⑷壁
室内は湿った熱気に包まれていた。
窓の近くの壁際に、白いベッドが置かれている。こんもりと盛り上がった布団は等間隔に上下していた。
まるで、
「ミナ」
立花が呼んでも、ミナは顔を見せなかった。
側まで行って覗き込むと、ミナは青白い顔で眠っていた。額には汗の滴が浮かんでいるのに、顔色は死人のようだ。風邪による発熱とは思えない。
ベッドに腰掛け、
何か薬を呑んだだろうか。立花は、看病というものをしたことが無かった。熱を出した時、何をするべきなのか。何が必要なのか、何が正解なのか分からない。
死にはしないだろう。
そう思うのに、このまま立ち去るのは
翔太の言葉が耳の奥にこびり付いている。
ミナが死んだら絶対に後悔するぞ。
反論してやっても良かった。だけど、無意味だとも思った。
翔太と立花の生きている世界は違うし、ミナがこれから進む道も違う。相容れないのならば干渉するのはエネルギーの無駄だった。
溜息を吐き、立花は冷蔵庫に向かった。
一人暮らし用のコンパクトな家電だった。下の
どうして俺がこんなことしてやらなきゃならないんだ。
ぶつけようのない苛立ちを呑み込み、立花はミナの頭の下に氷枕を押し込んでやった。ミナの目が薄らと開き、胡乱な目付きで見上げて来た。
「レンジ?」
立花は答えず、またベッドに腰を下ろした。
この子供は、よく分からないタイミングで礼を言ったり、謝ったりする。立花は鼻を鳴らした。
「熱か?」
「……ちょっとね」
そう言って、ミナは体を起こした。熱い空気の塊を吐き出して、ミナの肩が萎んで行く。
見る度に、この子供は傷を負っているように思う。
その体がどんどん小さくなるような気がして、腹の底がざわざわして、落ち着かない。
雑魚の癖に出しゃばるから、こういうことになる。これを反省して事務所に篭ったり、怯えて助けを乞うなら可愛げもあるが、そうではない。重傷の体を引き摺りながらでも歩き回るような救えない馬鹿な子供である。
立花はサイドテーブルに置かれたミネラルウォーターのペットボトルを手渡してやった。
「この世が等価交換なら、お前は最期の時に何を払う?」
散々、この子供が訊いて来たことだ。
立花にとっては無意味で、無価値な問答だった。
ミナはペットボトルを受け取ると、潤んだ目で瞬きをした。
「明るい未来を」
「……?」
よく分からない答えである。
だが、ミナは蕩けそうな笑顔を浮かべていた。
蚕蛾という生き物は、成虫となって
愛され慈しまれて大樹が育つのならば、途中で
立花が鼻で笑うと、ミナが火の点いた目で言った。
「何度でも、証明してみせるから」
何の話だ。
立花が追及する前に、ミナは掠れた声で続けた。
「アンタに見られない景色を、俺が見せてあげる」
ミナは口角を吊り上げ、不敵に笑っていた。その双眸は満天の星みたいに輝いている。立花はつい、笑ってしまった。
己の身も守れず、信念も貫けず、強者の獲物でしかないこの子供が、自分には見えない景色を見せてくれると言う。
この馬鹿な子供が
「レンジの地獄に、花を咲かせてあげるから」
面白ェ。
立花が笑うと、ミナも笑った。
10.暴力の世界
⑷壁
喚き立てる観衆は、まるで死体に群がる
翔太はその中心部で、硝子のように降り注ぐ眩い光に目を眇めた。
レフェリーは、白シャツに蝶ネクタイという喜劇みたいな服装をしていた。白髪混じりの髪を後ろに撫で付けた髪型が一層、
対戦相手は、見上げる程の大男である。
張りぼてではない活きた筋肉が体を覆い、浅黒い肌には細かな古傷が散っていた。黒のタンクトップは今にもはち切れそうで、空手の道着みたいなスラックスは汗と
刈り込まれた黒髪からは汗が滴になって落ちる。切れ長な双眸には
対戦表には、ウルフと記されていた。
ウルフは、血に飢えた野獣のような目付きで翔太を睨むと、皮肉っぽく笑った。
「お遊びのつもりじゃ怪我するぜ?」
ウルフは独特のステップを踏んでいた。
ボクシングだろうか。レフェリーが仕合開始の宣言をする。その瞬間、筋肉に覆われた二の腕が
風を切る音が間近に聞こえた。すぐ様、左のストレートが飛んで来る。咄嗟に腕でガードするが、受け止めた拳の衝撃が筋肉や骨を伝わってびりびりと痺れるようだった。
ウルフが距離を詰めて来た所で、翔太は正面から胴を狙って蹴り付けた。ダメージを与える為ではない。迫り来る岩石のような大男を後ろに倒す為だった。
