⑹見えない敵意

「うおっ」




 扉を開けた瞬間、星空が見えた。

 七色に輝く星が壁や天井に映り、まるで宇宙空間にいるみたいだった。部屋の中央に何かの装置があり、其処から光が放たれている。




「ショータ」




 寝起きみたいな掠れた声が呼ぶ。翔太は声を頼りに部屋の中へ足を踏み入れた。

 部屋の奥に置かれたベッドに、ミナが座っていた。光源となっていた装置はヘルメットみたいなドーム状で、小さな穴が無数に開いていた。内部には携帯電話が置かれているらしい。


 簡易的なプラネタリウムだ。

 部屋から出られず退屈していたのだろう。そういう時に工作に勤しむのは子供らしくて微笑ましかった。


 ミナが部屋の明かりを点けたので、星空は一瞬で消え去った。名残惜しいような気がして装置を眺めていたら、ミナが悲鳴みたいな声を上げた。




「どうしたの、それ!」




 ミナの顔を見て、自分の状態を思い出した。

 何処から話すべきか考えていると、ミナは片足を引き摺りながら救急箱を持って来た。一人掛けのソファに座らされ、翔太は黙っていた。ミナが両腕に巻いていた包帯を解き、慣れた手付きで傷口の消毒をする。消毒液が染みて痺れるような感覚がした。


 ミナは湿布を貼ると、上から包帯を巻き直した。

 父親が医者だったことを思い出す。肩書きだけ聞くと常識人に思えるが、事情があるとは言え、未成年の息子を異国の殺し屋に預けるような人間である。多分、想像するよりずっと変人だろう。


 翔太がストリートファイトの話をしている間、ミナはずっと処置をしていた。顳顬こめかみの裂傷は縫わなくても大丈夫だと言ったので、自分の怪我が思うよりも酷かったことに驚いた。




