⑻声
何処かで誰かが呼んでいる。
深い闇の底から、白く
行かなくちゃ。
翔太は、強くそう思った。自分が何処にいたとしても、どんな状況であったとしても、その声を頼りに走って行けば良かった。どんな
何故だろう。その声を聞いていると心が落ち着かなくて、居ても立っても居られない。啜り泣くような、噛み殺した
何故。
「――おい、起きろ」
地を這うような恫喝的な声がして、翔太の意識は現実に浮上した。冷たい湿気に包まれた其処は薄暗く、埃っぽい。
白熱灯が無数の影を照らした。視界は激しく点滅し、頭の奥がずきずきと痛む。浴びせられる罵声は
此処は何処だ。
天井は低かった。寂れた倉庫みたいだ。床に降り積もった埃と鼻を突く鉄の臭い。影が海底のワカメみたいにゆらゆらと揺れる。
起き上がらなければと思うのに、体が動かなかった。両手は背中で縛られ、体は紐に巻かれていた。
「テメェ、何処のもんだ?」
何の話か分からない。
脱出も逃亡も難しそうだった。抵抗も許されてはいない。翔太は芋虫のように地面に転がされ、見下ろす男達に命を握られていた。
この状況で自分に出来ることは何だ。
罵倒するか。抵抗するか。従順に媚び諂うか。
だが、翔太には何も出来なかった。男の岩のような拳が白熱灯の下に振り上げられる。視界が一瞬白く染まって、熱に似た痛みに襲われた。
汚れたスニーカーの爪先が腹を抉る。腹部が圧迫され、翔太は激しく
拳が頬を打つ乾いた音が、遠い世界のことみたいに聞こえた。耳の奥が貫かれるように痛む。男の
殴られた拍子に口の中が切れて、濃厚な血の味がした。
呻く度に男達が
どのくらい経ったのか。意識が再び
鋭利なナイフが頬に当てられる。白熱灯に照らされていたのは、ウルフと呼ばれていたあの男だった。
「素人が好き勝手やりやがって。秩序が乱れるだろうが」
ウルフは頬にナイフを当てながら、退屈そうに言った。
なるほど、と翔太は自分でも驚く程冷静に納得した。どうやらこれはストリートファイトを荒らして行った自分への制裁であり、復讐らしかった。
余りにも下らなくて、馬鹿らしくて、つい笑いが込み上げた。けれど、それは声にはならず、血の混じった咳となって消えた。
吹き溜りのクズ共が秩序だなんて、笑わせる。
一人では何も出来ないから徒党を組んで、強者であろうと
命は尊いものだが、彼等が死んだとしても世界は何も変わらない。きっと、自分もそうだ。此処で玩具みたいに
翔太に家族はいなかった。自分がどんな惨めな死に様を飾ろうとも、誰も悲しみはしない。
ウルフが何かを言おうと口を開く。翔太はその頬に
「度胸の無ェ雑魚は、すぐ徒党を組んでどうにかしようとする」
翔太が言うと、ナイフが頬を滑った。
痛みは無かった。興奮状態にあると痛みは感じ難いのだ。
頬を流れるのが血液なのか汗なのか、雨粒なのかも分からない。視界が
こんな時に、何を叫ぶべきなのだろう。誰に助けを求め、許しを乞えば良い。翔太には分からなかった。
帰らなきゃ。
待ってる奴がいる。
帰らなきゃ。――何処に?
家族は死んだ。妹は殺した。誰にも必要とされない透明人間の自分は何処へ帰れば良いのだろう。誰が待っていると言うのだろう。
寒くて
胸倉を掴まれ、体が浮かび上がった。鼻が付きそうな程の至近距離から誰かが叫んでいる。それが現実なのか過去なのか、翔太にはもう分からなかった。
視界の端に鋭利な光が見える。白熱灯の光に照らされたそれは、不気味な注射器だった。鋭い針が翔太の腕に照準を定め、皮膚を食い破ろうとする。抵抗の余力は無かった。その針が突き刺さる瞬間を茫然と見ていることしか出来ない。
半透明の液体が押し出される。
刹那、銀色の閃光が
10.暴力の世界
⑻声
硝子の割れる音が響いた。
同時に、革のベルトが千切れるような鈍い音が聞こえ、辺りは闇に包まれた。混乱に染まった声が、湿った空気を激しく掻き混ぜる。
その時、抜身の刃のような殺気が心臓を貫いた。
脊髄反射で翔太は身を伏せた。殺意の篭った閃光が闇を切り裂き、一人、また一人と倒れて行く。悲鳴が不自然に途切れ、何かが地面に落ちる。目の前すら見えない濃厚な闇の中、翔太は猛獣の
津波に呑み込まれたかのような動乱は、糸が切れるようにして消えてしまった。後に残ったのは耳が痛くなるような静寂だった。
雲間から月が顔を出し、室内を
埃の積もったコンクリートの床に男達が倒れていた。頭部から血液と
頭の奥が軋むように痛む。視界が生き物みたいにぐにゃぐにゃと歪み、思考が追い付かない。
軽い足音が聞こえる。
誰かが呼んでいる。翔太には、それが誰なのか分からなかった。縛られていた両手が解かれ、窮屈に折り畳まれていた関節が小気味良く鳴った。
月明かりの下、美しい子供が立っていた。
何かを
翔太は手を伸ばした。抱き締める為でもなく、繋ぎ止める為でもなく、その言葉を
人は死んだら何処へ行くの。
血塗れのリビング、起き上がらない両親、
世界に
覚めない悪夢の中にいるみたいだった。
手を伸ばす。手を伸ばす。手を。
