⑶深淵を下る

「お前、結論出てるだろ」




 洗濯物を片付けると言って翔が事務所を出たタイミングで、立花が言った。挑発的な笑みが口の端に浮かんでいる。ミナは開こうとしていたパソコンから手を離し、椅子を回した。


 金色の瞳は相変わらず冷たく光り、凡ゆる逃避を許していない。ミナは溜息を吐いた。




「でも、証拠が無い」

「じゃあ、何で話した。しかも、俺の目の前で」




 とがめるような口調に反して、立花の目に怒りは無い。だが、ミナはまるで首元に刃物を突き付けられているみたいな威圧感に襲われた。金色の瞳は、自分の価値を見定めようとしている。


 じわりと掌に汗が滲む。ミナは拳を握り、目を細めた。




「これで俺達はだね」




 瞬きや息遣い、頭の天辺てっぺんから指先に至る己の全てを支配し、ミナは笑ってやった。弱味も油断も見せてやらない。痛い程の沈黙は、裸足で薄氷を踏むかのような緊張感をもたらした。


 その時、立花は機嫌良さそうに喉を鳴らした。途端に張り詰めた糸が弛緩し、ミナは呼吸の仕方を思い出した。




「他人の復讐に手を貸すようなタイプには見えねぇんだけどな」

「ショウは他人じゃない」

ほだされてんじゃねぇの?」

「どうかな」




 ミナは首を捻った。

 時々、自分が千尋せんじんの崖で綱渡りをしているような心地がする。一歩でも足を踏み外せば、深い闇の底に頭から転落するかのような途方も無い緊張と焦燥が足元から込み上げて、精神を汚染して行く。それでも、積み上げて行くしかない。遥か遠くの対岸を目指して、一歩一歩、着実に。


 指先が冷たい。不意に何かに縋りたいような気持ちがして、ミナは首から下がるネックレスを掴んでいた。




「ショウは俺の期待に信頼で応えてくれた。今度は俺の番だ」

「それが、不毛な復讐でも?」




 不快感が込み上げて来て、ミナは舌打ちを呑み込んだ。


 復讐が不毛だなんてことは初めから分かっている。

 正論も綺麗事も大嫌いだ。家族を失った人が復讐を誓ったとして、他人に咎める権利は無い。優先順位は決まっている。


 死者の名誉よりも、目の前で生きている人間が大事だ。遠くの他人よりも近くの友達が大切だと思うことの何が間違っているのだろう。




「その為にショウが生きていけるというのなら、俺はそれを肯定する」




 立花の顔が苦く歪む。頬が僅かに隆起りゅうきし、奥歯を噛み締めたのだと分かる。




「そういうやり方は、身を滅ぼすぞ。信頼ってのは、相手を全肯定することじゃねぇ」




 返す言葉が無かった。

 息苦しい程の自覚が喉の奥に詰まって、何の言葉も出て来ない。立花は呆れたように溜息を吐き、灰皿を避けた。存外ぞんがい整理されたグレーの机の上に肘を突き、金色の瞳が覗き込む。




「俺は忠告はした。それでも、お前が首を突っ込むって言うなら、もう止めねぇ。……だけどな」




 立花が言った。




「復讐に生きるのは、地獄だぞ。お前なら違う道だって示してやれるんじゃねぇのか?」

「……」

「それは一緒に地獄に落ちるより、ずっとマシな未来だと思わないか?」




 ミナは答えられなかった。

 階段を下る足音が聞こえる。ミナは深呼吸をして、ショウを此処から連れ出す為の話題を探した。










 8.地獄巡り

 ⑶深淵しんえんを下る









 誕生日プレゼントを買いたいと言うので、翔はミナと一緒に街に出た。クリスマスを終えたばかりだというのに、街は賑わい続けている。今度は正月だ。


 ストレスの多い社会だから、酒を呑む口実を探して、浮かれて嫌なことを忘れたいのだろう。


 電車に乗って都心部の駅に向かった。ミナは慣れた調子で整然とされた街中を歩いて行く。いつものパーカーではなく、黒いMA-1を羽織っていた。街頭で雑誌の撮影が行われており、写真を求められたが断っていた。多分、ファッションではなくて顔面の良さが評価されたのだと思う。