異様な硬さを感じ、骨が軋む。まるで、壁を相手にしているみたいだ。
翔太は歯噛みした。ウルフの顔が歪む。効いていない訳じゃない。
上段回し蹴り。
肉を打つ乾いた音が響く。ウルフの体がぐらりと揺れ――、眼光が鋭利に光った。
その瞬間、ウルフの猛攻が始まった。手当たり次第、力任せに殴り付けているように見えるのに、其処には確かな型がある。
ジャブのつもりだろうが、一撃一撃が重い。翔太は防戦一方だった。両腕があっという間に
堪え切れず、翔太の身体はアスファルトの上を勢いよく滑って行った。観客が、天井灯が、レフェリーの声が遠い。視界が生き物みたいにぐにゃりと歪み、そのまま溶けてしまいそうだった。
「翔太! 立て!!」
ノワールの声が聞こえ、翔太はアスファルトの上を転がった。ウルフの拳が
足を止めたら、駄目だ。
自分よりウルフの方が力が強い。ガードで
側頭部を思い切り殴られたからだ。
相手のペースに呑まれている。翔太は目に入らないように腕で拭い、深呼吸をした。
猛獣のようにウルフが突っ込んで来る。翔太は呼吸を落ち着けて、目の前の獣に身構えた。――その時、声が聞こえた気がした。
俺は君の味方だよ。
濃褐色の瞳が、蕩けるような笑顔が、背中に感じた温もりが、まだ終わりじゃないと訴え掛ける。
こんな相手に負けていられない。翔太は拳を握った。
ウルフの左拳が翔太の腕を打ち付ける。そして、勢いよく右腕が振り抜かれた。内側の回転を加えた右ストレート。直撃していたら、立ち上がれなかった。
翔太は寸前で身を屈め、左足を振り切っていた。脇腹を狙った一撃を読んでいたのか、ウルフが脇を締める。それでも構わなかった。
「ガードが甘ぇぞ、狼野郎!」
両腕ガードの間を狙い、翔太の左足は
骨の折れる鈍い音が響く。ウルフが腹部を押さえて
三日月蹴りである。学生時代からの得意技だった。それは脇腹、肋骨、肝臓にダメージを与え、加減を間違えれば骨を折り、内臓を損傷させる危険な技だった。
ウルフは声にならない悲鳴を上げ、倒れた。
翔太は戦闘態勢を解かなかった。此処は道場じゃない。裏社会のストリートファイトだ。相手が真面な人間とは限らない。
倒れたウルフを覗き、レフェリーが勝者を宣告する。
わっと歓声が溢れ出し、割れんばかりの拍手が会場を包み込んだ。翔太はそれでもウルフから目が離せなかった。起き上がるかも知れない。そうしたら、どうする。
そんなことばかりを考えていたら、レフェリーに肩を叩かれた。途端、まるでヘドロが肩口から流れ落ちるかのような感覚がして翔太は反射的に振り払っていた。
レフェリーの男が訝しげに見遣るが、何も言わなかった。
心臓の音が煩い。勝利を告げられても、翔太は喜べなかった。
ノワールは両手を上げてガッツポーズをしていた。満面の笑みは子供のように無邪気だった。満身創痍の翔太に比べ、ノワールは仕合後は傷一つ負わず、息一つ乱れていなかった。
「お前、動きが硬ぇよ」
ノワールはそんなことを言った。
自己流で実践的なノワールに比べたら、道場で学んで来た翔太の動きは硬いのだろう。
ストリートファイトで実際に戦ってみて思うのは、多種多様な武術が存在しているということだ。ノワールのように何処にも属さず身体能力だけで相手を圧倒する人間もいるが、殆どの参加者は何らかの武術を身に付けている。
翔太も、先代ハヤブサの近江と特訓はしているが、ノワールの領域には到底届いていない。
どのくらい訓練し、経験を積めば彼等のようになれるのだろうか。このままでは立花やペリドットどころか、ノワールにだって勝てない。
俯いていると、血液が頬を伝い、顎先から落ちて行った。
頭部から出血している。ウルフの一撃を
翔太は悪態吐いた。
ウルフのアッパーを避けたタイミングで側頭部を殴られたのだ。勝負を焦って距離を詰めたせいだった。一度仕切り直すべきだったのか?
ノワールならどうしたのだろう。翔太が顔を上げると、ノワールは賭け屋の受付に立っていた。
翔太の勝利に賭けてくれたらしい。倍率が高かったから、
「奢ってやるよ」
機嫌良さそうに、ノワールは笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます