⑸信頼の対価
目が覚めたと言って、ミナが給湯室に消えた。
時刻は午前一時。閑静な住宅地にある事務所は、まるで水中みたいに静かだった。
ブラインドカーテンの隙間から窓の外を眺める。寝静まった街中には通行する車の一台も見掛けられなかった。暖房のせいか窓は薄く曇っている。
給湯室では電気ケトルの稼働する音がした。
ハーブティーでも淹れてくれるのだろう。翔はソファに腰を下ろし、今日の出来事を振り返った。
幸村の事務所に行って、新幹線で大阪へ。
ヤクザの笹森と出会って、ミナが盃を酌み交わした。
帰って来てみると立花はおらず、代わりに先代のハヤブサがいて、意味深なことを言い残して消えた。
色々なことが有り過ぎて、理解は早々に諦めた。
だが、新幹線の中でミナが家族の話をしてくれたことが嬉しかった。どうして話してくれる気になったのかは分からないけれど、彼の信頼に応えられているのならば、良かったと思う。
二人分のマグカップを持って来たミナが、翔の隣に座った。眼球が転がり落ちるのではないかと思うくらい大きな目が、今は半分くらいしか開いていない。目が覚めたなんて嘘だろう。
マグカップを手渡される。
シンプルなカモミールのハーブティーだった。
「調査報告をさせて欲しい」
マグカップを両手で包みながら、ミナが言った。他愛もない世間話をする
「レンジには口止めされてる。でも、ショウを信じるから、俺の判断で話す」
その意味が分からない程、馬鹿じゃない。
信頼を裏切るなと言っているのだ。翔は努めて冷静に返事をした。
「ミア・ハミルトンが警察庁の機密データをハッキングした。その中に気になる情報があったんだ」
「……警察庁?」
「そう。今から三年前、或る警察官の一家が惨殺されている。捜査資料は残っているけど、偽物だ。捜査はされていない」
何だろう。
聞くのが怖い。周りの空気すら冷たい気がする。
「殺されたのは、父親と母親、それから娘が一人。この家族にはもう一人息子がいた。学校の成績や態度は普通で、大きな問題を起こしたこともない。でも、フルコンタクト空手をやっていて、大会で入賞してる」
手の平に汗が滲んだ。
脈が早くなっていると、自分で分かる。今にも足下が抜けて、奈落の底まで落ちて行くような気さえした。
「名前は、
神谷翔太……。何だろう、嫌な感じがする。
自分の名前は神田翔。別人だ。そう思うのに、笑って一蹴出来ないのは何故なんだろう。
お兄ちゃん。
誰かの声がする。真っ赤に染まった家の情景が瞼の裏に浮かび、視界がぐらりと傾いた。見下ろす己の両手は赤かった。誰か倒れてる。親父と、お袋。それから――。
人は死んだら、何処へ行くの?
鈴のような涼しげな声が耳の奥に蘇る。夕暮れの河川敷、しゃがみ込む誰かの背中を見ていた。煌く水面、青い芝生。夕焼け雲が
人は死んだら、何処へ行くの?
あれは、誰だ。
見下ろす背中は小さかった。黒髪にサイドテール。黄色いシュシュは、俺が買ってやった。誕生日プレゼントだった。
「ショウ」
意識が急浮上する。それは水底から引き上げられる瞬間に似ていた。酸素が枯渇して息苦しい。
拍動は耳の側で聞こえた。目の前で、ミナが見詰めていた。少女のような容姿で、濃褐色の瞳ばかりがやけに鋭い。何かを見定めようとしているみたいだった。
「人は、死んだら何処へ行くんだ……?」
不意に言葉が溢れた。
ミナは眉一つ動かさなかった。
記憶が引き摺られる。小さな背中が振り向いて、捨てられた子犬みたいな眼差しが此方を見た。
背中越しに見えるのは、小鳥の
あの時、俺は何て答えたんだ?
