⑺踏み出す一歩

 目が覚めた時、ミナの寝顔が見えた。

 ブラインドの隙間から溢れる朝日が天使の横顔を照らし、それはまるで宗教画のようにおごそかに美しく感じられた。


 目の下にくまがあった。三階にも行かず、翔太の眠るソファを覗き込むみたいにして眠っている。微かに聞こえる寝息は穏やかだった。肩には立花のジャケットが掛けられ、僅かに煙草の臭いがした。


 コーヒーテーブルには、ラップの掛けられた皿が置かれていた。俵型たわらがたのおにぎりが四つあった。夜食だったのか、朝食だったのか、翔太には分からなかった。自分がいつ眠ったのかも覚えていない。




「寝てると天使みたいだろ?」




 不意に声がして、翔太は視線を巡らせた。

 立花が定位置で新聞を読んでいる。昨日のことなんて夢だったみたいに、呆れるくらいいつも通りだった。


 頭が痛い。瞼が重く、腫れているような感じがした。

 喉もちくちくと痛くて、体中ガタガタだった。翔太は起き上がると、床にしゃがみ込んで眠るミナをソファに移してやった。




「……悪魔に見える時もあるけどな」




 翔太が言うと、立花は笑った。

 この男の笑いどころはよく分からない。

 立花は新聞から顔を上げると、口角を吊り上げた。




「そいつを天使のままにしておくことが、俺の仕事だ」




 翔太は頷いた。

 自分は、妹を天使のままにしてやれなかった。苦い後悔が泡のように湧き上がる。

 声が聞こえたのか、ミナが微睡まどろんだ目を擦りながら身を起こした。英語で朝の挨拶をしたので、寝惚ねぼけているのかも知れない。ミナは欠伸あくびをしながら給湯室に行った。顔を洗っているらしかった。