「Do you kill me?」
カチリと、歯車が噛み合うみたいに。
翔太の伸ばした手は、届く前に停止した。
流暢な英語で、綺麗な相貌で、透き通るような眼差しで、その子供が問い掛ける。
全力疾走した後みたいに息が切れて、口の中が乾いていた。翔太の伸ばした手は、小さな子供の手の平に包み込まれた。
春の日溜りみたいに温かい手の平だった。その瞬間、両足から力が抜けて、翔太はその場に崩れ落ちた。
その子――ミナは、翔太の手を離さなかった。
年寄りみたいに緩慢な動作で膝を突くと、ミナは真正面から覗き込んで来た。
「迎えに来たよ」
長い
ミナは寝巻きのスウェット姿だった。
翔太が何も答えられずにいると、ミナは蕩けるような笑顔で言った。
「約束しただろ?」
君が地獄に落ちるなら、俺が何度でも引っ張り上げてあげる。ミナは歌うような軽やかな口調で言った。
その時、不機嫌そうな低い声がした。
「帰るぞ、翔太」
夜に溶ける黒いスーツ、金色の双眸、群青の
帰っても、良いのだろうか。
こんな俺でも許されるのだろうか。
両親を守れず、妹を殺し、誰一人救えない弱い自分でも認めてくれるのか。
ミナが手際良く応急処置をしてくれる。流石、医者の息子。腹部を撃たれていたことを知り、あの時のミナもこんなに痛かったのかと思うと涙が出そうだった。
弱音も泣き言も、言わなかった。自分で止血処理をして、前を向いて最善手を探し、足掻き続けた。小さな体に見合わない強靭な精神力で、今もこうして翔太を迎えに来てくれた。
立ち上がらない翔太の腕を掴み、立花が肩を貸してくれる。強引に立ち上がらせると、立花は何も言わずに歩き出した。立花のジャケットからは僅かに煙草の臭いがした。ペトリコールと混ざり合い、奇妙に心が凪いで行く。
振り返るとミナがいた。足を引き摺りながら、自分達を守るみたいに辺りに視線を巡らせる。
「なあ、翔太」
立花の声は、波一つ立たない水面のような静かな声だった。
「どうして、強くなりたい?」
どうして?
翔太はその言葉を自問した。そして、その答えは自分でも驚くくらい明白で、すんなりと口から零れ落ちた。
「守りたいものがある」
立花は、何も言わなかった。
体中が痛くて骨が悲鳴を上げる。怠くて
立花はそっと息を漏らした。溜息だったのか、笑ったのかは分からない。少しだけ肩が下がる。翔太を担ぎ直し、立花が言った。
「今度、銃の使い方を教えてやるよ」
「……いらねぇ」
強くなりたいと思うけれど、人を殺したい訳じゃない。
翔太が言うと、立花が笑った。
「銃も刃物も、テメェの拳も武器だ。大切なのは使い方を知っているということだ。それを何の為に使うのかは、お前が決めろ」
「……なんで」
「あ?」
「なんで、俺に教えてくれる。なんで、……俺を助けてくれる」
ミナのことは、見殺しにしようとした癖に。
言外にそう言い含めて問えば、立花は少しだけ黙った。
「賭けてみたくなっただけだ」
立花が言った。
汚れた廃工場から出ると、雨はもう止んでいた。分厚い雲が夜空に散って、皿のような月が浮かんでいる。
工場地帯の煙突は
「少しでも救いのある方に賭ける。……なあ、そうだろ。ミナ?」
立花は横顔で振り返った。ミナは目を伏せたまま、頷いた。
廃工場の側に立花の愛車が停められていた。いつもは埃を被っているのに、今は滑らかな車体に月光を反射していた。
後部座席に翔太を押し込み、立花は運転席に回った。隣の助手席にミナが座る。余り見ない光景だった。
「GPSで、君の居場所を探したんだ。遅くなってごめんね」
振り返りもせず、ミナが言った。口調は柔らかいのに、何処かいじけたような態度だった。
GPS――。ミナがくれた携帯電話。取り上げられなくて、良かった。壊れていないか確かめようと手を伸ばすが、骨が軋んで動かなかった。
帰宅途中の翔太と通話してから、ミナはずっと寝ていたらしい。本人はそのせいで救出に来るのが遅れたことを後悔しているようだった。しかし、今のミナが怪我や薬のせいで万全の状態ではないことも知っている。責めるつもりなんて、
だって、助けに来てくれた。
ミナも立花も、行き場の無い自分を迎えに来てくれた。
帰る場所があって、待っている人がいる。必要とされているということが、どれ程に心強いか。
「何度でも、迎えに行くからね」
フロントミラー越しにミナが此方を見ていた。濃褐色の瞳は相変わらず透き通るように綺麗だった。
きっと、そうなんだろう。何度でも、ミナは迎えに来て、手を差し伸べてくれるんだろう。
「ありがとな」
翔太が言うと、ミナは擽ったそうに笑った。
雨上がりの繁華街に下品な夜景が踊る。地中に眠っていた虫が春を迎えて出て来るように、人々が帰って来る。忙しない雑踏と無関心な人の群れ。何処かでサイレンが聞こえる。
心地良い車の揺れを感じながら、翔太は沈むように眠ってしまった。
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