小鳥の死骸を前に
「俺は死後の世界を信じていない」
切れ味の良い刃物みたいに、ミナが容赦無く切り捨てた。その瞬間、過去と現実が切り替わる音が聞こえた気がした。
走馬灯のような記憶は遠去かり、目の前のミナが太陽のような強烈な存在感を放っている。
「何か、思い出した?」
「……妹、が」
「うん。名前は、思い出せる?」
「名前……」
頭が痛い。
名前は、何だ。俺は妹を、何と呼んでいたんだ。
妹の名前は。
「……
指の隙間から砂が零れ落ちるみたいに、翔はその名を呼んでいた。ミナは仮面のような完璧な無表情だった。
「殺された警察官の娘の名前は、
神谷砂月。
その瞬間、叫び出したいような、手当たり次第に殴り掛かりたいような凶暴な感情が湧き上がった。握ったソファが悲鳴を上げる。
「俺の情報を
「……でも、嘘じゃないんだろ」
「そんな嘘を吐く人間に見えるの」
「いや」
翔は首を振った。
ミナが嘘を吐く理由も、意味も無かった。
翔は腹に力を込めた。
「俺が殺したのか……?」
あの血塗れの家は、家族は、誰が。
見下ろした自分の手は真っ赤だった。
断罪を受ける覚悟で目を伏せると、頭の上でミナが言った。
「分からない」
そりゃ、そうだ。
分かっていたら、こんな話はしない。ミナはもっと警戒しただろうし、立花だって側を離れたりしない。
そして、気付く。この状況そのものが、彼等が自分に向ける信頼なのだと。
「ショウが否定するなら、俺はそれを信じる」
「はは」
他人の嘘が分かる癖に、信じるなんて。――でも、その言葉に救われたのも、事実だった。
「ありがとな」
気を落ち着けるように深呼吸をする。
手の中のハーブティーは既に冷め切っていた。壁掛けの時計を見上げれば、午前二時を過ぎていた。長い間、話をしていた覚えはないのに、まるでタイムスリップしたみたいだ。
だけど、それ以上に。
自分が意識を
「ねえ、ショウ。提案があるんだ」
携帯電話を出して、とミナが言った。
言われるがままに差し出すと、ミナはすいすいと操作をした。メモ帳のアプリが表示される。
「君が感じたこと、思い出したこと、その日の気分や体調、何でも良い。此処に日記みたいに残して欲しいんだ」
「日記? でも、俺は」
「文字が書けなければ、記号でもいいよ。嬉しかった時は丸、嫌な時はバツ。……解離性健忘症には、認知療法が有効な場合がある。この記録は君の記憶を取り戻す手掛かりになる」
ミナが日付を打ち込み、見本みたいに記号を記した。
丸が二つ。どういう意味だろう。
「今日の俺はよく頑張ったし、ショウがいてくれて嬉しかった。だから、丸が二つ」
「何だ、そりゃ」
「それでいいんだよ。難しく考えないで。あれこれ書こうと思うと上手く言葉にならないこともあるし、面倒になるから。最初は続けることを目標にして、慣れて来たら文字を書いてもいいよ」
たった今思い付いたとは思えない。きっと、前から考えていたのだろう。
君の苦しみを一緒に背負わせて、とミナは言った。あの言葉に嘘は無かったのだ。ミナは地獄にも花を咲かせてくれるのだろう。そう信じられるくらい、目の前の子供は力強く見えた。
6.フィクサー
⑸信頼の対価
欠伸をしたミナが、もう寝ようと言った。
室内は湿っぽい静寂に包まれていた。
普段のミナは規則正しく生活していて、夜九時には就寝しているらしい。今の状況を考えると、それだけ特別な一日だったことが分かる。
「ポストを見てなかった」
そう言って、ミナが席を立つ。翔は空になった二つのマグカップをシンクへ運んだ。銀色の水盤はピカピカに磨かれている。換気扇が付いていたので、止めようか迷って、止めた。立花が帰って来たら、事務所の中は煙で一杯になるだろうから。
蛇口を
玄関先から、事務所を震わすような破裂音が二つ響いた。
「ミナ?!」
給湯室から飛び出すと、真っ黒い影みたいな男が立っていた。黒いニット帽にマスクを装着し、両目は落ち
ミナが倒れていた。男は重く光る拳銃を片手に、倒れ込むミナへ照準を合わせていた。
翔が飛び出して来たことに驚いたのか、銃口が行方を
ミナの右足が拳銃を蹴り上げる。同時に発砲音が鳴り響き、ブラインドの降りた窓が粉々に砕かれる。
硝子の割れる音が悲鳴のように響き渡った。武器を失った男が動転し、懐からナイフを取り出す。咄嗟にミナが