 戻って来たミナはしゃっきりと目を覚ましていたけれど、薄らとくまがあった。血色けっしょくも良くない。脇腹が痛むのか姿勢が傾いていた。




「なあ、ミナ。お前、いつから分かってたんだ?」




 彼が真相に気付いたのは、いつなのか。そして、確証を得たのは。

 翔太の問いに、ミナはそっと答えた。




「ミアがデータをくれた時だよ。でも、写真では君と妹のどちらがやったのか確信が持てなかったから、あの動物の写真を見せた」




 ミナは回転椅子に座ると、静かに指を組んだ。

 翔太に素性を教えた時には、既に事件の概要や犯人について検討を付けていたのだ。それでも、ミナや立花の態度は変わらなかった。


 自分は妹の命を奪った人殺しだ。この手は汚れている。

 どうして、彼等は今も翔太を生かしているのだろう。




「人格とは記憶の連続性だ。君が過去を取り戻した時、どうなってしまうのか分からなかった」




 だから、暴れないでよとミナが言っていたのか。

 ふざけていた訳でも、おちょくっていた訳でも無かったのだ。


 朝日を浴びた横顔が、妹と重なって見える。翔太は目を伏せ、両手を握った。




「俺をどうするんだ……?」




 ミナは依頼を達成した。今度は翔太の番だ。

 だけど、ミナが期待するだけの価値がもう自分には無いのだ。彼の求める切り札には、きっとなれない。




「お前はどうしたいんだよ」




 立花が呆れた顔をしていた。

 彼等は、どうして恐れないのだ。目の前にいるのは人殺しで――。

 そう考えた時、気付いた。ミナも立花も、同じなのだ。理由は違えども、その手を汚して来た人間だ。


 立花は煙草を指先に挟み、金色の目を鋭くした。




「俺は復讐の依頼は受けねぇ。死にてぇなら自分でやれ」




 崖から蹴落けおとすように、立花が吐き捨てる。

 初めて会った時と、同じだった。立花の中には揺るぎない人間性のようなものがある。それは時間の経過や他人の批判なんかでは変えられない。


 親に愛されず、人に恵まれず、運命の波に翻弄ほんろうされながらも進み続ける彼の生き様が突き付けられたようだった。


 そんな立花に言い返し、影響を与えることの出来る人間がいるならば、少なくともこの場には一人しかいなかった。

 小さなヒーローは、苦い顔であの日と同じことを返した。




「死なせる為に助けたんじゃない」




 そうだ。このヒーローは、折れないのだ。

 ミナは凛と背筋を伸ばして翔太を見た。




「死ぬことがつぐないになるなんて、絶対に違う」




 濃褐色の瞳は透き通るような光を放ち、まるで此処が光源だと訴え掛けているみたいだった。

 胸の中に熱いものが込み上げる。翔太は両目に力を入れて、それが溢れないようにと必死にえた。


 立花は苛立ったように舌を打った。




「無責任に助ける人間は、無差別に殺す人間より性質たちが悪いぞ」

「何でもかんでも救える訳じゃない。それなら俺は、自分が納得出来るように、少しでも救いのある方へける」




 ミナらしい言葉だった。

 筋金入りのエゴイストだ。ミナは翔太の為ではなく、自分のエゴを貫く為に手を差し伸べた。そして、誰に責任を負わせることもなく、自分が背負えるマシな未来を選んでいる。


 立花はきっと、ミナに何も背負わせず、子供のままでいさせてやりたいのだろう。自分が過ごせなかった幸せな子供時代を、ミナに示して欲しいのだ。


 ミナの背負っているものは、翔太には想像も出来ない程に大きなものなのだろう。だからこそ、少しでも救いのある方へ立花は導こうとしている。


 その時、ミナの携帯が鳴った。

 尻ポケットに押し込んでいたそれを取り出すと、ミナはぱっと表情を明るくした。




「ノワールだ。ちょっと行って来る」




 このタイミングで席を立つミナの神経はよく分からない。図太いのか、デリカシーが無いのか、それとも、此処から逃げたいのか。


 ノワールは、エメラルドの瞳をした謎の男である。ミナとどういう関係なのかよく知らないが、それなりに親しく、信頼しているようだった。


 玄関に向かうミナを立花が呼び止めた。




「待て、ミナ。ノワールは殺し屋だぞ」




 不穏な単語に翔太は驚いた。

 確かに、ノワールの身体能力は信じ難い程に高く、銃器を扱う素振りもあった。だが、まさか、殺し屋だったなんて。


 ミナは少し考えるように顎に指を添え、天使のように微笑んだ。




「心配なら、ショータと行く」




 翔太は驚いた。

 自分にはまだ価値がある。――否、ミナは価値が変わったとすら感じていない。

 立花がやれやれと言うように手を振った。彼等は何も変わらない。自分が家族を殺した殺人犯であっても、翔太を信じてくれている。


 目を覚ましたら、全部が夢で、何でもない日常が帰って来るなんて都合の良い妄想が。まるで、何でもないことみたいに。




「ミナを任せたぞ」




 立花が笑った。

 それは殺し屋とは思えない程に優しい微笑みだった。


 玄関先からミナが呼ぶ。

 翔太は深呼吸をして、足を踏み出した。










 8.地獄巡り

 ⑺踏み出す一歩










 ミナに連れられて行ったのは、駅から十五分程歩いた路地裏にある喫茶店だった。コーヒーを売りにしているらしいが客は少なく、昔ながらのたたずまいはレトロと言うよりも寂れて見えた。


 ひげたくわえた店主は、ミナが翔太を連れて来たことに少し驚いたようだった。けれど、特に追及もされず、ミナに導かれるようにしてカウンター席に座った。


 壁際の席を譲られ、翔太は赤い合皮のカウンターチェアーに座った。ミナはコーヒーを二人分と、ショートケーキを一つ頼んだ。

 三時のおやつによく甘味を用意するミナだが、甘い物はそれ程好きではないらしい。いわく、大抵のものは美味しく食べられるそうだ。立花が味覚が狂っていると言うのも、あながち間違いではないのかも知れない。


 五分も経たない内に喫茶店の入口から涼やかな風鈴の音がした。扉に下げられた鉄製の風鈴には金色のカードみたいな札が付いている。

 扉の向こうに立っていたのは、黒い短髪とエメラルドの瞳をした青年だった。子犬みたいに人懐っこい笑顔が印象的で、とても殺し屋とは思えない。


 翔太が彼と最初に会ったのは、クリスマスイブの夜だった。双子の兄に会う為に来日したワタルを連れて、翔太はミナを探して夜の街を彷徨さまよった。

 路地裏での突然の襲撃、繋がれた死体、そして、ミナを追って到着した冷凍倉庫。ノワールは正体不明で神出鬼没の殺し屋だが、間違い無くミナの味方だった。


 ノワールはミナの隣に座ると、エスプレッソを頼んだ。

 ミナは自分の手元にあったショートケーキの皿をノワールに譲った。意味深に笑い合う二人は、まるで悪戯を思い付いた子供みたいに無邪気だった。




「お前はミナの味方なのか?」




 名前も訊かず、ノワールがいきなり言った。

 殺し屋ならば、他人を疑うのは当然なのかも知れない。

 翔太はエメラルドの瞳をじっと見据えて答えた。




「味方だよ」




 ミナは他人の嘘が分かる子供だ。だからこそ、どんな時も正直でいたいと思う。下らない嘘や打算でミナが傷付くのは嫌だ。


 ノワールは翔太を見詰め返すと、晴れ晴れと笑った。




「良い友達を持ったな」




 そう言って、ノワールはショートケーキの苺にフォークを突き刺した。そのまま自分で食べるのかと思ったら、ミナに差し出した。

 ミナは分かっていたみたいにぱくりと食い付き、漫画みたいな顔で「酸っぱい」と零した。


 何だ、この距離感は。

 家族なら兎も角、余りにも近過ぎないか。

 ノワールはノワールで行儀悪くショートケーキを突きながら、嫌そうに食べている。よく分からない遣り取りだった。


 ノワールは残骸ざんがいと化したショートケーキをミナに押し付けると、紙ナプキンで口元を拭った。ミナはコーヒーを片手に残飯処理を始めたので、どういう関係なのかよく分からなかった。


