⑹サラブレッド

 事務所内は濃厚な血の臭いが充満している。足元に転がる男達は血塗れだった。翔が倒した男は顔面がぐちゃぐちゃに潰れていたし、玄関先で立花が撃った男も生きてはいない。


 地獄絵図だ。そんな中に現れた幸村は、部屋の状況を見て絶句していた。




「……警察に、」

「待て」




 立花が真顔で制止する。

 砂漠の夜みたいな乾き切った冷たい声だった。

 肩を跳ねさせた幸村に、銃口が向けられた。逃走も抵抗も無意味に感じさせる程の慣れた動作だった。


 指先が引き金を引き絞る。

 金色の瞳は伽藍堂がらんどうだった。人を殺すことに何の躊躇も迷いも無い。刹那、ミナが叫んだ。




「Stop!!」




 脇腹を押さえながら、ミナが掠れた声で訴える。

 ひり付くような緊張感の中で、ミナは慎重に言葉を選んでいるようだった。




「……幸村さん、どうして此処に」




 英語で取りつくろう余裕も無い。

 ミナは幸村を助ける理由を探している。立花を納得させることが出来るだけの信頼に足る理由を。


 幸村の手は震えていた。銃口を向けられて平然としていられる人間なんて殆どいないだろう。




「事務をしてたら、銃声が聞こえて……。ミナちゃんが心配だったから……」




 痛みをこらえるみたいに、ミナの顔が歪んだ。

 幸村の仕事場は隣だ。こんな時間まで仕事をしていたせいで、銃声を聞いて、駆け付けてくれたのだ。


 傷が痛むのか、ミナは覚束無おぼつかない足取りで幸村の前に立った。

 背中に幸村を庇い、ミナが立花に向き合う。




「お願いだ、レンジ……」




 殺さないで。

 絞り出すような声だった。庇われた幸村は、何かを察したように目を丸くしていた。




「馬鹿か、お前」




 呆れ切ったように、立花が吐き捨てた。




「何か勘違いしているようだな。俺が甘やかしたせいか?」




 立花は銃を下さなかった。




「どんな世界にもルールは存在する。……従え、ミナ」




 目撃者を生かしておく理由は無い。例え、懇意こんいにしている弁護士であっても。


 ミナが拳を握った。




「ルールに従っても、ルールは俺達を守ってくれない」

「だから、俺に折れろと? 無意味なリスクを背負えと?」




 立花には幸村を生かす理由が無い。心音ここねの時とは違うのだ。幸村を生かしておくことは立花にとって不利益になる。そのリスクを背負うのは、ミナも同じはずだ。


 けれど、ミナも譲らなかった。幸村に背中を晒し、両腕を広げてはっきりと言った。




「俺が巻き込んだ。罰なら俺が受ける」

「はっ。テメェに何が背負えるって?」




 侮蔑ぶべつするように、立花はわらった。

 金色の瞳は目の前のミナを睨んでいるのに、翔にはそれが、鏡に映した自分を見ているように感じられた。




「何でもかんでも救えばいいってもんじゃねぇぞ!」




 ミナは目の前で助けを求める人がいるならば、自身の身もかえりみず手を伸ばす。そうして翔は救われたし、尊敬もしている。だけど、これは駄目だ。立花が正しい。




「命の価値を履き違えるな!!」




 立花の叫びが木霊こだました。ビリビリと震える室内の空気は、まるで泣いているようだった。

 誰も何も発せない沈黙が流れ出す。膠着こうちゃく状態に陥った時、いつも折れるのはミナだった。

 ミナが引き下がらない以上、話が纏まるはずも無い。翔は一歩進み出て、ミナの横に立った。立花が忌々しげに目を細める。




「番犬風情がしゃしゃり出て来るんじゃねぇ」

「ご主人様のピンチだ。出て来ない理由が無い」




 立花の顔が苦渋に歪む。

 翔は背中に庇った幸村を見た。荒れ果てた事務所内と緊迫する空気に、すっかり顔色を失くしている。




「訊きたいことがある」




 翔は銃殺された男の場にしゃがみ込み、顔を隠すマスクを外した。半開きの瞼に瞳孔は開き切っていて、肌はゴムみたいな不気味な質感だった。煙草のやにで黄ばんだ歯列、乾燥した唇。年の頃は四十代半ばくらいだろうか。何処にでもいそうな男に見えた。