翔は、ナイフを握った腕を壁に押し付けた。
マスクの下からくぐもった
破裂音。
硝煙の臭いが鼻の奥を突く。
押し寄せた男達は拳銃を握っていた。翔はミナの首根っこを引っ掴み、ソファの影に滑り込んだ。
皮張りのソファが発砲の衝撃で揺れた。
窓硝子が砕けて落ちる。乱射される銃弾が立花の机の上に置かれた灰皿を吹き飛ばし、煙草の吸殻が花火みたいに散った。
翔は身を伏せながらミナの状態を確認した。
動揺はしているが、パニックは起こしていない。怪我も無さそうだ。
悠長に話している時間は無かった。
左右から回り込む気配がする。侵入を許した時点で圧倒的に不利だった。このままでは囲み込まれて蜂の巣だ。
彼等の目的が何なのか分からないが、こんなところで死ぬ気は無かった。
視線で合図を送ると、ミナが頷いた。既に冷静になったらしい。頼もしい子供だ。
怖いとは思わない。これが立花やペリドットならば、今頃自分達は生きてなかった。
男達がソファに回り込むタイミングで、ミナが転がり落ちた灰皿を投げた。反射的に防御を取った男の肩を掴み、ミナが体操選手のように宙返りをする。
背後を取ったミナは拳銃を握る手を後ろに拘束し、そのまま床に叩き付けた。
翔はミナの制圧戦を見届け、背後に迫る男を待った。
銃口の向きから
息を吐く間も無かった。
玄関先で待機していた男が狂ったように連射する。ミナは昏倒した男の影に隠れ、翔は掴んでいた男を背負い投げた。
弾切れを起こした男が、
それを待つつもりは毛頭無かった。翔は壁を足場に駆け出し、男の顔面へ拳を突き出した。勢いよく男の体は壁に衝突し、動かなくなった。
ミナが小さな声を上げた。
捕縛していたはずの男がミナを振り払ったのだ。関節を上手く押さえているように見えたが、怪我と体格は明らかに不利だった。翔は意識を失くした男を投げ捨てた。
ミナを床に押し付けた男は、馬乗りになって何処から取り出したのかナイフを突き付けていた。頸動脈を切られたらお終いだ。嫌な汗が滲む。
男が何かを言おうと顔を上げた瞬間、翔は頭を蹴り飛ばした。骨を打ち付ける鈍い音がして、男の体はスーパーボールみたいに弾け飛んだ。
呻き声が聞こえる。まだ意識があるらしい。
翔は逃げようとする男の頭を掴み、机の角を狙って顔面を打ち付けた。真っ赤な血が
「許してくれ、頼むから……!」
情けない命乞いに、興が削がれる。
おかしいじゃないか。そっちは自分達の言い分を聞こうともせず、殺そうとした。自分の番になったら助けてくれだなんて、都合が良過ぎるじゃないか。
「知らなかったんだ! あの女が、こんなボディーガードを雇ってるなんて!」
何の話だ?
翔とミナは同じ感想を抱いた。そして、その言葉の意味を追求しようとしたその時、二人は完全な無防備だった。
玄関先から真っ黒い影が躍り出る。身構えることも、ミナを庇うことも出来なかった。
「あ」
ミナが間抜けな声を漏らした。
半開きの扉から、見覚えのあるスーツの左腕が見えたのだ。それは拳銃を構える男の側頭部に銃口を当て、一切の迷いや
どん、と。
鉄の
部屋の中の惨状を見て眉間に皺を寄せると、嫌そうに言った。
「何の騒ぎだ」
「分からない」
ミナが答えた。本当だった。
この男達はいきなりやって来た。女がどうとか言っていたから、まさかとは思うが、怨恨だろうか。可能性が一番高いのは、立花なのでは?
翔が
立花はそのまま散らかった室内を革靴で踏み歩くと、ミナの側に膝を突いた。
「怪我は?」
「平気。ショウが助けてくれたから」
立花は腰に手を当てて立ち上がると、嫌そうに事務所内を見渡した。
事務所は閑静な住宅地にある。警察を呼ばれたら厄介だ。
「気に入ってたのに」
立花はそんなことを言って、床に転がった灰皿を拾った。灰皿は真っ二つに割れてしまっていたのだ。
投げたのはミナだ。仕方なかったとは言え、ミナは
その時、玄関の向こうから階段を駆け上がる足音が迫った。翔はミナを庇い、立花は銃口を向けた。
「ミナちゃん!!」
悲鳴みたいな
扉の向こうから現れたのは、――幸村歌恋だった。
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