⑸小さな死

「ウィローに会いに行く」




 朝食の片付けをしていたら、ミナが固い声で言った。

 振り返ると、給湯室の入口でミナが立っていた。上下黒一色の服は正装姿のように見えた。整った面が強張こわばっていたので、翔はこれから待ち受ける悲しい未来を予期せざるを得なかった。


 ミナが向かったのは、繁華街にある中華料理店だった。油と肉の焼ける芳ばしい匂いが辺り一帯に漂って、店から出て来る客は晴々と笑っていた。


 店の裏手には青いポリバケツが二つ置かれていた。中に入り切らない生ゴミが半透明の袋に詰め込まれて、何かの汁が溜まっていた。排水溝から溢れる腐臭は目が痛いくらいだった。


 ミナはポリバケツの側にしゃがみ込んでいた。

 翔が後ろに回り込むと、ミナはポケットからビニールみたいな手袋を取り出した。


 ポリバケツの側に、黒い毛玉みたいな動物の死骸があった。体毛は濡れ、蚯蚓みみずのような長い尻尾は力無くアスファルトに投げ出されている。小さな体躯には黒いベルトが装着されていた。元の色が分からないくらい真っ黒に汚れている。


 ミナがベルトを外した。丁度、腹の辺りに何かの装置が付いていた。指先程のそれは紙のように薄く、柔軟性があるようだった。


 恐らく、発信器だ。

 よく見ると、ベルトは手作りのようだった。縫い目は荒いが丈夫そうで、そのドブネズミの体に当たらないように配慮されている。


 ウィロー。

 ミナが、小さな声で言った。其処で死んでいたのは、ドブネズミのウィローだった。初めてミナに会った日、彼はウィローを追い掛けていた。そのドブネズミは、死んだらしい。




一昨日おとといくらいからウィローの動きが鈍くなって、昨日の夜、動かなくなった」




 ミナは懐からハンカチを取り出すと、汚れたドブネズミの体を丁寧に包み込んだ。死骸から漏れ出した何かの液体がハンカチを濡らして行く。




「悪いものを食べたのかも知れないし、からすに襲われたのかも知れない」

「……残念だったな」

「うん」




 ミナは一度だけ頷くと、ハンカチを片手に立ち上がった。声は沈んでいたけれど、泣いてはいなかった。


 ウィローの死骸を持って、二人で街を歩いた。

 街行く人が振り返り、ミナの容姿を見て何かをささやいた。声を掛けて来る不粋ぶすいな人間もいたが、ミナは立ち止まらなかった。

 幾つかの区画を超えると、浅い溝川どぶがわが見えた。濁った川の底にはが生え、不気味に揺れている。人が住めそうにない悪環境でも、生態系は築かれていた。


 川の底には植物が芽吹き、気味の悪い虫が発生し、それを狙ったすずめ羽搏はばたく。捨てられた生ゴミにからすつどり、ドブネズミが身を寄せる。きっと、その体にはダニとか寄生虫が集まって、翔が名前も知らない恐ろしい病気を持っている。


 ミナはえ付けられた階段を下りると、小さな河原に立った。

 スコップを持って来なかったと言って、手袋のまま穴を掘った。とがった石で手袋が破れるとまた別のものを取り出し、手の平くらいの穴にウィローを埋めた。




「生き物を飼ったことは無かったんだ」




 意外だ。

 ミナは育ちが良さそうだった。裕福な家庭は動物を飼うものだと思っていたのだ。ミナはウィローの墓を眺めていた。その視線は透き通るように儚く、今にも壊れてしまいそうだった。




「名前を付けるべきじゃなかったのかな」




 そんなことを言って、ミナは立ち上がった。


 帰り道、ミナは手袋を裏返してしばり、ベルトと一緒に途中のゴミ箱に捨てて行った。


 上下黒の服にMA-1を羽織ったミナは街の雑踏に溶け込んでいた。喪服のつもりだったのかと思うと、ミナがあのドブネズミをどれだけ大切にしていたのかが分かるような気がした。


 ドブネズミ一匹の為に、こんな風に悲しんで、墓を掘り、祈れる人間だったらしい。翔はたまらない気持ちになって、ミナの頭を撫でてやった。


 駅前に差し掛かると、交番が見えた。表面上、ミナは落ち込んだ様子も無かった。以前、立花も言っていた。どんなに脅して突き離しても、目の前では落ち込まなかったと。


 励ましてやるべきなのだろうか。それとも、彼の弱音を聞くべきなのか。そして、そのどちらも今の翔には出来ないことだった。


 警官の桜田みたいな明るい奴が、この辛気臭い空気を払拭ふっしょくしてくれないものだろうか。そんな他力本願なことを考えて目を向けると、タイミング良く交番の扉が開いた。


 出て来たのは桜田ではなかった。如何いかにも高級そうなスーツを着た男が二人、立っている。一人は胡麻塩ごましおみたいな髪を撫で付け、もう一人は爬虫類はちゅうるいみたいな顔に銀縁ぎんぶちの眼鏡を掛けていた。


 交番の中では何人かの制服警官が敬礼をしている。スーツの二人組は上司に当たるのかも知れない。制服警官の中には桜田がいた。胡麻塩の男が何かを言うと、桜田の顔が引きった。交番の中には嫌な緊張感が漂っている。




「飼い犬の分際で、人間様に楯突たてつくんじゃない」




 銀縁眼鏡の男が吐き捨てる。それが桜田達を酷く侮辱ぶじょくしていることは分かったけれど、誰にも反論することは出来なかった。


 駅前には黒塗りのセダンが停められていた。スーツの二人組が乗り込む。低いエンジンの唸りを聞いた時、顳顬こめかみがずきりと脈打った。


 過去と現実が切り替わる。カラーだった世界がセピアに変わり、真っ赤に染まった家が頭の中に流れ込んで来る。


 血に染まったリビング、倒れる両親、散らかった臓物ぞうもつ

 鼻を突く鉄の臭い、手の平に残る嫌な感触、真っ赤な両手。

 動物の死体、スプラッタ写真、河原。

 押し込まれた黒いセダン、銀縁眼鏡の男、流れ行く車窓の景色。


 君のお父さんとお母さんは、こうなってた。

 ミナの声が雨のように降り注ぐ。


 水中に引き摺り込まれたみたいに息が出来ない。焦点がぶれて、頭が割れそうに痛い。心臓に冷水が流れ込んでいるみたいだ。歯の根が合わずカチカチと鳴った。




「ショウ?」




 ミナが呼ぶ声がする。

 覗き込む瞳が、妹のそれと重なって映る。

 セピアに染まる記憶の中、自分は包丁を握っていた。




「うわあああああああぁあぁああッ!!」




 喉の奥から絶叫が迸った。

 周囲の人間が動揺し、離れて行く。交番から制服警官が飛び出して来る。

 ミナの小さな手の平が腕を掴んでいた。翔はおぼれる者がわらに縋るように、それを掴み返した。




「俺が! 俺がやったんだ!!」

「ショウ!」

「そんなつもりじゃなかった! 俺は、俺は砂月をッ!」




 その瞬間、視界が白く染まった。

 体がぐらりと傾いて、頬に熱を感じた。口の中に鉄の味が広がって、自分が殴られたことに気付く。




「ショウ、俺を見ろ!」




 両腕を掴まれて、翔は目の前の少年を見た。

 両目が熱かった。頬が濡れている。ミナは酷い形相で、翔を睨んでいた。


 ミナだ。砂月じゃない。此処はあの家じゃない。

 自分の手をミナが掴んでいる。此処には死体も包丁も無い。




「どないした、喧嘩か?」




 桜田が立っている。

 頭が痛い。胃が引っ繰り返るような感覚がして、翔は体をくの字に曲げた。胃液が逆流する。

 それを吐き出す寸前で呑み込むと、消化液の臭いが喉の奥からり上がって来た。




「ちょい休んで行け」




 桜田の声が遠い。

 脇腹からミナが肩を差し込む。翔は殆ど引き摺られる形で、交番へ運び込まれた。








 8.地獄巡り

 ⑸小さな死








 世界がぐるぐると回っている。目を開けていると視界が点滅し、目を閉じると酔いそうだった。翔は運び込まれた交番の座敷ざしきで横になり、眠ることも出来ず只管ひたすらに悪夢にさいなまれた。


 父の横顔、母の笑顔、妹の眼差し。

 四人で囲んだ食卓、棚に飾られた賞状やトロフィー。手を伸ばせば届きそうなのに、掴もうとすればそれは塵芥ちりあくたのように消えてしまう。


 胸が潰れそうに痛かった。この世の終わりが来たかのような絶望が押し寄せて、意識が遠くに投げ出され、そのまま千切れて消えてしまえば良かった。そうして目が覚めたら変わりない日常がやって来るんじゃないかと馬鹿な空想をして、そのたびに死にたくなる。