 背中で、幸村が息を呑んだ。




「知り合い……?」




 恐る恐ると、ミナが問い掛ける。

 幸村は頷いた。絶命した男を見下ろして、幸村は信じ難い光景を目の当たりにしたみたいに言葉を失くしていた。




「……検事をしていた頃の、知り合い」




 幸村はそう言うと、口元を結んだ。

 僅かに伏せられた目に、決意のような鋭い光が滲むのが見える。そして、顔を上げた時には、既に迷いも躊躇いも無かった。




「私を殺したいなら、やればいいわ。この人達がやろうとしたようにね」




 その言葉で、翔は事の経緯を確信した。

 襲撃犯の狙いは幸村だった。隣のビルと間違えて来た。ただ、それだけのこと。

 けれど、間違えて来なければ、幸村は成す術無く殺されていたのだろう。




「ミナちゃん、庇ってくれてありがとう。でも、いいの。責任は自分で取る」




 この世は因果応報だ。過去の幸村に何があったのかなんて知らないが、罪には罰が下る。それを肩代わりすることなんて誰にも出来はしない。


 幸村は銃口の前に進み出た。逃げもせず、まるで断罪を受け入れるかのように。


 ミナが飛び出そうとしたので、翔は押さえ込んだ。

 縋るような視線が痛かった。まるで、いつかの自分を見ているようだ。


 耳が痛くなる程の静寂は、不意に破られた。

 それは幽霊のように足音も気配も無く、まるで、初めから其処にいたかのように。




「何だか、面白いことになってんじゃねぇか」




 そう言って皮肉っぽく笑ったのは、夕刻に現れた先代ハヤブサ、近江哲哉だった。










 6.フィクサー

 ⑹サラブレッド









 近江哲哉は検分でもするかのように室内を見て、興味深そうに頷いた。突然の侵入者に誰も反応出来なかった。




「まあ、いつかはこうなると思ってたよ」




 余裕の態度を崩さず、近江は飄々ひょうひょうと言った。

 立花がいつも座っているデスク周りを見渡して、割れた灰皿を見るとその目は少しだけ細められた。そのまま立花、幸村、翔、ミナを順繰じゅんぐりに見遣ると、溜息を吐いた。




「お前は、どうして庇う?」




 近江が言った。

 その様は呑気な老人のようであり、嘘偽うそいつわりを許さない冷酷な裁判官にも似ている。




「幸村さんは、」




 ミナにしては珍しく、歯切れの悪い口調だった。




「幸村さんは銃声を聞き付けて、危険も顧みずに丸腰で助けに来てくれた。そんな人を見殺しにして笑っていられる程、俺は割り切って生きてない」

「だから、ガキなんだ」




 近江が小馬鹿にするように笑ったが、ミナは言い返さなかった。対峙する立花の視線はナイフのように鋭く、凡ゆる弁解を許していない。




「いいか、クソガキ。どんな世界にもルールはある。それを破れば制裁を受ける。お前が受けられる制裁は何だ? その嬢ちゃんの代わりに死ぬか?」

「ふざけんな」




 流石に黙っていられなくて、翔は前に進み出た。

 立花や近江の言うことは納得出来る。だが、ミナの気持ちだって分かる。


 ミナが死ぬくらいなら、自分が幸村を殺す。

 例えそれで恨まれても、ミナが死ぬよりずっとマシだ。




「なあ、蓮治」




 唐突に、近江が立花を呼んだ。




「どうして、迷う?」




 翔は立花を見た。

 不思議な感覚だった。師匠とも呼ぶべき先代が目の前にいるせいか、銃口を向けた立花が今は子供のように見える。




「どうして、すぐに殺さなかった? 昔から言ってんだろ。その銃は飾りじゃねぇ。脅しに使うなってよ」

「……うるせぇ。俺が此処でその女を殺したら、それでお終いだ」

「そんな生温いことばっかやってるから、ペリドットも取り逃すんだよ」




