9.毒と血
⑴忍び寄る影
心が洗われるような清々しい朝日がブラインドの隙間から差し込んでいる。朝の静寂を塗り潰すような騒がしさに、翔太は目を覚ました。
元旦の朝、殺し屋の事務所は相変わらず
騒がしさの元を辿ると、テレビだった。正月特番で芸人が非人道的な罰ゲームを受け、司会者が腹を抱えて笑っていた。迫力のある大阪弁がゲストを恫喝すると、スタジオがわっと盛り上がる。
この事務所にバラエティを好む陽気な人間はいない。立花は定位置で新聞を読み耽り、ミナはパソコンに向かっていた。互いに無言だが、喧嘩をしているような険悪さは無い。
「翔太が起きたぞ」
視線は手元に落としたまま、立花が言った。パソコンに向かっていたミナが手を止めて振り返る。前髪を
新聞を畳んだ立花は事務所を出て行き、ミナはパソコンを閉じると給湯室に向かった。
ミナが戻って来た時には
立花が回転椅子を引っ張って来たので、ミナは翔太の隣のソファに座った。寝起きみたいな低い声で立花が
雑煮は見た目に違わぬ上品な味がした。飾り切りされたニンジンが美しく、それを立花が作ったと思うと何だか不思議な感じがした。
御節料理の大半も立花が作ったらしい。彼は洋食の方が得意らしいが、和食も店が出せそうなくらいには美味かった。ミナは
翔太が寝ている間に、二人で作ったらしい。
料理は立花の趣味らしい。ミナは手伝いを買って出たのに散々文句を言われ、叱られたそうだ。
「こいつの料理は
雑煮の
立花の繊細な料理に比べたら、プロでもなければ適当に見えるだろう。しかし、ミナは気を悪くした風も無く、
「レンジのご飯は美味しいよねぇ。毎日食べたいな」
「テメェが楽したいだけだろ。俺は忙しいんだ」
「マカナイだって美味しかったよ」
数の子を噛んだミナが、独特の食感に目を輝かせる。立花もそれ以上は何も言わなかった。
ミナは大抵のことは笑って流すし、相手を褒めることに
テレビから大阪弁が響く。不快に思ったのか、立花がリモコンで音量を下げた。チャンネルを変えようとした時、警報と共に画面上部にテロップが流れた。
「警察署で食中毒……」
翔太が文字を読み上げると、ミナが顔を上げた。
餅を食べていたせいか、飲み込むのに手間取っている。その間にテロップが続けて流れ、被害状況は確認中であると記されていた。
正月に見合わない嫌な話題だ。警察官も元旦に浮かれていたのだろうか。漸く餅を飲み込んだミナが、独り言みたいに零した。
「水かな」
「あ?」
「学校給食なら兎も角、警察署だろ。集団食中毒って何だか変じゃない?」
だから、水か。
警察署で共通で口にするものなんて限られている。
翔太は曖昧に頷いた。立花は箸を止め、黙ってテレビを睨んでいる。けれど、それ以上の情報は提供されず、やがてバラエティの喧騒が戻って来た。
「桜田さんに挨拶しないと」
雑煮の汁まで飲み干して、ミナは箸を置いた。
御節料理は基本的に二、三日食べられるように量が多いのだが、ミナは一食で半分程平らげてしまっていた。
立花は食事を再開し、ミナの作った煮豆を苦い顔で
桜田に挨拶をしに行くらしい。
一方的に迷惑を掛けて、説明もせずに帰って来てしまっていたが、今更どんな顔をして会えば良いのだろう。ミナはそういうことに
顔を合わせ
翔太がダウンジャケットを着ていると、ミナが言った。
「新年の挨拶は、アケオメって言うんだろ?」
「言わねぇよ。そういうのは、友達だけだ」
「じゃあ、問題無いだろ。桜田さんは友達だ」
「目上の人間には失礼なんだよ」
「メウエって何?」
面倒な子供である。
翔太が
「お前等、兄弟みたいだな」
そんなことを言って、立花は重箱を三階へ運んで行った。
9.毒と血
⑴忍び寄る影
正月の街は静かだった。
年中無休24時間営業を謳うコンビニ以外はシャッターを下ろし、其処此処に着物を纏った人が歩いている。
ミナは前髪を
駅前の交番を覗くと、桜田の大阪弁が聞こえた。顔を赤くした酔っ払いを相手に世間話でもしているみたいだった。中年女性が酔っ払いを引き取りに来て、桜田が貼り付けたような笑顔で送り出す。ミナが入口から顔を覗かせると、桜田は
「おうおう、ミナちゃんやないの」
ミナは以前のことなんて無かったみたいに微笑んだ。
両手を広げ、ミナが明るく言った。
「Happy new year! I look forward to your continued good will this year」
結局、英語で言うことにしたらしい。
ミナは親しげに桜田の肩を軽く抱いた。こういう姿をみると、改めてミナが外国人だと感じる。翔太は抵抗を覚えるが、桜田は慣れているのか嬉しそうに笑っていた。
桜田はミナの顔をまじまじと眺め、腰に手を当てた。
