⑷波間を揺蕩う

 事務所の扉を開けた瞬間、ミナの肩がびくりと跳ねた。


 見てはいけないものを見てしまったかのように血の気が引いて、ミナがドアノブを引っ掴む。


 扉の隙間から何かが伸びる。それは目にも留まらぬ速さと凄まじい力で扉を引っ張り、ミナが勢いよく足を滑らせた。


 階段の踊り場で小さな体が独楽こまのように回転し、そのまま翔の元へ真っ逆さまに転落した。咄嗟に受け止めたが、これが立花のような成人男性だったなら一緒に階下まで転落していただろう。


 心臓がうるさい。翔は冷や汗を拭い、顔を上げた。

 扉の前に、誰かが立っている。


 白いスーツに黒いシャツ。見事な金髪と緑柱玉の瞳。

 心臓が早鐘はやがねのように脈を打って、生命の危機を知らせている。今すぐに此処から逃げなければならないと思うのに、両足に根っこでも生えているみたいに動かない。


 スーツの男――ペリドットは、悪童のように笑っていた。




「顔を見て逃げるなんて、失礼なガキだな」




 そんなことを言いながら、ペリドットの声はとても穏やかだった。腕に受け止めたミナが呻き声を漏らす。脇腹を押さえていた。

 下水道で狙撃されたミナが瞼の裏に蘇る。その度に心が擦り切れて、逃げ出したくなる。だが、目の前の男はそれを許さない。


 頭上から見下ろして来る碧眼へきがんは、相変わらず残酷に美しかった。




「ハヤブサはいねぇのか?」




 翔はミナを下ろして、背中に庇った。

 立花がいない現状では、自分達は狩られるだけの獲物である。けれど、ペリドットは無抵抗を示すように両手を上げた。




「今日は喧嘩しに来たんじゃねぇんだよ。なあ、持て成してくれるよな?」




 否定を許さない強い口調で、ペリドットは微笑んだ。

 翔は背中に庇ったミナを見遣った。顔色が悪かった。その時になって、ミナが先日手術したばかりの怪我人であることを思い出した。




「……いいぜ。クソ不味い茶を出してやるよ」




 三階に上がってろ、と小声で言うと、ミナは首を振った。




「レンジに用があるなら、俺が聞く」




 翔は歯噛みした。

 契約や取引において、ミナは立花にとって最強のカードである。事務処理能力は勿論だが、博識であるし、何より、他人の嘘を見抜けるのだ。

 以前、ミナの不在時に依頼を受けて酷い目に遭ったことがある。同じてつを踏むのは馬鹿のやることだ。


 脇腹を押さえたまま、ミナはペリドットの横を擦り抜けた。緑柱玉の瞳がその動きをつぶさに観察していた。


 本当に、立花に用があったのか?

 目的は違うんじゃないか?

 けれど、それを問い掛けることも出来ないまま、翔はミナの後を追った。


 事務所に入ると、ミナの姿が見えなかった。給湯室から電気ケトルの稼働する音が聞こえる。翔が勧める間も無くペリドットはソファに座った。自宅のようにくつろいでいるその姿に敵意は微塵みじんも無い。