 生温い。そうだろうか。

 立花の歩み寄りが甘さと評されてしまうのは、何だか悲しかった。ペリドットを逃したのは立花の落ち度ではないし、幸村が来てしまったのは不運だった。


 けれど、師弟関係を思わせる二人の遣り取りに口を挟めるはずも無かった。呼吸すら躊躇うような膠着状態の最中、沈黙を破ったのはミナだった。




「レンジはちゃんとしてる」




 場にそぐわないつたない口調で、ミナが言う。




「俺はルールを軽んじているつもりは無い。でも、どんなことにも例外は起こる。イレギュラーを対処する方法は、処分することだけじゃないはずだ」

「……どうあっても、その嬢ちゃんを生かしたいみたいだな」




 投げ遣りに、近江が言った。

 幸村は嬢ちゃんと呼ぶにはいささか年を重ねているようにも見えるけれど、近江にしてみれば誰も彼も若者なのだろう。




「失うのは、もう嫌だ」




 子供の我儘わがままみたいに、ミナが言った。

 その瞬間、室内に充満していた圧迫感が消え失せた。銃口を向けていた立花は一瞬、ほうけた顔をして、少しだけ笑った。




「近江さん、俺は選ぶよ」

「……何を」

「その女は、今は殺さない。この選択が間違っていたなら、俺はその女とミナを殺して、アンタに首を差し出す」




 どうして、其処までする必要がある。

 目撃者の幸村を殺して終わる話だった。それを、ミナが我儘で生かすと言って、その責任を立花が背負うという。




「ミナが信じるなら、俺も信じる」




 近江は声を上げて笑った。

 何がおかしいのか分からない。目尻に涙すら浮かべて、腹を抱える近江はとても元殺し屋には見えない。




「いいだろう。やってみろ。……地獄に咲く花だったか? 俺も見てみたくなった」




 近江は幸村を見遣ると、放逐するように手を振った。




「分かっちゃいるとは思うが、今回の件は他言無用だ。死体は俺が片付けてやるが、銃口はいつでもお前の方を向いている。それを忘れんじゃねぇぞ」




 明確な殺意を込めて、近江が凄む。地を這うような恫喝は其処等の不良少年やヤクザでは出せない年季の入った凄みがあり、まるで眉間に銃口でも押し当てられているみたいだった。


 幸村は金縛かなしばりに遭ったかのように硬直していたが、一歩、後退るとミナを見た。彼女とミナの間には越えることの出来ない断崖絶壁の境界線があった。




「送るよ。夜は物騒だから」




 近江の視線から守るようにミナは身を滑り込ませると、その背を押して事務所を出て行った。追い掛けるべきだったのだろうか。だが、今の立花と近江を二人きりにするのも不安だった。


 幸村とミナがいなくなると、事務所は異様な静けさに包まれた。まるで、日没後の世界みたいだ。翔はブラインドの隙間から、建物を出るミナと幸村を見届けた。寄り道も回り道もせず、真っ直ぐに隣のビルに向かっている。何か話しているのかも知れないが、此処からでは分からない。


 なあ。

 回転椅子に腰を下ろした近江が言った。




「フィクサーって知ってるか?」




 知らない単語だ。

 補足を求めて立花を見遣ると、丁度煙草に火を点けたところだった。ライターの小さな火を片手で守りながら着火する姿は、洋画のように様になっている。




「世界を牛耳ぎゅうじる裏の重鎮じゅうちん。それがフィクサー」




 ミナの話は前置きが長いが、立花の話は端的でよく分からない。足して2で割れば丁度良いのに。

 翔の不満を察したように、近江が言った。




「この世界は幾つかの階層に分かれている。貧富、身分、人種、報道、IQ、軍事。それぞれに君臨者がいる。だが、そいつ等は決して表舞台には出て来ないし、悟らせない。暗殺の危険が常に付き纏う。そういう存在だ」