「ほんま、男に生まれたのが勿体無いな」
「よく言われる」
「自覚があるんかい」
桜田が笑った。
ミナに肘で小突かれて、翔太も渋々新年の挨拶を口にした。桜田は形式ばった挨拶を返し、優しい目をして言った。
「もう具合はええんか?」
「ああ、お蔭様で」
「そら良かった。あん時はびっくりしたで。誰か刺されたんかと思たわ」
翔太が言葉を探していると、桜田が頭を撫でた。
「あんまり無理せんといてや」
「……ありがとうございます」
「俺は街のお巡りさんやさかいな。困った時はいつでも呼んでくれや?」
良い人だな、と思った。
打算があるのかそうではないのか、翔太には分からない。だが、巻き込まれて、八つ当たりされて、それでも好意的に関わってくれる目の前の男は御人好しに見えた。
対して、壁に凭れ掛かって謝罪の一つもせずに微笑んでいるミナが図太く思える。迷惑を掛けたとすら感じていないんじゃないだろうか。
「桜田さんは大丈夫だったの?」
「ああ。俺は交番勤務やさかいな」
「被害状況は確認中って聞いたけど」
「外部の人間にはなんも言えへん。ミナちゃん達も気ィ付けてな」
桜田は困ったみたいに眉を寄せた。
警察が捜査状況を個人的に漏らす訳にはいかないだろう。食中毒と聞いているが、命に関わるような被害が出ていないと良いなと思った。
しかし、ミナは不敵な笑みを浮かべたまま、問い掛けた。
「What was the poison?」
その瞬間、桜田の表情が固まった。異様な緊張感が走り、翔太は咄嗟に身を引いた。ミナばかりが何でもないみたいに小首を捻っている。
桜田が周囲に目配せする。交番内はそれまでと変わらず、警官が道案内したり、不幸そうな顔をした男が行ったり来たりしている。周囲に変化が無いことを確認すると、桜田は溜息を吐いた。
「……ちょい、こっち来い」
そのまま交番の外に連れて行かれ、翔太はまるで連行されているみたいな居心地の悪さを味わった。
ポイズン、とミナは言った。
Poison ――毒?
食中毒と言っていたが、まさか、毒なのか?
交番の外は程良い喧騒に包まれていた。桜田は交番の裏手に回って
「なんでそれ知ってるんや」
「It's a secret」
「自分、ほんまに何者なんや……」
それは翔太も知りたい。
だが、今はそれ以上に、彼等の不穏な話が気に掛かる。
桜田は交番の壁に寄り掛かると、溜息を吐いた。
「ええか。絶対に人に言わんといてや」
そう前置きして、桜田は言った。
「食中毒の症状じゃないね」
ミナが言った。
翔太には分からない。そもそも、食中毒がどういう症状なのかよく知らなかった。
「何の毒かはまだ分からへん。やけど、狙われたのは警察署や。こらテロやで」
「テロなら政治的な目的がある。犯行声明はあったの?」
「まだや。せやけどな、普通の人間はわざわざ警察署なんて狙わへんやろ」
ミナは腕を組み、何かを考えているようだった。
彼の言葉が予言のように的中して行くのが余りにも不気味で、翔太はミナが犯人なんじゃないかとすら思った。でも、ミナならもっと派手にやるだろう。
「警察を恨んでいる人は多そうだ」
ミナが言った。同感だが、敢えて警官の前で言う必要も無いだろう。桜田は気にする
「前に拘置所で男が殺されたこと、覚えとるか?」
拘置所で殺された男――ホリイレイイチロウ。
翔太が初めて関わった事件で、高梁という女性が暗殺された。その時の依頼人の名前が、ホリイレイイチロウだ。最後は汚職データを警察に
ミナが頷くと、桜田が言った。
「堀井は毒殺された。その時の看守が言うとってんけど、今回と症状が似てるんやて」
「……それは、捜査されなかったのが悔やまれるね」
自分から首を突っ込んだ癖に他人事だ。
ミナは目を擦っていた。眠いのだろうか。確かに昨夜は年が明けるまで起きていたから、普段よりは夜更かしだった。
「今回と関係あるかは分からへんが、毒殺事件は全国的に起きてる。ミナちゃん達も気ィ付けるんやぞ」
とんでもない世の中になったものだ。テレビや新聞には報道されない事件がこの社会では起こっている。翔太が
ホリイレイイチロウの毒殺と言えば、ミナは殺し屋の仕業ではないかと言っていた。同一犯なのだろうか。
桜田の前では訊けない。
「桜田さんも気を付けてね」
ミナは邪気の無い笑顔でそう言うと、手を振った。
桜田とはその場で別れ、二人は歩き出した。
正月の穏やかな世界。その裏側では人の命を平気で奪う殺し屋が暗躍している。真実は報道されない。まるで背後から何かが迫って来るような不安を感じ、翔太は帰路を急いだ。ミナばかりが、平々凡々と
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