしい囲炉裏いろりがあった。


 濡れた衣服を乾かしながら、予備のトレーニングウェアに着替えた。買い物に行った時、ミナが選んでくれた機能性の高いブランド物だった。


 冷えた体を温めていると、近江が急須きゅうすと湯呑みを持って来た。微かに漂う緑茶の匂いにほっとして、翔太は差し出された湯呑みを受け取った。


 近江は立花の師匠で、恩人らしい。

 荒れ果てた生活の末、ヤクザに殺されそうになっていた所を近江に助けられたのだと言う。後継者を探していたというから立花が修行してそのまま後を継いだらしい。


 その修行場は、先程の翔太がいた竹林だった。

 殺し屋という職業上、殺気を察知する為に感覚を研ぎ澄ませ、銃が使えない場面でも戦えるように鍛えたらしい。お蔭で軍人顔負けの戦闘能力と暗殺者のような気配の殺し方を身に付けたらしいが、その上達速度は近江が予想するよりずっと早かったという。




「蓮治は孤児だった。親に愛されず、大人に守られず、仲間にも恵まれず、裏切りと謀計ぼうけいの中で生きて来た。だから、お前やミナトの思考回路が分かんねぇんだろうな」




 囲炉裏のたきぎが乾いた音を立てて爆ぜる。翔太は手持ち無沙汰ぶさたなまま、火掻ひかき棒で薪をつついていた。

 立花の生い立ちは聞いている。同情に値すると思うし、そのせいで心が乾き切っていることも分かっている。だけど、ただ冷たいだけの殺人鬼ではないことも、知っていた。


 孤児院では、年下の子供を庇って大人に立ち向かっていたと聞く。元々は正義感が強い子供だったのだろう。それが地獄のような生活で消耗し、ハヤブサという名を背負い、此処まで来た。それはとてもすごいことだ。




「ミナトみてぇに他人の嘘が分かる訳じゃねぇし、お前みたいに信念が定まっている訳でもねぇ。だから、確かめたかったんだろう」




 スマイルマン襲撃の件を指して、近江は皮肉っぽく笑った。

 試してみたかった。ミナが死ぬのか、翔太が何処までやれるのか。自分の選択に誤りは無いか。

 ならばきっと、立花はミナを助けられる位置に待機していたのだろう。助けるつもりもあった。だが、見極めたいという思いの為に一歩出遅れ、ペリドットがミナを撃った。




「真面目で頑固で、頭が固いんだよなァ。俺ァ、ミナトがその壁をぶっ壊してくれるんじゃねぇかと期待してたんだが」




 いつか、立花の纏うよろいがれる日が来るのかも知れない。それは明日かも知れないし、もっと先のことなのかも知れない。でも、ミナは立花と向き合おうとしている。それがどんな方法であれ、翔太に口を出す権利は無かった。









 10.暴力の世界

 ⑺急転直下きゅうてんちょっか








 天の底が抜けたかのような大雨だった。

 アスファルトは水没し、水面はモザイク硝子のように泡立っている。


 近江は雨宿りを勧めてくれたが、止む気配が無かったので翔太は仕方無しに帰路を辿った。借り物のちゃちなビニール傘は気休めにしかならず、繁華街の近くに行き着いた頃には全身しっとりと濡れていた。

 靴の中からぐじゅぐじゅと雨水が染み出す。雨脚は次第に激しくなり、視界が不明瞭になった。普段は人であふれた道も静まり返り、遠くに灯る建物の明かりが不気味に感じられた。


 クラクションを鳴らしながら、赤いミニバンが通り抜ける。雨水が跳ね、足元を濡らして行った。翔太は舌打ちを零し、道を変えた。車の多い大通りよりも、人気の無い路地を通った方が安全で近道だった。


 ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。翔太は傘を肩に担ぎながら携帯電話を耳に当てた。


 ミナだった。雨が激しいので、心配したらしい。迎えに行こうかなんて馬鹿な提案をするので、突き放すように断った。言ってから、迎えに来るのはミナ自身ではなかったのかも知れないと思い至った。


