⑹弟の意地

 ミナは呆然としていた。

 頭の中が真っ白で何も手に付かない。こんなことは初めてだった。

 通話の叩き切られた携帯電話を眺め、其処から確かに聞こえた兄弟の声に焦燥しょうそうを抱いた。


 現実が想像を超えて来る可能性――。

 いつか友に言われた言葉が脳裏に過ぎった。腹を抱えて笑い出したいような、泣き叫びたいような相反する気持ちに揺られ、満足に現状の把握も出来ない。




「すげぇ怒ってたな。誰だ?」




 立花の眉間にしわが寄る。其処でミナの意識は漸く現実に回帰した。


 ミナは携帯電話をポケットに押し込み、よく分からない状況に溜息を吐いた。




「俺の弟」

「弟? 何でこの国に?」




 そんなの、俺が訊きたい。

 ミナは額を押さえた。どういう状況なのだ。ワタルが来日するなんて聞いていないし、どうして翔と一緒にいるのだろう。


 家族とは連絡を取り合わない約束だった。

 無意味な接触は家族を危険にさらす。ミナが自分の身を守れるようになるまで、家族とは会わない。――そのはずだったのに。


 立花は知らなかったようだった。

 ワタルは衝動的に行動するタイプじゃない。手引きした人間がいるはずだ。


 そういえば、翔が何か言っていたな。

 近江さんが、クリスマスプレゼントをくれるって。


 ミナは顔を上げた。駅前の商業ビルに設置されたデジタル時計は、午前零時を告げている。クリスマスイブは終わり、当日がやって来た。


 そうか、クリスマス――。

 色々なことがに落ちて、ミナは自嘲じちょうして俯いた。


 キリスト教の家系じゃなかった。家族でクリスマスを祝ったことは無い。それでも、食卓にはご馳走が並んだし、プレゼントを貰った。


 クリスマスは、ミナとワタルの誕生日だったから。


 立花の仕事に関わって、翔と出会って、ペリドットに襲われて、色々なことがあって、忘れていた。

 首から下げていたネックレスに触れる。父が中東で発掘したという天然石を加工したのだ。弟とお揃いだった。


 瞼の裏に蘇る。

 母国にいた頃、二人でバスケットボールをした。早朝はジョギング、晴れの日はツーリング。雨の日は読書して、ずっと一緒だった。




「会うのか?」

「……」




 立花に問われ、ミナは返事を迷った。

 会いたいかと問われたなら、当たり前だと言った。でも、今はその時じゃない。今の自分は弟を守れる程の力を持っていないし、この世界に巻き込むのは嫌だ。


 会いたいと切に思う。ワタルは双子の弟だ。産まれる前からずっと一緒だった。

 弟が、家族が大切だ。笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。彼等の進む道に転がる一粒の石だって拾ってやりたい。例え、自分が側にいられなくても。


 その為に出来ること。




「今はまだその時じゃない」




 立花は笑った。

 何でもかんでも救える訳じゃないし、守れるとも思わない。ならばせめて、目に見える脅威くらいは取り除いてやりたい。


 GPSを確認すると、物凄い速さで此方に近付いていることが分かる。移動手段は何だろう。まさか、バイクか?

 電源を落とすのは悪手だ。何かあった時に助けに行けないので、此方からの通知だけ切っておいた。後々怒られそうだな、と考えることすら愉快だった。


 立花が愛車のBMWを持ち出して来たので、ミナは後部座席に乗った。助手席よりも後部座席の方が生存率が高く、ミナもノートPCの操作がし易かった。

 カーナビが間抜けな音を鳴らして点灯する。立花は片手で画面をいじると、ミナに案内するように言い付けた。


 渋滞しやすい大通りを避け、GPSを確認しながら目的地を目指す。並行してソーイングマンの情報も整理した。


 犯人は恐らく、単独犯、男性。或る程度の自由が利くところを考えると一人暮らしをしているのかも知れない。親しい友人や家族はいない。トラックの運転が可能で、街を知り尽くしている。


 犯人の狩場は何処だ。

 ターゲットをどうやって選んでいる。

 考えろ、考えろ。


 ミナは爪を噛んだ。指先に痛みを感じて我に帰る。親指の爪が割れていた。携帯電話のアラームが鳴って、翔とワタルの接近に気付く。


 地図を表示して位置を確認しようとした時、ドアの向こうから鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。窓硝子の向こう、見たこともない単車が並走している。


 からすみたいに真っ黒の車体は、カウルに覆われていかめしい顔付きに見える。バイクには詳しくないのでよく分からないが、運転手を見た時、息が止まるかと思った。




「ワタル……!」




 首に引っ掛けただけの半帽、風に泳ぐ黒のロングコート。

 短く切り揃えた髪は風でぐちゃぐちゃに乱れているが、その眼光ばかりがやけに鋭い。釣り上がった眉と引き結んだ口元は、怒りをこらえているようだった。




「どうしたい?」




 前を向いたまま、立花が言った。

 ワタルの暴挙を見た他の一般車両が距離を取る。単車の後部座席に座った翔はフルフェイスのヘルメットだったので表情はよく見えないが、手を振る余裕も無いだろう。




「このままでいい」




 身を乗り出して、カーナビを操作する。この先の道は一車線になる。並走出来なければ前後に回り込むしかない。




「前に行かせないで」




 ミナの意図を理解したらしく、立花は頷いた。

 道路の先を見たワタルが速度を落とす。フロントミラーに映る双子の弟は、苦渋に満ちた顔をしていた。車間距離を長めに取っているのは、バックギアで衝突されない為だろう。暫く一車線の道が続く。


 この先は踏切がある。其処で引き離せるかも知れない。

 街の監視カメラ映像をハッキングして、タイミングを測った。立花は口角を釣り上げて笑っている。


 ミナは後ろを振り返った。

 濃褐色の瞳が此方を見ている。射抜くような鋭い眼差しは真夏の太陽を思わせた。


 踏切が迫る。

 深夜にも関わらず道は車で埋め尽くされている。警報機が木霊こだまし、遮断機が降りて来る。間に合わない。




「捕まっとけよォ!」




 立花が言った。

 アクセルが勢いよく踏み込まれ、車体は歩道と車道の隙間を傾きながら走り出した。甲高い急ブレーキの音と悲鳴、動揺。電車の擦過音が近付いている。


 遮断機が降りる寸前を滑り込むように、BMWが走り抜けた。すぐ後ろを電車が通過する。間一髪だった。

 ミナはほっと胸を撫で下ろし、すぐ様、次へ切り替える。携帯電話を片手に地図を確認する。頭の中では目的地までの経路と時間を考えていた。ミナが俯いて計算を始めた時、立花が言った。




「あれは無理だな」




 はっとして顔を上げる。

 獣の咆哮ほうこうを思わせる排気音が轟いて、ミナは思わず振り向いた。リアガラスの向こう、真っ黒い車体が月光を遮って浮かんでいた。ミナは暫し呼吸を忘れ、その非現実的な光景を眺めていた。


 後輪から着地した単車が唸りを上げる。

 弟の瞳が好戦的に輝いている。体中から力が抜けてしまい、ミナはシートに凭れ掛かった。




「どうする?」




 言いながら、立花は車を路肩に寄せた。

 道の入り組んだ市街地で、あのバイクを躱すのは無理だ。ミナは溜息を吐き出して、シートベルトを外した。


 さて、どうしようか。

 縋るように見遣ったが、立花は振り返りもしなかった。









 7.ツナグ

 ⑹弟の意地








 見慣れた黒のBMWが風のように踏切を駆け抜けた。警報機の音が頭の上から降り注ぐ。遮断機の落下がスローモーションに見えた。


 その時、やられたと思った。

 翔はバイクの後部座席に座りながら、今にも飛び出しそうな体を懸命に押さえ込んだ。


 BMWが車体を傾けて渋滞する車両を避けて行く様は圧巻だった。その先で踏切を擦り抜けて行ったので、もう追い掛けることは物理的に不可能だった。――だが、ワタルは構うことなくアクセルを全開にした。そのまま踏切手前で停まる車体を踏台にして、通過する電車を飛び越えて行ったのだった。


 浮遊感に胃の中が引っ繰り返るようだった。着地するまでが異様に長く感じられた。

 ワタルはそのまま走り出そうとしたが、BMWは路肩に寄せて停車していた。運転席から立花が降りて来る。嵐の前みたいな無表情だった。


 バイクはゆっくりと進行し、BMWのすぐ後ろに停まった。




「何でお前が此処にいるんだ?」




 低く尋ねるその声は、問い掛けというよりも恫喝だった。

 片足を地面に着いたまま、ワタルは口を開いた。




「家族に会うのに、理由がいるのかよ」




 辿々しい日本語で、ワタルが言い返す。語尾が微かに震えていた。立花から漏れ出すそれは怒気より殺意に近く、胸が痛いくらいだった。普通に生きていて触れるようなものではない。




「お前が首を突っ込むことで、余計な手間が増えるんだ。お前が勝手なことをすれば、家族が危険に晒されるんだぞ」

「……ミナトは何処だ」

「先に降りた」




 その言葉の通り、車の中には誰もいなかった。

 バイクが着地してから立花の車に向かうまでの僅かな時間に脱出し、逃げたのだろう。それなら、まだ遠くには行っていないはずだ。


 今なら追い掛けることが出来る。

 だが、翔にはそれを提案出来なかった。


 家族に会いたいと、ワタルがこれだけ懸命に追い掛けているのに、ミナは顔も合わせようとしない。其処には自分が立ち入れぬ理由や事情がある。


 立花は懐からシガレットケースを取り出した。

 日常的に銃器を使用し、他人の命を奪って来た指先が煙草を摘み上げる。




「ミナは、今はお前に会わねぇって言ってたぞ。俺も居場所を教えるつもりはねぇ」

「……」

「俺はミナの意思を尊重する。邪魔するなら、お前は俺の敵だ」




 煙草に火を点ける、やけに絵になる男だった。

 翔は何を言うべきか迷った。家族に会いたい。それはミナもワタルも同じはずだ。けれど、こうしてミナが避けている状況を考えると、何もするべきではない。




「一度離れたら、また会えるとは限らねぇ」




 絞り出すような声で、ワタルはそんなことを言った。

 その意味が分からない程、翔は薄情ではなかった。




「ミナは絶対に死なせねぇ。約束する」




 相手の言葉も聞かずに一方的に約束して、翔は立花を見た。煙草をくゆらせる金色の瞳に揺らぎは一つも無い。彼の中の優先順位は決まっていて、それは他の誰にも変えられないものだと思い知る。


 それでも。




「俺がミナを迎えに行く。俺の大切な御主人様だ。この契約にアンタは関係無い。――家族が会いてぇって言ってんのに、他人に止める権利は無ぇだろ」




 立花は何も言わなかった。

 無言。それこそが、肯定の証左しょうさだと考える。




「ミナは何処に行った。何に巻き込まれてる」




 立花は暫し煙草をくわえて黙っていたが、紫煙と共に溜息を吐いた。




「……この界隈で、ソーイングマンって呼ばれてる殺人鬼がいる。そいつを追ってんだ」

「ソーイングマン?」




 知らない名前だ。

 立花もミナも、情報を得る為の独自のパイプを持っている。




「被害者を殺して手首を縫うんだ。そいつを狙って大勢の殺し屋がこの街に集まってる。俺とミナは、そいつを殺す為に動いてる」




 とんでもない話が飛び出して来たが、驚いている暇は無かった。自棄やけになったように語った立花は、短くなった煙草を足元に落として踏みにじった。




「そいつの隠れ家を探してたんだ。テメェ等が来なきゃ、ミナと二人で行くはずだった」




 つまり、ミナは今、一人で殺人犯の元に向かっていると言うことだろうか。とんでもなく不穏で物騒な状況だ。




「その殺人鬼には懸賞金が掛けられている。駆け出しの殺し屋は名を売るチャンスだし、警察組織からの謝礼も受けるだろう。参加しない手はねぇ」

「……だからって、ミナを巻き込んだのかよ」




 翔が低く問い掛けると、立花は二本目の煙草を取り出して火を点けた。




「それがあいつの仕事だ」




 翔は両眼をぎゅっと閉じて、感情の波が通り過ぎるのを待った。

 分かっている。ミナは殺し屋の事務員だ。立花が望めばそれに応える。だけど、危険じゃないか。


 自分達が追跡しなければ、立花とミナは一緒に危険な場所に身を投じたのだろう。それはミナが単独で動くよりも安全だ。

 それでも、ミナは単独行動を起こした。何故か。ワタルを、巻き込みたくなかったからだ。


 ミナがどれだけ弟を、家族を大切にしているか分かる。




「犯人の居処は掴んでんのか?」




 それまで沈黙していたワタルが、スイッチを切り替えるみたいに冷静に問い掛ける。立花は隠し事をするつもりは無いようだった。




「幾つか絞ったみたいだが、どれも決定打に欠ける。俺達はそれを虱潰しらみつぶしに探すつもりだった」




 用意周到な彼等には珍しいことだ。

 とは言え、ソーイングマンなんて翔は聞いたことも無い。思い出されるのは、路地裏で見掛けた二人組の死体。まさか、あれもソーイングマンの仕業だと言うのだろうか。




「死体を見たよ」




 ワタルが言った。同じことを考えたらしい。

 濃褐色の瞳と視線が交差する。翔は頷いた。




「その時、変な男に襲われた」

「……変な男?」




 立花が眉を下げる。

 あの時、頭の上から降って来た襲撃者――ノワール。

 エメラルドグリーンの瞳をしたあの男は、普通じゃなかった。野生動物みたいな身のこなしは、まるで、国家公認の殺し屋、ペリドットを彷彿ほうふつとさせた。


 まさか、あれが?

 翔の中で疑問が浮かぶ。慣れたように拳銃を握っていたし、此方を殺すつもりだった。しかも、笑っていたのだ。


 ソーイングマンという異常者。無関係とは、考え難い。


 ワタルは暫し口を噤んだかと思うと、何も言わずにバイクのエンジンを掛けた。夜の街に排気音が木霊こだまする。




「ミナトを追い掛ける」

「お前、場所が分かってんのか?」




 立花は口を割らないだろうし、自分達に情報を得る手段は無い。けれど、ワタルはまるで、ミナトの居場所が初めから分かっているみたいだった。

 バイクで追い掛けている時もそうだった。地図もGPSも無く、立花のBMWまで追い付いてみせた。


 発信器でも付けているのか。

 翔は自分の携帯電話を確認するが、ミナの通知は消えている。電源が切られているのかも知れない。




「俺達は双子だぜ。ミナトのことなら、産まれる前から知ってる」




 それは双子のシンパシーとでも言うのだろうか。

 ワタルは答えない。エンジンの音が夜の街に響き渡る。立花はふん、と鼻を鳴らすと運転席に乗り込んだ。

 翔は溜息を呑み込み、ヘルメットを被り直した。




「俺も行く」




 バイクに跨ったワタルが、顎先で後部座席を指し示す。翔は片手を突いて乗り込んだ。


 世の中はクリスマスだと言うのに、どうして自分達は頭のおかしい殺人鬼を追い掛けているのだろう。


 緩やかな初動を感じながら、サイドミラー越しに後ろを見遣る。BMWに寄り掛かった立花が、つまらなそうに煙草を吸っていた。

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