⑻紡ぐ

 決して広くは無い倉庫内に、エンジンの音が木霊こだまする。積み重ねられた段ボール箱、放置された機材、凡ゆる障害物を紙一重で躱し、ワタルの乗ったバイクは一心不乱に駆け抜ける。


 激しい動きに目が回る。翔はワタルの腰にしがみ付いたまま、衝撃をやり過ごし、運転の邪魔にならないようにと息を潜めるのに精一杯だった。


 後部座席に座って分かる。

 ワタルの運転技術が並外れて優れていること、感覚能力が野生動物並に研ぎ澄まされていること。

 息を吸うように凡ゆる情報を知覚しながら、己の体の末端まで自由自在に操り、ワタルは重力や空気抵抗を巧みに流しながら速度を上げている。


 ノワールというよく分からない襲撃者に襲われた時、一番初めに反応したのはワタルだった。反射神経が尋常じゃないのだ。怪我でもしているのか時々動きはにぶったが、それでも、翔は其処に或る男を想起せざるを得なかった。


 国家公認の殺し屋、ペリドット。

 彼は人間には不可能と思わせる身体能力で、自分やミナを追い詰めた。


 ペリドットに比べて、ワタルは常識的で、素直な人間だ。近江が言っていた。ペリドットに並ぶ身体能力の持ち主を一人だけ知っていると。


 恐らく、ワタルのことだ。

 人体には自壊を防ぐ為のリミッターというものが存在する。だが、ペリドットやワタルは、人がブレーキを踏む場面でアクセルを回し、優れた感覚能力だけで他を圧倒する。


 ワタルは、バスケットボールをやっていると言っていた。活躍しているだろう。頼りにもされているだろう。だが、競い合うという一点において、彼の才能は余りにも残酷なものだ。


 彼の前では、凡人の努力は無に帰すだろう。

 少し会っただけで悪い奴じゃないと分かったけれど、だからと言って嫉妬しないとは思えない。


 障害物には擦りもせず、ワタルは分かっていたかのように冷凍庫に向かっていた。けれど、その時。

 何処からか空気の抜けるような音がして、運転がぐらりと傾いた。


 運転が蛇行だこうし、制御を失ったバイクは段ボールの山に突っ込んだ。勢いよく翔は弾き飛ばされた。

 後輪がカラカラと虚しく鳴っている。翔が慌ててワタルに駆け寄ると、彼は脚を押さえて呻いていた。

 やはり、怪我をしていたらしい。


 こつり、と。

 革靴が床を叩く。

 闇に包まれた倉庫内で、エメラルドグリーンの双眸が猫の目のように光っていた。その手に下げられた銀色の拳銃に息を呑む。


 ノワール。

 口にはせず、翔はその名を呼んだ。

 ノワールは拳銃を下げたまま、軽薄に笑っていた。




「お前の兄貴は、もう此処にはいねぇよ」




 拳銃からは硝煙が立ち昇る。けれど、ノワールはそれを撃つ気は無いようだった。




「なんか、事情があんだろ? 家族に会いてぇって言うテメェの気持ちは分かるし、ミナも同じ気持ちだろうよ」




 潰れた段ボールの下からワタルが起き上がる。

 その目には激しい怒りが炎のように燃え上がっていた。




「お前に、関係無いだろ!」




 それは、血を吐くような叫びだった。

 兄に会いたいと、その為だけにワタルは走った。言葉も通じない異国の地で、味方の一人もいない夜の道を、ミナに会う為だけに。


 ――それでも、届かなかったというのか。


 ミナ。

 此処にいない小さな少年を思う。

 可愛い双子の弟が、怪我した体にむち打って、お前に会う為だけにこんなに必死になってんだぞ。少しくらい、顔を見せてやれよ!


 エメラルドの瞳は静かにワタルを見ていた。

 観察するような、見定めるような、懐かしむような優しい眼差しだった。




「伝言を預かってる。……誕生日、おめでとうってよ」




 誕生日だったのか。

 ミナは17歳と言っていたが、今日この日、彼は18歳になった。双子ということは、今日はワタルの誕生日でもある。そんな日に顔を見ることさえ叶わないなんて。


 ワタルは怪我をした野生動物みたいな警戒を滲ませていたが、途端、糸が切れるように肩を落とした。




「……もういい」




 そう言って、ワタルは立ち上がった。

 バイクを引き起こす気力は無いようだった。右足をかばうような不自然な動作で、静かに歩き出した。


 ノワールは何も言わなかった。ワタルの後ろ姿をただ見詰めている。それはまるで、ワタルの背中を越えて、何処か遠くを見ているようだった。









 7.ツナグ

 ⑻つむ










 空港に行くと言うので、翔は付いて行った。

 時間帯を考えると既に全ての飛行機は飛び立っただろうが、ミナに会う気が無い以上、ワタルがこの国にいる理由は無かった。


 何処か遠くでサイレンが聞こえる。

 火事か、事件か。この街はいつでもサイレンが聞こえるが、真実は報道されない。


 空港までの長い道のりを二人で歩いた。

 すっかり日本語を覚えたらしいワタルは、擦れ違う人々に奇異の目を向けられ、警察官に呼び止められても平然と日本語でやり過ごしていた。




「アンタ、家族を殺されたって言ってたな」




 ぽつりと、ワタルが言った。

 翔は心が掻き回されるような嫌な感覚に陥ったが、奥歯を噛み締めて堪えた。


 事件は報道されない。

 家族がどうして殺されなければならなかったのか、犯人も目的も分からない。どうして自分一人が生き残って、妹まで死ななければならなかったのか、納得出来る日も来ない。




「犯人が見付かったら、どうするんだ?」

「……分からない。でも、生かしてはおけない」




 ミナトは止めそうだな、とワタルは独り言みたいに言った。


 どうなんだろう。

 ミナは自分の意思で翔の復讐に加担してくれていたように見えたけれど、本当は違ったのだろうか。




「He that hurts another hurts himselfって、言うだろ」




 聞き覚えのある言葉だ。

 人を呪わば穴二つ。行いは必ず自分に返って来る。

 だけど、それでも。




「俺達の場合は、きっと穴が三つ必要になる」




 ワタルは静かに言った。




「アンタの気持ちが俺は分かるよ。ミナトが殺されたら、俺は絶対に犯人を許さない。この世で一番残酷な方法で殺す」




 その濃褐色の瞳には、青白い炎が見えた。決意や覚悟と呼ぶには余りにも苛烈で野蛮な光だった。

 復讐というものが不毛であることは知っている。それでも、彼は許さないのだろう。例え、死者がそれを望まなくても。


 終電がやって来る。ワタルは眠そうだった。

 猫みたいな目を擦りながら、ワタルは咳払いをした。そして、コートのポケットに押し込んでいた小さな白い袋を取り出した。


 白い袋は高級感の漂う不織布ふしょくふだった。

 コートを着たまま派手に立ち回ったせいか、皺が目立つ。ワタルは神経質に指先で皺を伸ばしながら、翔へそれを押し付けた。




「ミナトに渡して欲しい。誕生日プレゼントなんだ」




 受け取った感触は軽かった。詮索するのも失礼だと思い、翔は黙ってそれをポケットに入れた。




「必ず渡す」

「頼んだ」




 そう言って、ワタルは別れも告げずに駅に向かって歩き出した。俯いた背中は寂しそうだった。一目でも兄に会いたかっただろう。だが、翔にはその力も権利も無かった。何もしてやれない自分が歯痒はがゆく、遣る瀬無い。


 ワタル。

 翔が呼ぶと、ワタルは振り向いた。バスケをしている割には色白の顔が、青く見える。たまらなくなって、翔は声を上げた。




「またな!」




 翔が言うと、ワタルは僅かに笑った。

 泣き出しそうに笑う顔は、ミナにそっくりだった。彼等は双子の兄弟だ。いつか、彼等が肩を並べて笑い合えたら良い。翔にはそれを祈ることしか出来ない。


 ワタルを見送ってから、翔は携帯電話を取り出した。

 ミナから着信が入っていた。もう少し早く連絡をくれたら、ワタルは会えた。そんなことを思う度に、彼等の気持ちを踏みにじってしまっているようで、悲しかった。


 電話を掛けると、ミナは普段と同じ明るい声で応答した。怒らせてしまった朝のことが夢みたいだった。

 迎えに行くというので待っていたら、立花のBMWがやって来た。賑わう人を掻き分けて行くと、後部座席にミナが座っていた。

 翔はポケットに入れていた白い袋を手渡した。ミナが小首を傾げるので、翔は答えた。




「ワタルから、誕生日プレゼントだってよ」




 受け取ったミナは、妙な顔をした。

 虚を突かれたような、迷子みたいな幼い顔だった。瞬きも呼吸も忘れたみたいに、震える指先が袋を縛る紐を引く。指がもつれるのか、何度も失敗していた。


 こんなミナは初めて見る。

 何でも器用にこなして、どんな時も余裕の態度を崩さないあのミナが。


 小さな指先が取り出したのは、新品の腕時計だった。

 一目で高価な品と分かる。華奢きゃしゃなミナの腕には不釣り合いに見える、いかつい黒のミリタリー腕時計。ミナはそれを月の下にかざして、花がほころぶみたいに無邪気に笑った。

 頬が仄かに紅潮し、開かれた口からは歓喜の声が漏れる。嬉しいと、全身で叫んでいるみたいだった。


 翔の視線に気付くと、ミナは誤魔化すみたいに咳払いをした。翔も取り立てて追求はしなかった。兄の矜恃だ。分かる気がする。


 立花にせかされて、翔は助手席に座った。交通事故で死亡率が高いのは運転席よりも助手席だと聞いたことがある。ミナを後部座席に乗せて、翔は助手席なのだから、立花の優先順位というものは相変わらずらしい。


 フロントミラーで後部座席を盗み見ると、ミナは腕時計を宝物みたいに眺めていた。眺めるばかりで一向に腕に付けようとしないのだから、相当、気に入ったのだろう。

 ミナがこうして喜んでいるのは微笑ましいし、血腥ちなまぐさい事件があった後だ。気が安らぐ。




「ソーイングマンは何者だったんだ?」




 ふと思い出して、翔は尋ねた。

 腕時計に夢中のミナは顔も上げず、もしかしたら声も聞こえていなかったのかも知れない。

 代わりに立花が言った。




「猟奇殺人犯だよ」

「どうして、縫い合わせたんだろう」

「知らねぇよ。繋げてみたかったんだろ」




 そんなサイコホラー映画があったような気もするけれど、翔は思い出せなかった。漸く腕時計を右の手首に装着したミナが、嬉しさを隠し切れない上気した顔で言う。




「犯人は、家族や友人に恵まれなかった寂しい人だと思ったんだ。心的な繋がりを持てなかったから、遺体を繋ぎ合わせて過去の自分を救おうとした。俺は、そう考えてた」




 でも。

 ミナが言った。




「でも、違ったんだろう。繋げてみたい。それが、犯人の動機。知的好奇心の充足。……それとも」




 其処まで言って、ミナは黙ってしまった。

 立花が煙草を吸いたいと唸ったので、シガーライターに手を伸ばした。煙草の切っ先が向けられる。翔は火を点けながら、付き人みたいだなと自嘲した。




「港の方で、でかい捕物があったらしいな」




 いきなり、立花が話を変えた。

 話題の転換に付いて行けずに沈黙していると、立花は紫煙を漏らすみたいに言った。




「六人分の死体が出てる。おおやけにはならないだろうが、殺されたのは、同業者だ」




 同業者ということは、殺し屋が殺されたということか?

 何故、港に?

 一体、誰が?

 その問いに答える者はいない。


 翔は流れ行く車窓の風景を眺めた。

 世間はクリスマス。鮮やかなイルミネーションもこれで見納めだ。明日からは年末に向けた催しが始まるのだろう。

 ふと思い出して、翔はフロントミラー越しにミナを見た。




「ミナ、ごめんな」

「何のこと?」




 怒らせたことなんて欠片も覚えていないみたいだった。忘れているならそれでいい。大した話じゃない。

 横で聞いていた立花が、何かを察したように目を瞬いた。




「お前等、喧嘩でもしてたのか?」




 ミナは小難しい顔をした。本当に覚えていないのか、説明する為の和訳を考えているのか微妙なところだった。

 立花は笑っていた。

 お前と喧嘩が成立するって逆にすごいな、なんて意味深なことを吐き捨てて、立花は運転に意識を戻した。




「お前、双子の兄貴だったんだな」




 不意に思い出して問い掛けると、ミナは照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。

 何度聞いても納得出来ない。体格も性格も見た目も、ワタルの方が兄らしかった。上が破天荒だと下は真面まともに育つのだろうか。




「ワタルの面倒見てくれて、ありがとう」




 ミナは困ったように笑いながら、そんなことを言った。

 ワタルが聞いたら憤慨ふんがいしそうだ。ミナは車窓に目を向けた。その横顔は、確かに兄の顔だった。




「兄弟って不思議だねぇ。兄って、弟が産まれた瞬間から兄なんだ。ワタルは怒りそうだけど、弟が無事で笑っていたら、他のことはどうでもいいんだ」




 翔も兄だったから、それは分かる。

 例えどんな弟妹ていまいであっても、彼等が幸せなら大抵のことはどうでも良いものなのだ。ミナもきっと、そうなのだろう。


 思い返してみると、初めて会った時から、ミナはそうだった。焼き芋や肉まんを分けて食べる時は必ず大きい方を寄越したし、窮地には身を挺して守ろうとした。あれは、兄として生まれ持った性質なのかも知れない。




「家族が大切だ。家族を守る為なら、俺は何でも出来る」

「……弟にも、伝わってると良いな」

「うん」




 ミナは眠いのか、シートに凭れていた。初めて出会った時は本当に可愛らしい女の子に見えたけれど、今では不器用な兄に見える。トリックアートみたいに不思議だった。




「……なんだろうね、俺達は」




 譫言うわごとみたいな掠れ声で、ミナが言った。返事を求めているようではない。


 もうすぐ事務所に到着するが、その頃まで起きていられるのだろうか。翔がフロントミラーで見遣ると、ミナは重そうな瞼を押し上げながら、ぽつりと言った。




「レンジもショウも、家族みたいだ……」




 血も繋がっていないのにね。

 それだけ言って、ミナの瞼は閉ざされた。


 此方の反応も構わず、言いたいことを言って勝手に寝てしまった。弟の苦労が想像出来る。だけど、構わなかった。


 穏やかな寝息が聞こえる。手首に装着した腕時計を大切そうに抱いて眠る姿が幼く見えて、文句の一つも言う気が失せた。


 家族。

 もう二度と戻らないと思っていた。死んだ人間は生き返らないし、時間は戻らない。だけど、失われても、また希望の光が何処かから顔を出す。


 胸の中に小さな火がぽっと灯って、温かくなる。深い谷底に一本のロープが投げ込まれたみたいだった。

 翔は横目に立花を見遣ったが、いつも通りの鉄面皮だった。けれど、きっとミナの言葉は届いただろう。


 微温湯みたいな空気が漂う。けれど、不快ではない。

 BMWが事務所の前に到着する。すっかり寝入ってしまったミナを、翔が背負った。いつかもこうしてミナを背負って歩いたことを思い出し、懐かしいような、泣きたいような奇妙な心地だった。

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