 スピーカーの向こう、ミナは名残惜しむように中々通話を切ろうとしなかった。掠れる声は雨音に掻き消され、聞き取れない。顔を上げた先に高架下道路が見えた。


 雨宿りに丁度良い。

 ミナに待つように言い置いて、翔太は道を急いだ。


 高架下は薄暗く、まるで土の中にいるみたいだった。雨音が遠去かり、濡れた衣服が肌に張り付く。己の意思とは無関係に、余りの寒さに体が震えた。




「今日は何をしてたんだ?」




 トンネルの出口を目指し、翔太は歩き出した。

 自分の足音と水の落ちる音が混ざりながら反響する。翔太は濡れそぼったそでしぼり、スピーカーの音量を上げた。




『レンジと将棋をしたよ。三戦三勝だった』

「すごいな」

『ゲームは得意なんだ』




 松葉杖を折られたり、胸倉を掴んで恫喝されたりしているが、いつも殺伐としている訳ではないのだ。暇な時は目隠し将棋やチェスをするらしい。




『レンジは頭が良いから、コンピュータみたいにその時の最善手を選ぶ。だから、その計算が成り立たないくらい盤上ばんじょうをぐちゃぐちゃに引っ掻き回した時、レンジが睨んで来るのが面白い』




 立花に睨まれるというのは想像するだけで恐ろしいが、ミナが目の前にいたら、白い歯を見せて笑っていたのだろう。


 ミナトが立花の壁をぶっ壊す――。

 近江の声が蘇る。殴るのでもなく、銃を向けるのでもなく、微温湯の中で氷を溶かすみたいに、ミナはいつか立花の張った予防線を越えて行くのだろう。


 翔太は濡れた手を拭い、携帯電話を持ち直した。

 ミナの声を聞いていると、まるで広大な海の上を大の字で漂っているような、温かい布団の中で眠りに落ちる瞬間のような、形容し難い全能感と虚無感を感じた。


 何もかも投げ捨てて縋り付きたいような、拳を振り上げてぐちゃぐちゃに壊してしまいたいような相反する感情が込み上げて、自分でもどうしたら良いのか分からない。


 なあ、ミナ。

 呼び掛けると、ミナは子供みたいに「なあに?」と言った。




「サイコパスは脳の機能障害だって、言ってただろ。あと、身体機能は遺伝するって」

『うん』

「……じゃあさ、俺もそうなのかな」




 自分もいつか、妹みたいに人を殺すのだろうか。立花の行為を乱暴だと感じなくなったり、人質の足を撃つことを合理的だと思ったり、機械みたいに無感情に命を奪ったりするのか。


 翔太は、それが怖かった。自分の感じている親しみは偽りで、どんなに大切に思っていても、その時が来れば容赦無く刃を振りかざす。自分も、そういう資質を持っているのか。


 ミナは平然と答えた。




『分からない』




 物事を率直に伝えるのは、ミナの良いところだと思う。

 無意味に期待を持たせたり、その場凌ばしのぎの嘘を並べたりしない。




『正常かどうかの線引きなんて誰にも出来やしない。俺は君が大切だと思うし、生きて欲しい。君が地獄に落ちるなら、俺が何度でも引っ張り上げてあげる』




 余りにも彼らしい返答だった。

 翔太は強張こわばっていた肩の力が抜け、そのまま座り込んでしまいたい程の安堵を覚えた。


 トンネルの出口は仄かに明るかった。雨脚は変わらず激しかった。このままミナの声を聞いていたいような気がしたけれど、携帯電話が防水なのか分からなかった。


 切るぞ、と言うと、待ってるね、と返って来る。当たり前みたいに帰る先を示してくれる子供の声が、まるで闇夜を照らす灯火みたいに感じられた。


 通話の切れた携帯電話を眺める。通話時間、二分。翔太は携帯電話をポケットに押し込み、出口に向かって歩き出した。


 何処かで雨漏あまもりしているのか、水の落ちる音がする。

 帰ったら、何をしようか。今日のことをどんな言葉で話そうか。特訓のこと、立花のこと、自分の身の回りに起きた小さな出来事をどんな風に話そう。


 語彙が偏っていても、話術が拙くても、纏まりが無く単調でも、ミナはきっと聞いてくれる。


 顔を上げた時、出口がぐらりと傾いて見えた。

 喉の奥から何かが込み上げて、口を覆った。薄暗いトンネルの中、手の平は真っ赤だった。




「は……?」




 灼熱の槍が突き立てられたみたいに、脇腹が熱い。雨の音が、車のクラクションが、誰かの足音が、不協和音を響かせる。


 撃たれた。

 そう気付いた時には、翔太の意識は闇の中に消えてしまっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る