 その時、ノワールはミナの右手に巻かれた腕時計を見た。




「良い時計だな」

「ワタルがくれたんだ」

「センスが良い。似合ってるぜ」




 腕時計一つでミナのこともワタルのことも褒め、ノワールは美味そうにエスプレッソを啜った。




「弟は元気か?」

「元気だと思う」

「何だよ、連絡も取れないのか?」

「そういう約束なんだ」




 ミナは自分の事情を或る程度話しているようだった。それが信頼の証なのだと、ノワールもきっと分かっている。だから、責めたり問い質したりしない。




「何が幸せか分からない。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら峠の上りも下りも皆、本当の幸せに近付く一歩一歩になる」




 ノワールが言った。意味は分からない。けれど、エメラルドの瞳は何かを見透かすように鋭く光っていた。

 ミナはぴょこんと首を伸ばした。




「それ、知ってる。宮沢賢治の銀河鉄道の夜だ」

「お、博識だな」

「うん。俺の親父も好きだった」




 宮沢賢治の銀河鉄道の夜は知っているが、流石に内容までは覚えていない。夏休みの読書感想文で読んで、何だか虚しい気分になったことばかりを思い出す。


 ミナは歌うような軽やかな口調で言った。




「皆の幸福の為なら、僕の体なんて百遍ひゃっぺん焼いても構わない」

「ああ、さそりか」

「うん」




 不思議な感覚だった。

 二人の話は翔太には全く分からないが、自分達の周りだけやけにゆっくりと、穏やかに時間が流れている気がする。深い春の森の奥で、清浄な空気の中にいるみたいだった。


 二人はそのままよく分からない話をして、やがてノワールが席を立った。伝票を持って行ったから、おごってくれるらしい。ミナが礼を言おうとした時、ノワールが言った。




「真の幸福に至るのであれば、それまでの悲しみはエピソードに過ぎない。……頑張れよ、ミナ」




 風鈴が鳴る。日差しを浴びた金色の札が眩しく光り、翔太が目をつぶった時にはもう、ノワールの姿は何処にも無かった。


 二人で喫茶店を出る。不意に空腹を感じたら、同じようなタイミングでミナの腹が鳴った。顔に見合わない間抜けな音だったので、翔太は思わず笑ってしまった。けれど、ミナは少しも怒らず、一緒になって笑っていた。


 帰宅した時には既に夜だった。

 立花は三階にこもっていて、ミナも何か忙しそうに動き回っている。テレビを点けると、カウントダウンを中継していた。もうじき年が明ける。


 立花の作った老舗しにせ料理屋みたいな年越し蕎麦と、ミナの作った弁当みたいなおせちが完成し、三人で事務所で微睡まどろんでいた。

 早寝早起きの健康優良児であるミナは眠そうだったが、年越しの瞬間は起きていたいらしい。年越し蕎麦で満腹になった腹を撫でる。テレビからカウントダウンが聞こえた。あと十秒。


 その時、ミナが呼んだ。

 振り向くと、ミナは拳を向けていた。




「俺は君の味方だよ」




 タイミングは相変わらずよく分からない。だが、翔太は意図を察して拳を当てた。


 カウントダウン。

 3、2、1 ――。




「明けましておめでとう」




 地獄みたいな低い声で、立花が言った。

 新年を祝う気があるんだかよく分からないが、立花はそれだけ言うと欠伸あくびを噛み殺して事務所を出て行った。寝るらしい。ミナも釣られるように大欠伸おおあくびをした。




「おやすみ、ショータ。――良い夢を」




 そう言って、ミナは事務所を出て行った。

 階段を登る足音と、正月特番の騒がしい声がテレビから響く。翔太はテレビを消し、眠る準備をした。


 色々なことがあった。

 納得出来ないことも、許せないことも。

 だけど、それで良いのかも知れないと思った。意味は自分で探すしかない。ミナや立花が言ってくれたことが、全てだと思ったから。


 深い眠りの奥で、翔太は夢を見た。

 暗闇の中、親父とお袋と砂月がいた。何かを言っているけれど、翔太には聞き取れない。その時、遠くから聞き慣れた声がした。


 ミナと立花が呼んでる。

 翔太は家族の幻影に背を向けて、歩き出した。

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