 誰か、俺を殺してくれ。

 誰でも良い。誰か、俺を。




「……レンジが来てくれるよ」




 枕元で、澄んだボーイソプラノが聞こえた。

 目を開けると濃褐色の瞳が覗き込んでいた。長い睫毛まつげに彩られた瞳には柔らかな光が宿っていて、まるで自分が許されるのではないかと、救われるのではないかと、愚かに願ってしまう。


 交番に運び込まれてから、どうやらミナは保護者の有無を追求されたらしかった。互いに身分証の類を持ち合わせていなかったので、事件性を疑われたのだ。


 翔を動かせなかったのでミナは逃げることも出来ず、仕方無く立花に連絡を取った。電話口で酷く叱られたらしいが、立花は迎えに来てくれると言う。


 血の繋がりも無ければ、真っ当な仕事に就いている訳でもない。そんな立花が交番に来てどうするのか検討も付かないが、翔は起き上がることも出来なかった。




「君の話は後で聞く。だから、今は休んで」




 ミナがそう言った時、ふすまの開く音がした。

 ぎしぎしと畳がきしんで、制服に身を包んだ桜田がやって来た。桜田の関西弁が遠くの世界に聞こえた。ミナは日本語で答えていた。




「ほんまに薬ちゃうんやな?」

「しつこいな。そんなに疑うなら、血液検査でも尿検査でもやってくれ。無実が証明されたら、絶対にマスコミに訴えてやるからな」




 気が立っているのか、ミナの口調は尖っている。普段の様子と余りにも違うから、桜田も困惑しているようだった。




「自分、男やったんか」

「うるさいなあ」




 ミナも面倒そうだった。

 桜田がごちゃごちゃ問い詰めるが、ミナはあしらうばかりで真面まともに相手をしようとしない。

 その間に交番の入口が騒がしくなって、聞き慣れた声がした。




「テメェ等、何やってんだ」




 立花の声は、低く響いた。交番内の警察官すら恐怖を感じて後退り、室内は異様な緊張に包まれる。

 ミナが何かを答えるより前に、桜田が前に進み出た。




「自分が保護者か。身分証をちゃっちゃと出せ」

「ほらよ」




 売り言葉に買い言葉みたいに、立花が何かを投げ捨てる。どうやら免許証らしい。そんなものを差し出して良いのか分からないが、本物である保証も無かった。




「どないな関係なんや?」

従兄弟いとこだよ」




 ミナが答えた。

 立花が鬱陶うっとうしそうに睨んだ。桜田は納得したようではなかったが、ミナがそう言う以上、何も言えない。




「事情聴取でもするか? 俺は構わねぇぞ。その代わり、何にも無かったら、覚えておけよ」




 警官を脅す一般人がいるかよ。ミナと似たようなことを言うものだから、桜田も呆れただろう。

 立花は座敷に胡座あぐらを掻くと、ミナを睨んだ。




「テメェは何してたんだよ」

「ウィローが死んだんだ」

「ウィローって何やねん」

「このガキが可愛がってたドブネズミだよ」




 彼等が意図しているのかは分からないが、話題がドブネズミに切り替わり、翔のことは放逐されていた。

 頭の上で交わされる遣り取りを聞いていると、過去の記憶が遠去かり、まるで夢だったんじゃないかと思ってしまう。けれど、そんな薄情な自分を笑う余裕は、翔には無かった。


 解放された時には既に日が落ちて、辺りは真っ暗だった。

 立花は身分証をひかえられ、愛車の運転席で機嫌悪そうに黙り込んでいた。翔が後部座席で横になっていると、助手席からミナが何度も覗き込んで来た。応える元気も無く、BMWは事務所に向かって走り出す。


 車内では、ミナがずっとウィローの話をしていた。立花が無言を貫いているので、ミナが独り言を言っているみたいだった。


 車が信号で停まった時、ミナがぽつりと零した。




「ウィローは、一人で死んだ」




 まるで、泣いているみたいだった。

 立花の手がハンドルから離れ、ミナの頭を撫でた。




「ちゃんととむらったんだろ」

「うん」

「じゃあ、それで終わりだ。お前はやるべきことをやった」




 立花なりの慰めが、雨粒みたいに染み込んで行く。

 ミナは答えなかった。立花の言葉が彼にどのように響き、伝わったのかは分からない。だけど、ミナはウィローの為に足を運び、その手で墓を掘って埋葬した。それに比べて、自分は。




「でも、側にいてやりたかったな」




 ミナの呟きに、どうしてか涙が溢れた。

 車は事務所に到着する。これ以上、迷惑を掛ける訳にはいかない。翔が鼻を啜っても、二人は何も言わなかった。

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