 程無くして、ミナは客用のティーカップにハーブティーを淹れて運んで来た。白地のカップに金色の縁取ふちどりが施された、シンプルながらセンスの良い品だった。


 ペリドットはハーブティー独特の匂いに眉を寄せた。確かに漢方薬みたいなすごい臭いだった。それが香水と煙草の臭いと混ざって、室内は異臭に包まれている。


 ちゃっかり自分はコーヒーを用意しながら、ミナは翔にもハーブティーを出してくれた。厚意なのか嫌がらせなのかいまいちよく分からない。




「お前さ」




 ソファの背凭せもたれに体を預け、ペリドットが口火くちびを切った。その視線はパソコン用の回転椅子に座るミナを見ている。




「何者なの?」

「答える義理は無いね」




 ミナは突き放すように冷たく言った。

 当然の態度だろう。翔は兎も角、ミナは撃たれたのだ。ペリドットの目的は知らないが、味方でないことは確かだった。


 ペリドットはおかしそうに鼻を鳴らすと、ティーカップに口を付けた。翔がいつでも飛び掛かれるように臨戦態勢で待機していたら、ペリドットがせた。




「何だァ、この茶ァ!」

「ドクダミが入ってる」

「雑草じゃねぇか!」

「違うよ。生活習慣病の予防に有効な成分が入ってる」




 ミナはドクダミ茶の効能についてよく分からない化学式をつらつらととなえていた。逆上するかと思ったが、ペリドットは舌打ちしてから、舐めるようにドクダミ茶を啜った。




「マジでクソ不味ィじゃねぇかよ……」




 地下深くの下水道で対峙した時には悪魔のように見えたのに、ハーブティーに噎せて文句を言う彼は、ただの人間に見えた。


 何なんだろう、この男は。

 間違いなく敵であるはずなのに、こうしていると何処にでもいる青年のようだ。


 ミナが肩を落とすのが見えた。




「ねえ、ペリドット。アンタはどうして国家公認の殺し屋なんてやってるの?」




 マグカップを揺らしながら、ミナが尋ねた。

 あどけない口調と刃みたいな視線が余りにもアンバランスで、ミナという少年の本質が陽炎かげろうのように歪む。

 ペリドットはティーカップから視線を上げて、何でもないことみたいに答えた。




「公務員みたいなもんだよ。食いっぱぐれねぇし、リターンもでかい」

「クイッパ……?」




 翔が隣で日本語で補足してやると、ミナは神妙に頷いた。

 ペリドットは不思議そうに見詰めていた。その気持ちが翔には分かる。




「嘘だね」




 ミナは断言した。

 ペリドットの片眉が跳ねる。不穏な空気も構わず、ミナがはっきりと突き付ける。




「アンタは金や権力にも、人殺しにも興味があるタイプじゃない」




 ペリドットの口角が釣り上がる。

 エメラルドの瞳が嗜虐的な色を帯び、翔は咄嗟に腰を浮かせた。しかし、ミナもペリドットも動かなかった。




「でも、それ以外を選べなかったみたいな悲壮感も無い。ねぇ、アンタの敵は何なの」




 ミナは何かしらの確信を得ているみたいだった。この子供には他人の嘘が分かる。ペリドットの本心が此処に無いことを察したのかも知れない。

 ペリドットは奇妙な顔をしていた。まるで、虚を突かれたような。




「お前、人の嘘が分かるのか?」




 その瞬間、ミナの目が見開かれた。

 ひりつくような緊張は、ペリドットの苦笑によって破られた。




「やっぱりそうか。……俺の弟も、そうだった」




 他人の嘘が分かるなんて、そんなに有り触れた能力なのだろうか。翔が初めて会ったのはミナだったので、それがどの程度の希少性を持ち、恐ろしいものなのか分からなかった。


 ミナは驚愕を一瞬で取り繕い、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。




「弟がいるの?」

「うるせぇ。何でもねぇよ」




 ペリドットは放逐するように手を振った。失言だったのだろう。

 立花の過去を聞いた時と、同じ感覚だった。どんな人間にも過去があって、親がいて、家族がいる。そう思うと、ペリドットという正真正銘の化物も、恐ろしくなかった。


 ミナはパソコンの机に片肘を突いた。




「俺も兄弟がいる。口は悪いけど、真面目で優しくて、良い奴だよ。俺の誇りだ。アンタの弟は?」

「あーもう、うるせぇよ」

「家族が大切だ。家族を守る為なら、俺は何でも出来る」




 ペリドットは舌打ちをして、ソファから起き上がった。そのまま事務所の扉に向かったので、翔は笑ってしまった。

 あのペリドットが防戦一方で、銃を取り出さずに逃げて行く。目的が何だったのか知らないが、おかしかった。




「See you again, Peridot!」




 追い討ちを掛けるみたいに、ミナが言った。ペリドットは背中を向けたまま手を振って、独り言みたいな小さな声で「ご馳走様ァ」と零して言った。


 意外な一面を見た。ティーカップの中は空になっている。文句を言っていた癖に飲み干して帰るところが、何だかペリドットの兄性を表しているみたいだった。









 8.地獄巡り

 ⑷波間を揺蕩たゆた










 夕食は焼き蕎麦そばだった。


 ファミリー用の安いめんにキャベツを二玉くらい混ぜた焼き蕎麦は、最早メインが何なのか分からない有様だった。ソースの味が薄くて、食べながら追加しなければならない二度手間に、翔も立花も呆れて文句の一つも出て来なかった。