 言ってしまえば、それは表舞台で見る権力者よりも高い地位に存在する人間なのだろう。どうしたらそうなれるのか検討すら付かない。




「あのガキはフィクサーの孫だ」




 立花は既知の情報だったのか、驚いた様子も無かった。

 同様に、翔も静かに受け止めていた。ミナが只者ただものじゃないことは分かっていたし、実は大統領の息子だと言われても納得したかも知れない。




「その上、父親は第三次世界大戦を未然に防いだ正真正銘の英雄だ。サラブレッドと言えば聞こえはいいが、17歳のガキに背負えるもんじゃねぇ」




 暗殺の危険があると、近江は言っていた。

 だから、ミナは故郷を離れてこの事務所に隠れ住んでいるというのだろうか。家族にも会えず、満足に言葉も通じない異国の地で独りきりで。




「あのガキにどのくらいの価値があるのか、俺には測れねぇ。だが、世界中の権力者が喉から手が出る程に欲しがる最高のカードだ。他人の嘘を100%の精度で見抜けるなんて反則級の能力まで持ってる」




 その能力にどれ程の価値があるのか翔には分からないが、悪用したいと考えるろくでなしは腐る程にいるのだろう。

 近江は懐から煙草を取り出した。立花と同じ銘柄のそれは、くしゃくしゃのソフトケースだった。




「若い頃、あいつの親父に助けられたことがある。俺が殺し屋だって知りながら、死にかけていたからって助けてくれたんだ。……御人好おひとよしの家系なのさ」




 煙草の切っ先を火であぶりながら、近江は言った。

 小さな火に照らされた近江の横顔は、まるでもう戻らない過去を懐かしんでいるようだった。




「あのガキを生かすのは、未来への投資なのさ。あいつが何を成し遂げるのか、最後まで見届けろ。決断はその時でも遅くない」




 その言葉で、近江が此処に現れた理由を理解した。

 仲裁するつもりだったのだ。幸村を助ける為ではなく、立花とミナの間にあるみぞを埋める為に。


 煙草を半分程吸い終えると、近江は割れた灰皿にそれを押し付けた。紫煙の臭いが血に混じり、頭が痛くなる。

 近江は立ち上がると、翔を見た。その黒々とした瞳には一切の迷いも容赦も無い。念押しするみたいに、近江は言った。




「しっかり守れよ、番犬」

「言われなくても」

「あいつの家系は、受けた恩を忘れない」

「どっちが犬か、分かんねぇな」




 翔が言えば、近江は笑った。

 そして、部屋の状態を改めて観察してから、携帯電話を取り出した。此方に背中を向けて、業務連絡みたいな短い遣り取りをしていた。死体や血の処理をしてくれるのだろう。流石に先代というだけあって、顔が広いのかも知れない。


 ふと、気付く。

 ミナは切り札が欲しいと言っていた。そして、今日は大阪まで行って笹森とさかずきみ交わした。弁護士の幸村を生かしたことも、警官の桜田と仲良くしていることも、全ては一つの目的に帰結しているのではないかと。


 世界と戦うカードが欲しい。

 その為に、今のミナに出来ること。それは、――コネクションの確立。


 17歳の子供が家族を守る為に海を渡って、味方の一人もいない異国で、たった独りきりで。

 自己憐憫するような性格ではないだろうが、葛藤も迷いもあっただろう。それ等を全て押し殺して、銃口の前にすら立ち塞がる覚悟がある。


 それでも、翔にはそれが悲しかった。

 親に愛されて、守られていて欲しかった。何不自由無く、平和な世界で生きていられたなら、それだけで。


 自分達には言葉が足りない。仲良しこよしなんてするつもりは無いけれど、今のままじゃ何も守れない。




「番犬、俺の連絡先を教えてやるよ」




 そう言って、いつの間に掠め取ったのか近江は翔の携帯電話を手にしていた。目にも止まらぬ指捌ゆびさばきで連絡先を打ち込むと、ぞんざいに放り投げて返した。危うく落とすところだ。


 翔が睨むと、近江はへらへらと笑った。立花が時折見せる、悪戯っ子みたいな笑顔だった。




「何かあったら、連絡しろ。助けてやるから」




 番号の記された電話帳を眺めて、翔は頷いた。

 近い未来、この番号が役に立つ日が来るのだろう。願わくば、それが自分や立花、ミナにとって明るい未来の為であるようにと拳を握る。


 近江は別れの挨拶もせず、いつの間にか消え失せていた。

 放心したように立花が壁に寄り掛かる。その姿は、これまで見て来たどんな彼よりもはかなく、人間らしく見えた。

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