「お前の松葉杖、立花が折ったぞ」

「そうなんだよ。酷いだろ?」




 ミナはおどけるように肩を竦めた。

 余りショックは受けていないようだった。ミナの怒りを感じるポイントはよく分からない。




「大人しくしてるよ」

「……そうしろ」




 本人が気にしないなら、自分が立花に何か言う必要は無かったのかも知れない。

 顳顬こめかみにガーゼを貼り終えると、ミナは拳の消毒をしてくれた。目に見える部位の処置を終えると、ミナはノワールの様子を尋ねた。




「元気そうだったよ。お前のこと、心配してたぞ」

「ノワールは優しいからね」

「なあ」




 ソファに座り直し、濃褐色の瞳を見詰めた。

 この目には他人の嘘が見える。透き通った深い水底を見ているような空恐そらおそろしい感覚だった。




「ノワールとペリドットは本当に兄弟なのか?」

「さあ」

「もし本当に兄弟なら、何とかして会わせてやれないのか」

「なんで」

「なんで?」




 問われても、上手く答えられない。

 ノワールは良い奴だ。力になってやりたい。ミナはそうじゃないのだろうか。


 いや、彼等は詮索しないのだ。互いに嘘を見抜けるから、知らされないことは調べないのだろう。




「ノワールは兄貴に会いたがってる」

「知ってるよ。でもそれって、余計なお世話って奴じゃないの?」

「……そうかも知れないけど」

「彼等にも事情はあるだろうさ。ノワールから頼まれたなら兎も角、家族の問題に他人が首を突っ込むべきじゃない」




 不要な語彙ばっかり増やして、小憎こにくたらしい奴である。

 翔太が腕を組んで唸っていると、ミナがベッドから起き上がった。片足を引き摺りながらキッチンへ行こうとするので肩を貸した。どうやら、湯を沸かしたいらしい。


 手鍋をミネラルウォーターで満たして、コンロに火が灯る。波一つ立たない静かな水面を眺めていると、ミナが言った。




「ねえ、ショータ」

「あ?」




 思わず低い声が出てしまい、慌てて口を押さえた。

 ミナは気にする素振りも無く、穏やかに言った。




「君は友達とか親戚とか、付き合いがあった?」

「……?」




 いきなり話題が変わったので面食らったが、ミナは何も感じていないような穏やかな顔付きだった。

 手鍋の水面が微かに揺れる。小さな気泡が底から湧き出しては弾けて消える。ミナは棚からマグカップを二つ取り出すと、インスタントのティーバッグを入れた。




「君の家族のお墓を探してたんだけど、見付からないんだよね」




 そういえば、そんなことも話したな。

 他愛の無い口約束を律儀りちぎに覚えてくれていたらしい。

 沸騰したミネラルウォーターをマグカップに注ぐと、入道雲みたいな湯気がキッチンを包み込む。


 何の面白味も無い無地のマグカップを差し出して、ミナが言った。




「事件は報道されていないし、捜索願も出されてない。変だろ?」

「……皆、無関心だったんだろ」

「この社会の人間は、同情出来ると思えば無理矢理にでも介入する傾向がある。精神的な優位性を保つ為にね。ましてや、それが縁の薄い相手なら好き勝手にレッテルを貼って吹聴する」




 悲しい考え方だが、確かにその通りだった。

 ハッカーのミア・ハミルトンも同じことを言っていた。人の本質は悪である、と。




「家族以外に覚えている人はいる?」




 翔太は冷蔵庫に寄り掛かり、マグカップを覗いた。安っぽい紅茶の匂いが包み込む。穏やかな水面を眺め、翔太は記憶を振り返った。


 友達も仲間も、近所付き合いもあったはずだ。だけど、全ての人間はもやが掛かって、認識出来ない。貫かれるように頭が痛くなり、翔太は額を押さえた。


 ミナの大きな瞳が、鏡のように翔太を映している。




「俺はね、情報操作されているんだと思う」

「箝口令が敷かれてるってことか?」

「もっと高い次元の話さ。例えば、関係者全ての記憶を捏造するとか」

「そんなこと出来るのかよ」

「理論上は可能だよ。君達は都会から田舎に引っ越している。それまでの関係性は其処で一度リセットされているんだ。しかも、田舎のような狭いコミュニティは排他的で、仲間意識が強いからね」




 洗脳は容易い。

 ミナは、そう言った。


 正体不明の悪寒が背中を駆け抜けて行った。ミナの話を聞いていると、まるで奈落の底から湧き出した腕に足首を掴まれているような恐ろしさを感じる。


 ――飽和する情報の中で、何を真実とするかは多数派に委ねられる。大衆が貴方たちを悪だと言えば、社会は貴方たちを袋叩きにする。


 以前、大阪に行った時にミナが言っていた。その時は何も思わなかった。まさか、それが自分に降り掛かるだなんて想像もしなかった。


 翔太が睨むと、ミナは肩を竦めた。




「可能性の話さ。生きている人の痕跡を消すなんて、普通の人に出来ることじゃない」

「有り得ない話じゃないってことだろ。どうすりゃ良い」




 ミナが上目遣いに見た。けれど、それは様子を窺いへつらうような可愛らしいものではなく、ナイフを突き付けるような凄みを持った視線だった。




「他人を信用するな。目立つ行動は避けろ」




 叩っ斬るみたいな容赦の無い声だった。ミナの目は真剣そのもので、闇に光る野生動物のようだった。




「今の君は幽霊みたいなものなんだ。とても嫌なものに巻き込まれている。それを忘れないで」

「……分かった」

「俺は君の味方だ。幾らでも巻き込んでくれて構わないし、好きなだけ疑ってくれ。でも、俺は君より選択肢が多いから、いざと言う時は頼ってくれると嬉しい」




 ミナが笑って、拳を伸ばした。

 既視感を覚える仕草だった。きっと、これは彼のジンクスみたいなものだろう。翔太が拳で応えると、ミナは明るく笑った。




「君が俺の切り札であるように、俺が君の命綱になる」

「……頼りねぇ命綱だな」




 翔太が笑うと、ミナも応えるように微笑んだ。









 10.暴力の世界

 ⑹見えない敵意









 体の彼方此方が軋むように痛む。

 関節は油切れの機械みたいに動きが鈍く、筋肉が悲鳴を上げる。口の中は血の味で一杯だった。


 翔太は悴む両手を擦り合わせた。吐き出す息が白く霞み、やがて消える。冬は空気が澄んでいる気がした。静かな夜の街をクラクションが鋭く切り裂いて行く。


 ランニングや筋トレ、近江やノワールと特訓。

 睡眠時間は大きく削られたが、ミナが行動を制限されているのでトレーニングに専念出来る。


 朝方に出掛けて、夜中に事務所へ戻る日も増えた。自覚出来る程の成果は無い。事務所で失神するように眠り、起きると毛布が掛けられていたり、怪我の手当てがされていたりした。