「テメェのメシが不味まずい三つの理由が分かったぞ」




 空になった皿を横に避けて、立花が言った。




「味見をしない、規定量を守らない、味覚が狂ってる、だ」




 一つずつ指を立てて指摘され、ミナは頬を膨らませて怒っていた。かなり致命的な欠点のように思うけれど、何だかんだ食べることが出来るから、単純に雑なのだ。


 立花が事務所に帰って来たのは、午後八時を過ぎた頃だった。何処で何をしていたのかは知らないが、スーツからは煙草に混じって硝煙の臭いがした。


 ペリドットがやって来たことを伝えると嫌そうにしていたが、特に警戒したり対策したりする素振りは無かった。

 ミナが夕食を作っている間は煙草を片手にずっと新聞を読み、キャベツだらけの焼き蕎麦が出されると呆れながら完食した。


 翔は、未だに立花がどういう人間なのか掴み切れていなかった。この男が何を思い、何を大切にし、何に怒りを感じるのか分からない。


 皿を片付けて来たミナが、ソファに放り投げられていた立花のジャケットをハンガーに掛ける。几帳面な立花にしては珍しいことだ。

 ミナはジャケットの皺を伸ばしながら、機嫌を窺うように言った。




「頼みがあるんだけど」

「内容による」




 一応、聞いてくれるらしい。

 ミナはパソコンデスクに置いていた紙袋を持って来た。




「ワタルに渡して欲しいんだ」




 立花は紙袋を受け取ると、中を覗き込んだ。

 梱包こんぽうされている状態では分からないだろう。立花は中から白い箱を取り出した。




「何だ、これ」

「誕生日プレゼントなんだ。俺は腕時計を貰ったのに、何も返してないから」

「ふーん」




 立花は箱を紙袋に戻すと、机の抽斗ひきだしに入れた。




「近江さんに訊いておくよ」

「うん。お願い」




 ミナはそれ以上、食い下がらなかった。

 煙草に火を点ける立花に、ミナが中身について勝手に話し始めた。相槌があっても無くてもミナが話し続けているので、何だか可哀想に思えた。これでは、独り言と変わりない。ミナが日本語に不自由だった理由を察した。


 翔も他人のことを言えた義理ではないが、立花はコミュニケーション能力が欠けていると思う。彼の生い立ちを考えると咎めることは出来ないし、こうして黙って聞いているだけでも相当な歩み寄りがあるのだと知っている。ミナが一方的になってでも話し続けるのも、同様の理由なのだろう。彼等は信頼関係を築こうとしている。翔には、そう思えた。




「殺し屋って、どういう人がなるの?」




 唐突に、ミナが尋ねた。

 それまでの話題に掠ってもいないが、彼にはよくあることだった。立花は煙を吐き出した。




「そうだな……。金や権力が欲しくてやる奴もいるし、復讐者もいる。俺みてぇに流されてやってる奴もいるだろうし、ピンキリだろ」

「ピンキリ?」




 話が進まないので、立花に代わって翔が補足してやった。

 ミナは可愛らしく「Thank you」と微笑んだ。立花は二本目の煙草を指先に挟み、続けて言った。




「いかれてる奴もいる。殺すのが楽しいとか、自分が正義の味方だと思ってる奴とか。過去に何かあっておかしくなっちまった奴もいるが、元々狂ってる奴もいる。そういう奴等は面倒だ。自分が正しいと信じてるし、目的を達成するまで止まらねぇ」




 では、ペリドットは?

