⑺兄の矜恃

 湿気を帯びた暗闇の中を、非常口の明かりが仄かに照らす。ガレージを大きくしたようなその冷凍倉庫は明かりが消され、すでに無人になっているようだった。


 ポケットから吸盤きゅうばん型のスピーカーを取り出して、建物の外壁に設置する。携帯電話に繋いで音声データを解析する。パソコンなら人の声や音の種類も詳細に調べられるが、仕方がない。中から聞こえるのはエアコンの稼働音だけだった。


 警備会社の監視カメラ映像もハッキングしてみたが、動いている人間はいない。少なくとも、此処に動いている生き物はいなかった。


 ハズレだ。では、港の倉庫に移動するべきだ。

 立花には簡易的な報告をメールで送った。迎えに来てもらわないと移動手段が無い。


 携帯電話をポケットに押し込み、ミナは顔を上げた。

 その時、遠くからバイクのエンジンの音が轟いた。ミナは舌打ちを漏らし、辺りに目配せした。

 逃げるか、隠れるか。今の自分ではワタルに会えない。殺人鬼を追ってる。弟を巻き込みたくない。


 冷凍倉庫の裏口に回り込む。従業員専用の簡素な扉は当然ながら施錠されていた。ポケットからナイフを取り出して、鍵穴を強引に壊した。シリンダーの構造は頭の中に入っていたので、取手を回すと扉はゆっくりと開いた。


 室内は墨汁を垂らしたような濃厚な闇に包まれていた。ミナは扉に耳を当て、近付いて来るバイクの音に耳を澄ます。違和感を覚えて扉を薄ら開き、何者かの正体を見極めようとした。ワタルの乗っていたバイクと排気音が違うのだ。


 通行する車のヘッドライトがまばゆく照らす。丁度、逆光になる位置だった。ミナが目を細めると、月明かりの下で彼は朗らかに笑った。




「何やってんだよ、ミナ!」




 モッズコートを羽織はおった青年は、エメラルドの瞳をきらきらと輝かせていた。浅く被ったヘルメットと、漆黒の大型バイクにまたがる様が格好良く見えた。




「ノワールこそ……」




 言い掛けて、ミナは黙った。

 ノワールが此処にいるということは、港の倉庫がハズレだったということだ。でも、この冷凍倉庫にも人気ひとけは無い。

 どういうことだ。まさか、自分が間違えたのか?


 ノワールはバイクを建物の側に停めると、ヘルメットをサイドミラーに引っ掛けた。潰れた頭頂部の髪を無造作に直しながら、ノワールは扉の中へ入って来た。


 グローブをめた手でミナの頭を撫でると、ノワールは辺りを見回した。




「ハヤブサはいねぇのか?」

「遅れて来るよ。ちょっと予想外のことがあって……」




 ミナが曖昧に濁すと、ノワールは快活に笑った。




「そりゃあいい。さっさとソーイングマンをぶっ殺そうぜ!」




 静まり返った空間にノワールの声が響き渡る。ミナが慌てて口元を押さえると、ノワールは軽薄な口調で謝罪した。

 携帯電話に倉庫内の地図を表示させていると、ノワールが言った。




「ソーイングマンは殺しの素人だ。港にいた奴等とは違ぇ」




 何を言っているのかよく分からない。

 倉庫内の怪しい地点を回れるように順路を書き込み、ミナは尋ねた。




「港で何があったの?」

「大したことは無ぇよ。それより、お前は何で一人なの?」




 ミナは答えを迷った。

 どのように説明したら良いんだろう。ノワールがどのくらい信頼出来るのか分からない。

 ミナが黙っていると、ノワールは「まあいいや」と話を勝手に切り上げてしまった。


 室内は冷たく乾いていた。食品のパックが箱詰めされて、整然と並んでいる。繁忙期の為なのか段ボールが積み重なり、迷路のようだ。地図と方向感覚を頼りに道を進む。冷凍庫が奥にある筈だ。着込んだダッフルコートを見下ろし、マイナス30℃の極寒の地に踏み込むには軽装過ぎることに焦った。




