⑹答え合わせ

 階段はまるで断崖絶壁のようだった。


 事務所までの道程が恐ろしい程、遠く感じられる。踏み出す一歩が重く、体が鉛にでもなったみたいだった。

 ミナが肩を貸してくれたが、華奢きゃしゃな体躯では翔を支え切れず、結局、立花が背負った。煙草の臭いの染み付いたジャケットが酷く懐かしく感じられ、また涙が溢れた。


 ソファで天井を眺めていたら、給湯室から爽やかな匂いがした。三つのマグカップを両手で器用に持ちながら、ミナはそれを翔に差し出した。


 ラベンダーのハーブティーだと、教えてくれた。

 ミナが立花の机にマグカップを置いてパソコンの回転椅子に座る。立花は机に肘を突き、退屈そうに言った。




「答え合わせの時間だ」




 秒針の音が煩く聞こえる程の静寂だった。

 立花の金色の瞳は翔を見据え、逸らされない。




「言葉を選ぶ必要はねぇ。何を言っても構わねぇが、よく考えて話せ」




 立花はマグカップに手を伸ばし、ふうふうと息を吹き掛ける。ミナはマグカップを両手で包み込んだり、両足を揺らしたりして、翔の言葉を待っていた。


 彼等はきっと、いつまでも待っていてくれるのだろう。

 自分が取り乱した時、辺りの人は一斉に距離を取った。その中でミナだけがずっと側にいてくれた。立花は仕事柄、警察とは折り合いが悪いはずなのに、交番まで迎えに来てくれた。


 彼等が当たり前のように溢す優しさや誠実さが、細波さざなみのように胸に流れ込む。それは曇天に差し込む一筋の光に似ていた。

 翔は目元を擦った。




「……俺が、砂月を殺した」




 立花もミナも、眉一つ動かさなかった。

 答え合わせだと、立花は言っていた。彼等は或る程度の結論を出していたのだろう。それでも、翔が記憶を取り戻すまで彼等は黙っていてくれたのだ。


 翔は目を閉じた。

 瞼の裏に蘇る、血塗れの家。あれは、確か、高校三年生の夏だった。だるような熱波に襲われ、毎日のように熱中症のアラームが鳴った。


 夕暮れに染まる帰り道、蝉時雨。重い学生鞄を担いで、玄関の扉を押し開けた。そして、翔が見たのはあの血塗れの光景だった。

 母は台所に、父はリビングのテーブルに。内臓が引き摺り出されていたかどうかなんて覚えていない。ただ、両親は血塗れで死んでいた。


 その時、何か途轍とてつも無く恐ろしい、嫌なものを見た。

 分からない。頭の中に赤いきりが掛かっていて、それが何だったのかも思い出せない。頭が割れそうに痛くて、吐き気がする。


 数瞬すうしゅん亡失ぼうしつの後、自分は包丁を握っていた。

 目の前には妹が倒れていた。覚えているのは、自分が殺したということだけだった。


 訥々とつとつと翔が話す間、二人は相槌も打たず、追及もしなかった。マグカップは既に冷めている。




「驚かないんだな……」




 翔が言うと、ミナは淡々と答えた。




「分かってた」




 思わず、息が詰まる。まるで死刑宣告をされたみたいだ。

 ミナはハーブティーを一口だけ啜ると、蕩々とうとうと言った。




「俺は、当時の現場写真を見たんだ。遺体の状態も」

「……」

「君が見たものは、俺達も見た。君の素性も知ってる」




 ちゃんと、調査してたんだな。

 そう思うと、自分が道化どうけだったのだと悟る。彼等はどんな思いで側にいたのだろう。そして、今、どんな気持ちで。




「親父とお袋は、俺が殺したのか……?」




 指先が震えていた。知りたいと思うし、知らなければならないとも分かっている。だけど、答えを聞くのが怖かった。


 父は警察官だった。厳しい人で、笑った顔なんて一度も見たことなかった。いつも夜遅くに帰って来て、殆ど顔を合わせなかった。


 友人が父と仲良くしているのが羨ましくて、悔しかった。仕事ばかりで家庭を顧みない父が嫌いだった。


 でも、砂月が喘息だって知ってから、すぐに煙草を辞めて、空気の綺麗なところに引っ越すって決めた。お袋は寡黙かもくな人だけど、俺や砂月の弁当を毎日作ってくれた。翔が大会で入賞した時はすき焼きを作って、賞状を額縁に入れて、毎日眺めていた。