 翔は問い掛けようとして、止めた。ミナが本当に訊きたかったのはそれだと分かったからだ。




「国家公認の殺し屋って、どうやってなるの?」

「何だよ、ペリドットの話だったのかよ」




 立花も漸く理解したらしかった。

 蛍光色のライターで煙草の先端をあぶり、立花が言った。




「国家公認の殺し屋は基本的にスカウトだ。だけどな、ペリドットは特殊なんだ。襲名制しゅうめいせいって言って、国家に選ばれた殺し屋のトップがその名を継ぐ」

「じゃあ、ペリドットも何代目かの殺し屋ってこと?」

「そうだろうな。先代のペリドットと近江さんは友達だったらしいが、どういう経緯で今のペリドットが選ばれたのかは知らねぇ」




 白い煙が天井に伸びて行く。

 謎は深まるばかりだ。ミナだけが俯いて何かを考え込んでいるが、今のところ共有するつもりは無いようだった。




「ペリドットは秩序を守る殺し屋だ。殺し屋と言うよりも、暗殺者の方が正しいだろうな」




 殺し屋も暗殺者も、人殺しには変わりない。

 ミナは頭痛をこらえるみたいに両眼をぎゅっと閉じて、眉間を揉んでいた。




「ペリドットと、もっと話したかったな」




 怖くないのだろうか。殺されかけた相手にもっと話したかっただなんて普通の神経じゃない。


 そういえば、ミナも人を殺したことがあると言っていた。大切な人を失ったとも。


 このタイミングで訊けるだろうか。翔が迷っている内にミナは欠伸あくびをして、三階に上がってしまった。基本的に早寝早起きな少年なので仕方が無い。


 ミナが立ち去った時、立花が言った。




「お前にはあのガキはどう見えるんだ?」

「……大人のふりをしたクソガキ」

「はは」




 立花が笑った。

 悪い奴ではないが、言うことを聞かないという一点においてミナはクソガキである。立花が新聞を読み始めたので、翔はやることが無くなってテレビを点けた。


 西岡被告の裁判の様子が語られている。彼を弁護する幸村を責め、同情する街の声がやけに白々しく聞こえた。裁判は敗色濃厚である。


 胸が塞がれるような息苦しさを覚えて、翔はソファに寝転んだ。その時、新聞に目を落としていた立花が呼んだ。

 翔が身を起こすと、立花は視線も合わさずに言った。




「俺は、身の程をわきまえないガキが嫌いだ。だから、今のあいつが気に入らねぇ」

「……ガキなりに頑張ってるだろ」

「頑張ったからってご褒美が貰える世界じゃねぇ」




 立花が何を言いたいのか分からない。

 何も答えられず黙っていると、立花の金色の瞳が翔を睨んだ。




「過去も記憶も大事だろう。だけどな、その為に誰が何を失うのかしっかり考えろ」




 立花は復讐を請け負わない殺し屋だ。

 そんな彼に翔の気持ちはきっと分からない。そして、己の何を犠牲にしてでも家族を守りたいと願うミナの覚悟だって、測れない。




「復讐に未来は無いぞ。ちゃんと考えて、自分で責任を取れるマシな未来を選べ。テメェのことも、周りの人間のことも勘定かんじょうに入れろ。復讐だ何だ言うのは、それからでも遅くねぇぞ」




 釘を刺されていると、分かる。だが、不思議と居心地は悪くなかった。ミナも立花も、方法は違えど自分のことを考えてくれている。




「肝に銘じるよ」




 翔が言うと、立花は再び新聞に目を落とした。

 テレビばかりが騒がしい。底抜けのクズと、遺族の復讐。エゴを貫こうとする弁護士と、それを糾弾きゅうだんする街の声。それがまるで、自分達みたいで。


 翔は背凭れに体を預け、天井を見上げた。

 今頃、ミナは寝ているのだろうか。


 ミナは正義感が強そうだった。誰にも死んで欲しくないとも言っていた。それでも、自分の復讐の為に協力してくれているのは何故なんだろう。彼の弟も、ミナトなら止めそうだと言っていた。


 俺には、何が出来るんだろう。

 殺された家族の為に、力を貸してくれるミナの為に、何が。


 微睡まどろむ意識の奥、翔は夢を見た。

 酷く懐かしい夢だった。けれど、起きた時には何の夢を見ていたのか全く覚えていなかった。


 事務所にはミナがいて、立花はいなかった。

 街は朝日に照らされている。誰が死んでも、世界は回る。明けない夜も、止まない雨も無い。翔はそれが何故だかとても悲しくて、鼻を啜った。

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