⑸溝
寂れたラーメン屋は、肉体労働を
ノワールは勝手知ったるとばかりにカウンター席に座った。翔太が隣に座ると、ノワールが声を張り上げて注文する。値段の安さと量を売りにしているらしく、品数もラーメンとビールしか無かった。
何処にでもあるようなプラスチックのグラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。干からびた体が生き返るようだった。
仕合の後、適当に応急処置はしたが、体がガタガタだった。ガードに使った両腕は青黒く鬱血しているし、ジャブとは言え、顔面にも食らってる。
今の自分をミナが見たら、卒倒しそうだな。
そんなことを考えていると、ラーメンの
値段の理由に納得しつつ、翔太は手を合わせた。
口の中が切れているせいで、野菜炒めの塩味が染みた。しかし、体は食事を求めていたので水で無理矢理流し込んだ。
ふと目を向けると、ノワールは既に野菜炒めを食べ終えて麺を啜っていた。痩せの大食いという奴なのだろう。身近にブラックホールみたいな胃袋を持つ子供がいるので、それ程には驚かなかった。
「話の続き、聞かせろよ」
野菜炒めを食べ終えると、漸くラーメンらしくなって来た。
麺が伸びる前に食べようと箸を入れる。ノワールは食べ終わったらしく水を飲み干した。
ちゃんと噛んだのだろうか。
事務所でミナと食事することが多かったせいで、やけに他人の行儀に目が行く。そんな自分が面倒で、心地良かった。
「別にもう、話すことねぇんだけどな……」
ノワールは空になったグラスをカウンターに置き、退屈そうに肘を突いた。
テーブル席の男連中がどっと笑った。机には空になったジョッキが並べられ、何を話しているのか分からないが、楽しそうだった。
「俺の親父はクソ野郎で、強盗に殺された。俺は兄貴に助けられた。そんで、施設に行って、兄貴はいなくなった。……前にも言っただろ?」
ノワールは皮肉っぽく笑った。
「俺達はそこそこ歳が離れてたからな、親父に対して思うことも違っただろうさ。俺にとってはクソ親父でも、兄貴は違ったのかも知れねぇ」
「……犯人を探してんじゃねぇかって、復讐の為にってことか? 弟を放り出して?」
ノワールはくしゃくしゃと頭を掻いた。
「知らねぇよ。俺は兄貴の気持ちも、犯人のことも何も知らねぇ」
報われない話だ。
この場にペリドットがいたら、ノワールに代わって怒鳴っていたかも知れない。どんな事情があったとしても、弟を置いて姿を消すなんて有り得ない。残された家族がいるのに、復讐だなんて。
それでは、まるで、弟より死んだ父親の方が大切だと言ってるみたいじゃないか。
いや、もしかしたら、ペリドットが自分と同じような状態にある可能性もある。意識や記憶の混濁があって、事情があって、ノワールのことを忘れていて――。
こんな安い慰めで、救えるはず無い。
翔太は勢いよく麺を啜り、一気にスープまで飲み干した。
ノワールが言った。
「俺にとっては、自慢の兄貴だったんだ」
それは駆け出しの殺し屋でもなければ、驚異的な身体能力を持つ裏社会の住人でもない、天神新という等身大の青年の言葉だった。
ミナの弟、ワタルを思い出す。
兄が生きていて、自分の知り得ない何かの事情を背負っていて、いつ死ぬとも分からない危険な場所で一人でいる。そう思ったら、居ても立っても居られないだろう。
血の繋がった家族であっても、分かり合うことは難しい。別の人間なのだ。例え、それが人間の形をしていたとしても、その皮の下が同じとは限らない。
「犯人が見付かったら、どうするんだ?」
ペリドットが親の仇を生かしておくとは思えない。だけど、ノワールは違うだろう。
ペリドットとノワールの目的は違う。それが、いつか取り返しの付かない
ノワールは腕を組み、唸った。
「どうでも良い。勝手に生きて、勝手に死にゃ良いさ。そんな奴はどうせろくな死に方しねぇだろうしな」
淡白なものだ。
翔太は苦笑した。ノワールが釣られるようにして少しだけ笑ったので、ほっとした。
そういえば、とノワールが言った。
「ミナは元気か?」
翔太は、出会い頭にも訊かれたことを思い出した。
スマイルマンと遭遇した時、ノワールもいたのだ。自分の兄が友達を撃った。何も思わない筈も、無かった。
翔太は頭を掻いた。気が立っていたとは言え、悪いことをした。八つ当たりだった。逆の立場だったなら、自分だって心配した。
「まあまあかな」
「俺に嘘や誤魔化しが通じると思ってんのか?」
そうだった。
ノワールはミナと同じ、他人の嘘が分かる人間なのだ。原理は知らないし、理解も出来ない。
嘘を吐いたり、
「ぴんぴんしてるとは、言えねぇ。だから、あんまり連れ出せねぇ」
「……そうか」
「ノワールが心配してたって、伝えておく」
「いや、いいよ。そんなこと言ったら、無理して出て来るだろ」
確かにそんな気もするけれど、今のミナなら翔太にも捕まえられそうだ。
ラーメン一杯で居座るのも悪いと思い、二人で席を立った。宣言の通りにノワールが奢ってくれた。
辺りは真っ暗だった。繁華街の喧騒から離れた夜の街は、まるで別の世界に迷い込んだみたいで薄気味悪い。
二人で帰路を辿りながら、ぽつぽつと話をした。
ミナといつ出会ったのか聞いてみたら、秋頃だと言う。二人は親しげだったが、時間にしてみれば半年くらいなのだ。時間と信頼関係が比例するとは限らないが、もしかすると、ミナ自身もこの国に来てから一年も経っていないのかも知れない。