 砂月は体が弱かった。体育の授業も見学ばっかりで、よく揶揄からかわれて泣いていた。空手を始めたのは、砂月を守りたかったからなんだ。


 親父が大切にしているものを、一緒に守りたかったんだ。――だから、いなくなるなんて、考えてもなかった。




「君が両親を殺すのは、不可能なんだ」




 ミナは悲しそうに眉を寄せていた。

 その胸中を察するだけの余裕が翔には無かった。




「遺体の腐敗状況から死亡時刻が推定出来る。お父さんとお母さんが亡くなった時、君は空手の合宿で県外にいたんだ」

「じゃあ、誰が」

「お父さんお母さんと、妹さんの死亡時刻にはかなりの間隔がある。解剖した訳じゃないから正確ではないけど、数日は経ってる」




 嫌な予感がする。

 怖い。聞きたくない。――だけど、俺は逃げてはいけない。


 翔は拳を握った。

 ミナはマグカップをパソコンデスクに置くと、濃褐色の目を眇めた。




「お父さんとお母さんが殺されたのは、君が家を出てからだ。遺体を解体したのは同一の刃物で、切り口から単独犯で、とても未熟だと分かる」




 パソコンに現場写真を映しながら説明することだって出来たはずなのに、ミナは指を組んでいるだけだった。

 それが翔に対する配慮なのだと知っている。ミナはもう、確証を得ている。




「犯人は俺より非力で、人体についての知識がとぼしく、けれど、人を殺すことに躊躇ためらいが無い」




 もう、分かる。

 聞かなくていい。分かってるんだ。他に登場人物がいない。

 赤いもやが晴れて行く。血塗れの玄関に立っていたのが誰だったのかなんて。




「お父さんとお母さんを殺したのは、君の妹だ」




 世界の壊れる音が聞こえた気がした。


 人は死んだら、何処へ行くの。

 夕暮れに染まる河川敷、砂月は草叢くさむらしゃがみ込んでいた。その足元には小さな鳥の死骸があった。あの時、俺はなんて答えたんだろう。


 人は死んだら、何処へ行くの。

 草の青臭さ、鉄の臭い。草叢に蹲み込む砂月の手には、手の平くらいの石が握られていた。足元に転がった包丁と、血塗れの動物の死骸。


 人は死んだら、何処へ行くの。

 小学校の飼育小屋。白い羽が雪のように舞っていた。砂月の手には首の折れたにわとり。耳の千切れた兎が痙攣けいれんしている。


 人は死んだら、何処へ行くの。

 血塗れの玄関に、包丁を持った砂月が立っていた。血の池に浸かったみたいに全身真っ赤で、うっとりと笑っていた。


 だから、親父は怒って。

 だから、お袋は泣いて。

 だから、俺達は、逃げるみたいに引っ越した。


 頬に生温かさを感じて、手を伸ばす。それが涙だったのか、返り血だったのか、もう翔には分からなかった。




「俺が、俺が言った……! 死んでも、心は其処にあるって……!」




 翔の習っていたフルコンタクト空手の流派では、心技一体を謳っていた。完全な魂は完全な肉体に宿る。体がおとろえても鍛え抜いた魂は滅ばず、死してもなお、心は不滅だと。


 だから、砂月に教えた。

 例え肉体が死んだとしても、心は其処にあるのだと。


 だって、知らなかったんだ。分からなかったんだ。

 あの時の砂月が何を思い、何を考えて、どんな気持ちで死体を見ていたのかなんて!


 頭の中で凶暴な何かが暴れている。頭蓋骨を叩いて、外に出ようと足掻いている。脳漿をぶち撒けて、頭皮を食い破り、そして。


 小さな手の平が、翔の手を取った。




「君のせいじゃない」

「……ミナ……!」

「君のせいじゃないし、君の妹が悪い訳じゃない」




 歯の隙間から呻き声が漏れて、翔はそのままうずくまった。

 涙が止まらなかった。激しい運動の後みたいに息が上がって、視界がかすむ。それでも、ミナは手を離さなかったし、立花は銃口を向けなかった。




「倫理観や道徳観念は生育環境に起因するものだけど、生まれ付きそれを持ち合わせない人もいる」

「何のことだ……!」

「俺達はそういう人を暫定的にサイコパスと呼んでいる。それは脳の機能障害で、誰にも変えることが出来ない。君の妹はサイコパスだった。だけど、全てのサイコパスが人を殺す訳じゃない」

「分かんねぇよ……! 全然、分かんねぇ!」




 翔が掴み返そうとした時、立花が肩を掴んだ。彼が席を立ったことすら、翔は気付かなかった。




「それなら、分かるように教えてやるよ」




 立花の手が胸倉を掴む。鼻が付きそうな程の至近距離から睨まれ、翔にはそれを払い除けることが出来なかった。




「テメェの妹は俺と同じ異常者だ。人としての倫理観や道徳観念の無い捕食者だった。だから、親を解剖して殺したんだよ」




 解剖――。

 両親は内臓が引き摺り出されていた。

 好奇心の充足。ミナの言葉が蘇る。ただ、それだけの為に!




「ロボットが誤作動起こして人を殺したとして、誰を咎める? 子供が玩具を犬に呑み込ませて死なせたとして、誰を責める? ミナが言ってんのは、そういう話だ」

「やめろ!! 砂月は!!」

「何度でも言ってやるぞ、! テメェの妹は、化物だったんだ!」




 溢れ出したのは悲鳴か、嗚咽か、それとも吐瀉物だったのか。翔にはもう何も分からなかった。

 家族は殺された。妹が両親を殺し、自分が妹を殺した。そして、妹が両親を殺害した理由は、ただの好奇心。翔は自分に包丁を振り上げた妹を、返り討ちにした。


 誰を恨む。誰を憎む。誰を責めれば救われる。

 誰が何処で何を間違えたのか。何をしたら守れたのか。答えは永遠に分からない。擦り切れそうな心を救う方法なんてきっと一つも無い。この世は地獄だ。救いなんて何処にも無い。


 じゃあ、俺は誰に謝罪し、贖罪を求めれば良い。

 誰が妹を、俺を救ってくれる。




「うあああああああああああああッ!!」

「ショウ!」

「引っ込んでろ、ミナ! お前の手に負える相手じゃねぇぞ!」

「嫌だ!!」




 ミナの悲鳴みたいな声がして、翔は溺れる者がわらに縋るようにしてその腕を取った。細い腕だった。だが、其処には確かに少年特有の均整の取れた薄い筋肉がある。荒れた手の平は節張っていて、妹のものとは明らかに違う。


 俺は死後の世界を信じていない。

 あの時、ミナが言った。俺もそう答えるべきだったんだろう。そうしたら、こんな悪夢みたいな事件は起こらなくて、きっと今も家族は生きていた。


 ミナが、言った。




「俺も、人を殺したことがある」




 その声は氷のように冷たかった。

 混乱と動転でぐちゃぐちゃの頭の中が僅かに理性を取り戻す。ミナは立花の腕を押さえ、目を伏せた。




「15歳の頃、拉致されて、人間狩りみたいな非道なゲームに巻き込まれた。俺は逃げる為に、ゲームを終わらせる為に犯人グループを殺した。木々の間にワイヤーを張って足を切ったり、着火装置で火達磨ひだるまにしたりした」




 何だ、その状況は。この国の話ではないだろう。そんな凄惨な事件は聞いたことが無いし、信じられない。

 けれど、ミナがそんな嘘を吐く人間ではないことも知っていた。




「正しかったのか、間違っていたのかなんて分からない。そんなことに意味は無い。俺は生きてる。奴等は死んだ。それだけのことなんだ。それでも納得出来ないなら、意味は自分で見付けるしかない」




 そんな風に割り切れたら、誰も涙なんて流しはしない。

 それでもミナが必死に呼び掛ける。




「顔を上げろ、! 君に出来ることは何だ!」 




 ミナの瞳に青白い炎が見える。それは激怒とか覚悟とか、そんな生優しいものではない。仄暗くおぞましい狂気の鬼火おにびだ。

 澄んだボーイソプラノが、恫喝的に声を上げる。




「此処はまだ地獄じゃないぞ!!」




 きっとそれは、彼等にとって救いの言葉だった。

 此処はまだ地獄じゃない。まだ、地獄じゃないのか。

 まだか。何処まで落ちれば底が見える……!