 夜中に戻った時、三階の明かりが点いていた。

 意識喪失寸前の体を引き摺って階段を上ると、ミナが電話をしていた。英語だったので内容は分からないが、親しい相手では無さそうだった。翔太の存在に気付いても通話を切らず、片目を閉じて手を上げた。


 通話が終わるまで、翔太はソファに座って待っていた。

 電話の声を子守唄に、うとうとと船をいでいる内にミナが通話を終えた。




「お疲れ」

「ああ」




 それだけを言って、ミナはパソコンの元に行ってしまった。

 態度は以前から何も変わっていないのに、離れて過ごす時間が増えたせいで接し方に迷ってしまった。ミナの真剣な横顔がブルーライトに照らされて、まるで死人のように見える。




「今日は何してたんだ?」




 共通の話題が無かった。

 ミナはパソコンから目を上げて、とろけるような笑顔を見せた。




「読書とFX、後はリハビリしながら映画を見てた」




 ミナは立花の言い付けを守り、事務所の三階に篭っているようだった。そして、翔太の不在時、ミナは筋肉量が落ちないようにリハビリとトレーニングをしているらしい。具体的な内容は見ていないので知らない。


 広げられる話題が無いかと言葉を選んでいる内に、ミナはパソコンに意識を向けてしまった。集中状態に入ると、周囲の声が聞こえなくなるのだ。


 何をそんなに一生懸命やっているのだろう。覗いてみようかと思ったが、止めた。やぶつついてへびを出す必要は無かった。




「立花には話したのか?」




 翔太が尋ねると、ミナが動きを止めた。

 緩慢な動作でミナが振り返る。庇護欲を掻き立てるような柔らかな笑顔だった。




「Not yet」




 久しぶりにミナの英語を聞いた。

 翔太はソファに体を預け、溜息を吐いた。




「……なあ、ミナ。この前、生きている人間の痕跡を消すのは難しいって言ってただろ」

「Yeah」

「それって、本当に出来ることなのか?」




 人は生きている限り何らかの痕跡が残る。

 人里離れた山の中でも、今はインターネットで覗ける時代だ。そんな世界でどうやって自分の存在を消せるのだろう。


 ミナは膝の上に手を組んだ。骨と皮しかないような薄い手の平が蛍光灯に照らされ、青白く見える。




「何をって生きていると定義するかによる。肉体的な死と社会的な死は違う。名前や過去を捨てて別人になる方法もある。アメリカの証人保護プログラムなんかは最たる例だ」




 証人保護プログラムとは、法廷や議会での証人を暗殺や報復から守る為の措置である。


 ミナは組んでいた指先を合わせ、薬指をくるくると回した。器用な子供である。




「洗脳、情報操作、社会的抹殺。手段を選ばなければ、それは可能だ」




 では、今の自分はどのような立場にいるのだろう。

 父は警察官だった。警察組織は不祥事を嫌う。警官の娘が一家を惨殺したとなれば、国家はスキャンダルを恐れて情報操作もするだろう。


 今の自分はミナにとって、警察組織に対抗出来るカードの一枚なのだ。ミナの思惑が何処にあったとしても、翔太は態度を変えるつもりは無い。




「警察はお前の敵か?」




 率直に問い掛けると、ミナは驚いたみたいに目を丸くした。

 ミナは何か大きなものと闘う為に、凡ゆるコネクションを作ろうとしている。彼にとっての敵が何なのか分からない。




「そのつもりは無かったんだけどね……」




 独り言みたいに、ミナが呟いた。

 それきりミナは背中を向けて、黙ってしまった。集中状態に入ったのか、無視を決め込んでいるのか、今度は声を掛けても振り向かなかった。


 タイピング音を聞いている間に、強烈な睡魔に襲われた。覚醒と睡眠の境目で、翔太は懐かしい声を聞いた気がした。それが誰だったか思い出せないまま、翔太は沈むように眠りに落ちて行った。

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