「ソーイングマンの目的は繋げることだって、言ってただろ。寂しかったんじゃないかって」




 缶詰の塔を避けて、ノワールが唐突に言った。

 トマトの水煮。ミナはパッケージに記された文字を横目に読んで、頷いた。


 自分だってプロファイリングのエキスパートじゃない。素人がただ想像しただけだ。


 エメラルドの瞳が見詰めて来る。




「目的は繋げること。それは俺も同感。でもな、寂しかったって言うのは、違うんじゃねぇかな……」




 ノワールは何か言葉を選んでいるようだった。

 ミナがそれを追求するより先に、ノワールが口元に指を立てた。




「血の臭いがするぜ。……ビンゴだ」




 血の臭い?

 周囲の臭いを嗅いでみるが、埃と、エアコンから流れ込むかびの臭いしか感じられない。だが、ノワールは嘘を吐いていない。


 ノワールは懐へ手を伸ばした。其処から取り出された銀色に輝く鉄の塊に、ミナの意識は頬を引っ叩かれたように覚醒した。


 銃だ。

 警察官が携帯するような小型のそれではない。


 その時になって、ミナは初めてノワールが敵になるかも知れないという可能性に思い至った。これまで接して来た彼の所作一つ一つが頭の中に鮮明に浮かび上がる。歩き方、呼吸の仕方、彼を見る周囲の人間。あれは、まるで。


 ノワールは革靴を履いている。けれど、足音は無い。

 水が流れるような滑らかな動作で、冷凍倉庫の最深部の扉の前に立った。其処は金属製の鉄の扉である。鍵は無い。ノワールは一度だけ、後ろを振り向いた。エメラルドの瞳があやしく光る。其処に浮かぶ笑みは、正しく捕食者のそれだった。


 扉が開け放たれた瞬間、濃密な血の臭いが溢れ出した。

 空気が歪んで見える程の凄まじい臭気だ。マイナス30℃の凍て付く風が吹き抜ける。透明なカーテンを片手で避ける。金色の火花が散った。

 冷凍庫の奥から呻き声がした。ミナが覗き込むと、其処は真っ赤に染まっていた。


 人間の皮膚が、頭髪が、臓器が、骨が粉々になって散乱している。それは丁度、人体をミキサーに掛けたようだった。

 足元には、視神経に繋がった眼球が転がっていた。氷点下の室内で、それはカチカチに凍り付いている。


 白くかすむ冷凍庫の奥に、オレンジ色の作業着を纏った男がうずくまっている。膝の辺りに新しい出血箇所が見掛けられた。そして、その手前には、白く凍った人間の身体が横たわっていた。




「テメェだな」




 男は怯え切っていた。顔は見えない。ニット帽とマスク、分厚い軍手。それから、チェンソーが転がっていた。


 ミナは言葉を失っていた。それはこの男の様子や、ノワールの行動に対するものではない。冷凍庫の中は真っ赤だったのだ。一人二人殺した程度ではこうならない。被害者は六人と聞いているが、現場の状況を考えるとそれを遥かに超えるだろう。


 遺体はぐちゃぐちゃに潰れ、引き裂かれている。それまでの丁寧な犯行とは異なる。別人の犯行か。

 違う。この男の目的は、ずれていない。――進化したんだ。

 警察に追われ、殺し屋に狙われ、命を狙われる恐怖と、名前を与えられる優越感が、この殺人に拍車を掛けた。




「繋げられて、満足したか?」




 ノワールは笑っている。まるで、全ての結末が分かっていたみたいだった。

 うずくまっていた男は、顔を上げた。失血と低温の為に顔色は紙のように白い。けれど、その瞳ばかりが飢えた野獣のように爛々と輝いていて、境界線の向こうにいる別の種族であることを痛感させる。




「君も」




 マスクのせいか、その声はくぐもっている。白い息が隙間から溢れるたびに、空気が汚染されて行くような気味の悪さを抱いた。




「君も、繋がりたいんだね」




 マスク越しでも分かる。男――ソーイングマンは、笑っていた。犯行を暴かれ、銃口を突き付けられ、それでも恍惚こうこつと微笑んでいる。

 理由が分かる。この男は、見て欲しかったのだ。この作品を誰かに見て、自分を認めて欲しかったのだ。他者承認欲求の充足。


 男の手がチェンソーに伸びる。刹那、ノワールの銃が火を噴いた。




「うるせぇよ」




 後頭部から血を噴き出して、男の体が倒れて行く。ミナは堪らず口元を押さえてうずくまった。血液と硝煙の臭いが鼻を突き、今にも吐きそうだった。


 だけど、訊かなきゃいけないことがある。

 ミナは嘔吐感をぐっと堪え、ノワールに向き直った。




「ノワールは、何者なの」




 エメラルドの瞳は、何事も無かったかのように静かに、穏やかに輝いていた。人を殺すことに、何の感情も抱いていない。ミナはその理由を察していた。だから、答え合わせを。




「殺し屋だ」




 バイクの排気音が轟いたのは、その時だった。










 7.ツナグ

 ⑺兄の矜恃きょうじ










 その音はどうやら、倉庫の入口の方からやって来ているようだった。聞き覚えのあるエンジンの音に、ミナは怒りでも呆れでもない不思議な感情を抱いた。




「新手か?」




 ノワールが銀色の銃を構える。ミナは首を振った。




「俺の弟」

「弟ォ?」




 ノワールが怪訝な顔をしたので、ミナは苦笑した。

 どうする。この凄惨な状況をワタルには見せたくない。巻き込みたくないし、関わらせたくない。

 逃げるならタイミングが大切だ。ミナが考えていると、ノワールが尋ねた。




「喧嘩でもしてんのか?」

「まあ、そんなとこ」

「バイクで乗り込んで来るなんて、普通じゃねぇぞ。どんな喧嘩してんだよ」




 どんな喧嘩。

 果たして、これは喧嘩なのだろうか。ミナは首を捻った。




「会いたくないのか?」

「会いたいよ。でも、色々事情があって、今は会えない」

「ふーん……」




 ノワールは銃を懐に戻した。




「後悔するぞ」




 貫くような真剣な眼差しだった。それでも、ミナは真っ直ぐに見詰め返し、頷いた。

 分かってる。一度離れたら、また会えるとは限らない。手を繋いだなら、離す日を覚悟するように。


 それでも。




「それでも、弟が大事だ」




 正しいかどうかなんて分からないし、きっとこの世に正義なんてものは無い。それなら、最善を尽くすしかない。例え、それを弟が望まなくても、自分のエゴだとしても。


 ノワールは追及しなかった。何かを察したのかも知れない。

 エンジンの音が近い。倉庫内は段ボール箱が山積みだったけれど、衝突する気配は無い。


 知っている。

 ワタルがどれだけすごいのか、誰より知っている。

 いつか、自分の積み重ねて来た理屈も計略も矜恃も、弟に乗り越えられる日が来る。――


 ノワールが言った。




「俺にも兄貴がいる。……だから、家族を守りたいって気持ちは俺にも痛い程分かる」




 掠れた、けれど確かな芯を持った声だった。




「家族の為なら、何でも出来ると思った」




 エメラルドの瞳は綺麗だった。海外の海を思わせる鮮やかな色彩でありながら、それは水面から太陽を見上げるような、労りと慈愛に満ちた柔らかさでミナの胸をえぐった。


 追及するべき、だったのだろう。

 けれど、ミナは問わなかった。それがノワールにとってとても大切で、心の奥の柔らかいところにあるものだと知っていたから。




「行け、ミナ。弟は俺がどうにかしてやる」

「I see」




 血腥ちなまぐさい冷凍庫から踏み出すと、嗅ぎ慣れたガソリンの臭いがする。

 ワタル。血を分けた自分の弟。己の半身。会いたいという気持ちなら負けるつもりはないけれど、それ以上に、自分は兄だった。ワタルを守る為なら、感情も執着も捨てられる。薄情者とののしられても構わない。




「なんか伝えておくことはあるか?」




 背中にノワールの声が突き刺さる。

 後ろ髪を引かれる心地でミナは足を踏み締め、振り返った。




「誕生日、おめでとうって」




 うけたまわった。

 ノワールが笑った。

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