 立花が手を離すと、翔の体は重力に従ってソファに崩れ落ちた。そのまま頭を抱え、翔はただ泣くことしか出来なかった。











 8.地獄巡り

 ⑹答え合わせ










 朝の白んだ空の下、河川敷は静かだった。

 草木は青々と茂り、広大な川の流れがとてもゆっくりと感じられる。川岸には釣り人の姿が見える。翔太は手の中に握ったゴムのボールを思い切り振り上げた。


 空高くに浮かぶボールが点のように見えた。それは重力に従って糸を引くように、親父のグラブに落下した。


 中学生の頃だったと思う。

 母も砂月も寝ているような早朝に、父と一緒にキャッチボールした。普段は仕事ばかりで家庭を顧みず、父親らしいことなんて一つもしてくれなかったのに、極稀ごくまれに、何の気紛きまぐれなのか一緒にキャッチボールをした。


 父は昔、野球少年だったらしい。

 ボールを投げる動作やステップは確かに経験者のそれで、素人の翔太にはやけに眩しく、格好良く見えた。


 暫く二人でキャッチボールをして、休憩と言って朝食を取った。歪な形をした大きなおにぎりと、水筒に入った緑茶。翔太がおにぎりをかじっていると、父が砂月の話をした。


 砂月は体が弱かった。

 喘息を持っていて、学校の体育すら見学するような虚弱体質で、自分のように格闘技なんて出来るはずも無かった。そんな妹が学校で揶揄からかわれていることも知っていた。かばんを取り上げられて、教科書を盗まれて、くつを隠されて。


 俺は、いつも砂月の手を引いていた。砂月が同級生に叩かれて頬を腫らした日、翔太はそいつ等を殴った。両親は学校に呼び出され、一言の弁解もせずに謝った。


 強くなろうと思った。

 俺が誰より強くなれば、砂月をいじめるような馬鹿な奴等は近付いて来ない。そうしたら、手を上げなくても砂月を守れるし、両親に頭を下げさせることなんて無くなる。そう思った。


 砂月は俺の妹だった。

 兄貴が妹を守ることに理由なんていらなかった。

 妹に笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。ただ、それだけだった。


 親父が言っていた。

 親が子供を守ることに、理由なんて無いと。

 その意味を、もっと深く考えるべきだった。


 砂月が小学校のにわとりうさぎを殺した時、世界が崩れ始めた。

 子供達の悲鳴と大人の罵倒ばとう。ぐらぐらと揺れる世界で、砂月は微笑んでいた。


 人は死んだら何処へ行くの。

 翔太には答えられなかった。


 そのまま逃げるように田舎に引っ越して、誰も自分達を知らない新しい土地で穏やかな生活が始められると思った。


 砂月は、生き物の死に興味があるらしかった。

 小鳥を、魚を、子犬を殺した。翔太はいつもそれを河川敷に埋めた。その度に砂月が訊いた。人は死んだら何処へ行くの、と。


 あの時、なんて答えたら良かったんだろう。

 翔太は未だに分からない。命が大切だと、それは取り返しの付かないことなんだと、許されないのだと、どんな言葉で。


 両親が殺されたあの日、砂月は包丁を持って玄関に立っていた。自分を待っていたのだと思った。

 人は死んだら、何処へ行くの。

 そう言って振り上げられた包丁は血塗れだった。


 その時のことはよく覚えていない。気が付くと砂月の胸には包丁が刺さっていて、もう息をしていなかった。

 父の携帯が鳴っていた。震える指先で通話に応えると、父の同僚が何人か家にやって来て、翔太を質問攻めにした。


 そのまま車に乗せられて、何処かに連れて行かれた。黒塗りのセダンだった。

 世界はモノクロに染まっていた。通り過ぎて行く車窓の景色を眺めていたら、父とキャッチボールをした河川敷が見えた。


 無我夢中だった。警官の制止を振り切って、翔太は車から飛び出した。転がるように芝生の坂を下り、砂月の殺した動物の墓を見て、その時になって、自分の家族がもう戻って来ないことを悟った。


 後のことはよく分からない。

 警察から逃げるように川を下り、身を潜め、この街に流れ着いた。幾度いくどもの冬を、夜を独りで堪えた。空腹に目が回り、寒さに震え、金も無く食べ物も無く、名前も定職も見付けられず、その場凌ばしのぎの危険な仕事で日銭を稼ぎ、だんだんと記憶が削れて行って、自分が何者なのか、どうして此処にいるのかも分からなくなった。


 そして、翔太は出会ったのだ。

 冷たい夜の公園で、ミナが笑い掛けた。

 焼き芋を抱えたミナは、翔太には本当に、天使に見えたのだ。

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