「捨て犬に見えたんだよなァ」
ノワールはそう言った。
去年の秋、街をぶらついていたノワールは捨て犬みたいな子供に出会った。育ちは良さそうなのに、保護者の一人もおらず、誰かを探している様子も無い。そんな時に焼き芋売りのトラックが通り掛かって、二人で分けて食べたと言う。
翔太が出会った時も、ミナは焼き芋を持っていた。
きっと、ノワールにしてもらったことが、とても嬉しかったのだろう。だから、翔太にも同じことをした。
ミナもノワールも、優し過ぎて、温か過ぎて、泣きたくなる。
翔太が黙っていると、ノワールが思い出したように言った。
「そういや、さっきの仕合。危なかったな」
俺ならこうするね、と当たり前みたいに普通の人間には不可能な話をするので、翔太は呆れて聞いていた。話題を変えたかったのかも知れない。
先程対戦したウルフは、ノワールにして見れば雑魚で、無傷で倒して当然の相手だったと言う。
「お前は動きが硬いし、予測が甘ェ。ずっと後手に回ってたじゃねぇか」
「うるせぇな……」
「ああ、でも、あのキックは良かったな。脇腹に入れた奴」
三日月蹴りのことらしい。
ノワールは所謂、技名というものを殆ど知らなかった。だが、一度見れば大抵のことは真似出来ると言う。恐らく、目が良いのだろう。
「……でも、お前にはまだ届かねぇ」
翔太は舌打ちをして、足元の小石を蹴った。
小石は乾いたアスファルトの上を転がって、動かなくなった。ノワールは歩調を早めて小石の側に立つと、右足を振り下ろした。
革靴の下から出て来たのは、小石の破片だった。相変わらず、冗談みたいな男である。
「当たり前だろ、俺は強ェんだ。お前とは場数が違ェ」
「……」
「そうだ」
ノワールは、悪戯を思い付いた子供みたいな顔をしていた。エメラルドの瞳が月光を反射して輝いている。
「特訓を付けてやるよ」
「何でだよ」
「お前が雑魚だと、またミナが怪我するからな」
翔太は息を漏らすようにして笑った。
それは、願ったり叶ったりだ。
二代目ハヤブサの近江の修行だけでは、足りないと思っていたところだった。
「良いぜ。テメェを超えてやるよ」
「言ってろ、バーカ」
普通の友達みたいだ。
そんなことを思いながら、胸の内側から湧き出す興奮を抑え切れなかった。
強くなりたいと思う。
守られるのはもう嫌だ。大切なものを守る為に、強くなりたい。
ノワールの瞳が宝石のように輝いている。
此処から何かが始まる気がする。そんな期待を胸に、翔太は帰り道を歩いた。
10.暴力の世界
⑸
事務所の扉を開けた時、翔太は絶句した。
松葉杖が真っ二つに折れ、転がっていたのだ。木製品ではあったが、普通では考えられない事態であることは明白だった。
咄嗟に駆け寄って見ると、それはまるで膝に打ち付けて叩き折られたみたいだった。フレームが割れ、金具が歪む程の凄まじい力である。
ミナじゃない。怪我をしていたし、物理的にも人間的にも有り得ない。ならば、こんなことをする人間は、一人しかいなかった。
薄暗い室内で、ブラインドから淡い月光が差し込んでいる。オレンジ色の炎がまるで一等星のように光っていた。
「立花……」
立花が、煙草を咥えて立っている。
金色の瞳は氷のように冷たかった。
「アンタがやったのか……?」
立花は、翔太の手元を見遣り、興味も無さそうに肯定した。
何で、どうして、何の為に。
喉が張り付いて声が出ない。嫌な予感がして三階に上がろうとしたら、立花が言った。
「あいつは暫く出さねぇから」
どういう意味だ。
翔太が睨むと、立花は煙を吐き出した。糸みたいな煙が立花の周りを漂って、やがて消えて行った。
「今のあいつは動けねぇ。狙われた時、面倒だ」
「……」
言っていることは、分かる。――分かるが、どうしてこういう遣り方しか出来ないのだ。
「どうせ、言っても聞かねぇだろ」
立花はさも当然のように言い捨てた。
言っても聞かない。確かに、ミナは衝動的な所がある。二度も撃たれているし、ならばいっそ移動手段を失くすというのも分かる。だが、折らなくても良いじゃないか。
疲労感がどっと押し寄せて、翔太はその場に
その時になって、立花が呑気に「喧嘩でもしたのか」と尋ねた。松葉杖を折ったことに何も感じていないみたいだった。
翔太は溜息を吐き、割れた木片を拾い集めた。
「なあ、立花。アンタの言いたいこと、俺は分かるよ。出歩かせるべきじゃないってのも、同感だ。……でも、こういう遣り方は、止めた方が良い」
立花は何も言わなかった。
壁と話しているみたいだ。翔太は居心地の悪さを味わいながら、それでも続けた。
「賢いけど、子供だぞ。物理的にどうにかしようとしたら、
立花が歩み寄ってくれているのも知っているが、ミナだって協力して来た。誰にも死んで欲しくないという子供が、殺し屋の仕事に手を貸すなんて相当な
「だったら、何度でも叩き潰してやるさ」
立花が笑うので、翔太は深い溜息を漏らした。
同じ
立花は凡ゆるものを力で勝ち取って来た人間だ。対話で分かり合うという選択肢が無かったことも分かっている。
翔太は散らばった木片を纏めてゴミ箱に捨てた。
「ミナの様子、見て来る」
翔太が言うと、立花は鍵を投げて寄越した。
空中でキャッチして、
もう、こいつ等はよく分からない。
翔太は三度目の溜息を呑み込み、階段を上がった。
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