 ミナを連れていると、兎に角、目立つ。

 神様の依怙贔屓えこひいきみたいな顔面が邪魔なのだ。翔が文句を付けたら、ミナは適当なツバ付きのキャップを買って深く被った。


 ミナはインテリアショップに入った。一人だったなら決して足を踏み入れないような洒落しゃれた店だった。店内には欧州から輸入した家具の数々が美しく陳列され、物見遊山ものみゆさんで入っただろう若い女達が嬉しそうに眺めている。


 ミナは店内をぐるりと回ると、窓際に置かれたインテリアを指して笑った。黒猫の形をしたスマホスタンドらしい。伸ばされた背中に携帯電話を置いて充電出来るようだった。生活に全く必要とは思わないが、釣り上がった大きな瞳は確かに、彼の弟によく似ていた。


 ミナは黒猫のスマホスタンドを購入した。

 想像以上に値段が高くて驚いたが、ミナは二つ折りの皮財布から現金で支払った。立花から支給されたバイト代らしく、使うあてが無いから貯まる一方だったのだと笑っていた。


 小さな紙袋を下げて、ミナは弾んだ足取りで歩いていた。折角来たのだからと翔の服も幾つか選んでくれた。そういう面倒見の良さは、兄らしい。


 コーヒーが飲みたいと言うので、一緒に喫茶店に入った。マグカップに注がれたアメリカンコーヒーは、値段の割には大して美味くなかった。


 腹が減ったので、帰りにラーメン屋に行った。ミナは昼飯にチキン南蛮と大盛りの白米を食べていたが、ラーメンを二玉おかわりして、スープまで飲んだ。これだけ食べてもチビで痩せっぽちなのだから、ちょっと可哀想に思った。


 地元の駅に着いた頃には午後八時を回っていた。ラーメンのお蔭で腹は減っていなかったけれど、早く事務所に戻りたかった。


 日記を付けたかったのだ。ミナに言われた日記は細々と今も続いている。良いことがあったら、丸印。一日を振り返り、これまで付けた丸の数を数えるのが好きだった。


 駅前を抜けて路地裏に入ると、人の声がした。

 何を話しているのかまでは分からないが、盗み聞きする趣味は無い。


 関わり合いになりたくなかったので迂回しようとしたら、ミナが建物の影で立ち止まった。




「……ミナ?」




 呼び掛けても、返事すらしない。

 一体何を見ているのかと一緒に覗いて見ると、其処には黒い肌の長身の男と、若い女が二人立っていた。女達が一万円札を数枚渡すと、男は何かを差し出した。翔には見慣れた光景だった。


 違法薬物の売買だ。警察が幾ら取り締まっても、需要がある以上、それは無くならない。流石に手を出したことは無いけれど、運んだことはある。端金はしたがねで背負わされた罪がどのくらいのものなのかも知らないが、彼等はいつもこうして、愚かな若者を餌にして私腹を肥やすのだ。


 翔は嫌な記憶が蘇るような気がして、ミナの腕を引いた。




「行くぞ」

「待って」




 ミナは動かなかった。

 その間に男は何処かへ立ち去ってしまい、残された女達が手に入れた薬物を嬉しそうに鞄へ入れる。通報されたらお終いなのに、呑気なことだ。


 女達が路地裏から出る寸前、ミナが声を掛けた。




「それ、何の薬?」

「ハァ? 何のこと?」

「警察には言わないから、見せて」




 親しげな口調とは裏腹に、その視線は針のように鋭い。

 女達は互いの顔を窺うようにして見遣り、渋々と鞄からそれを取り出した。


 小さな真空パックには、黒色の錠剤が三つずつ入っていた。ミナがフラットな口調で尋ねると、彼女達はこれを砕いて酒に混ぜるのだと得意げに教えてくれた。


 顔が良い奴は得だなと、翔は思った。




「この薬、何て言うの?」

「あたし達は、黒いのとか、ブラックとか呼んでるけど」




 ブラック。

 何だか嫌な響きだ。最近も薬物の話を聞いたばかりだ。

 確か、近江だったか。孤児を対象にした人体実験で、薬物を投与していたとか、胸糞悪い話だった。




「呑むとどうなるの?」

「他のと一緒よ。気分が上がって、楽しいの。そんで、嫌なこととかどうでも良くなるんだよね」

「ねー!」




 馬鹿な女達だ。そうして支払った金が何処へ流れるのか知りもせず、その場の勢いに流されるだけの有象無象。撒き散らす香水と紫煙の臭いに吐き気がする。


 ミナはそれ以上は追求せず、にこやかに彼女達を見送った。不審がられてはいたが、特に騒がれもしなかった。もしかすると、自分達は兄妹に見えていたのかも知れない。


 事務所までの帰路を歩きながら、ミナは俯いて何かを考えているようだった。そういう時は声を掛けず、勝手に話し出すまで放っておくことにしている。




「あれに似た薬を、知ってる気がする」




 事務所のポストを覗いていたら、ミナが言った。

 薄暗い玄関に月明かりが差し込んでいる。弱い蛍光灯の光に照らされたミナは無表情だった。


 翔はポストの中に押し込まれた無数のチラシを抱えた。




「よくあるだろ、あんなの」

「あれは違うと思う」




 ミナが言った。

 何のことかよく分からない。翔はポストを閉じながら、先日、近江から聞いた話を思い出していた。




「この国はさ、どいつもこいつもクスリ漬けなんだよ。昔はどっかの国が孤児を対象に薬物実験してたらしいぜ。そんで、生まれた時から薬物漬けの子供がたくさん生まれて……何だっけ。ドラッグベビーとかって」

「人体実験って、とんでもない話だぞ」

「だから、昔のことだろ」

「どのくらい昔なの? 戦時中?」

「いや、そこまで昔じゃないと思うけど」




 確か、立花が子供の頃くらいの昔だ。

 立花は26歳だと言っていたから、思う程、昔ではないのかも知れない。記憶が曖昧なせいか、正確な時代背景や時事報道が分からない。


 俯いたミナがそれ以上を語ろうとしなかったので、翔も追求はしなかった。ミナは集中状態に入ると周りが見えなくなる悪癖あくへきがあった。呼吸しているのか不安に思う程の凄まじい集中は、側で見ていると吸い込まれそうな錯覚に陥る。




「ドラッグベビー……」




 ミナが呟いた。

 今時、珍しい話じゃないだろう。翔はそう思うけれど、ミナは違うらしかった。翔は近江の話を思い出し、何となく後ろめたくて声を潜めた。




「立花もドラッグベビーだって聞いたぞ」

「レンジが? 何で」

「知るかよ。クソみてぇな施設で育ったって言ってただろ。ドラッグの後遺症で奇形とか免疫不全とか……。何だったかな。身体能力がすごいガキが生まれて……、その内の殆どが死んだとか……」




 翔は頭を掻いた。近江の話は小難しくて、よく覚えていない。人体実験の目的についても話していたように思うけれど、何だっただろうか。話の規模が大き過ぎて荒唐無稽こうとうむけいだったのだ。


 ミナの目が静かに眇められる。それはまるで、おぞましい何かを嫌悪するような、警戒するような眼差しだった。




「この話は止めよう。深入りするべきじゃない」

「お前もな」

「Of course」




 珍しくあっさり引いて、ミナは階段を登り始めた。

 肩の辺りまで伸びた栗色くりいろの髪が左右に揺れる。その後姿を見ていると、顳顬こめかみがじわりと痛んだ。視界がぶれるような感覚がして、翔は其処に誰かを重ね見た。




「Hallelujah……」




 ミナの歌声が聞こえる。それが合図だったみたいに頭痛は引いて行って、意識は現実に回帰する。

 翔は首を振った。深入りするべきじゃない。ミナの言葉は忠告だったのか、警告だったのか。小さな背中は振り返らない。調子外れの鼻歌が、微温湯みたいに空間を満たしていた。

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