⑷道標
体の芯まで凍り付きそうな寒風が吹き付けていた。
指先が
来た時と同じように黒塗りの外車で駅まで送ってもらい、券売機で新幹線の切符を買った。平日の夜、自由席はガラガラだった。
新幹線に乗った時には午後九時を過ぎており、事務所に到着する頃には零時を跨いでいるかも知れない。ミナを連れていたら補導されるだろうかと嫌な想像が膨らんだ。そうなった時、立花は迎えに来てくれるだろうか。
窓際に座ったミナは、ずっと携帯電話を
笹森と別れる前に何か話していたから、連絡でも取っているのかも知れない。真剣な横顔を眺めていたら、ミナと目が合った。
「Forexを教えてもらったんだ」
「何それ」
「ええと、外国為替証拠金取引って言って、投資みたいなやつ」
説明されても理解出来なさそうだ。
翔は早々に諦めてしまったが、ミナが一生懸命に話していたので、適当に相槌を打っておいた。
「笹森さんの主な収入源は投資なんだって。地域の人からお金を集めたり、薬物や武器の売買はしないって言ってたよ」
「ふうん。それで、お前もやるの?」
「うん。シミュレーションは得意だ。練習で笹森さんが元手を貸してくれた」
投資なんて成功者はほんの一握りで、殆どが破産するイメージだ。笹森が悪い人間でないことは分かったが、ヤクザから金を借りて大丈夫なのだろうか。
「お金はいくらあっても損じゃない。それが全てではないけど、お金で解決出来ることはたくさんある」
携帯電話を眺めて、ミナが言った。
住んでいる世界の違いを感じさせられる。隣に座っているのに、ミナの目はもっと広い世界を捉えていた。
新幹線は大きな振動も無く走り続ける。何処かで誰かの
ミナの携帯電話が鳴って、静寂は突然破られた。
立花からメッセージが届いたらしい。
「夕飯を作ってくれたみたいだよ。勝手に食えってさ」
そう言って笑うミナは、まるで眩しいものを見るような目をしていた。彼等の間には、翔には分からない絆みたいなものがある。ミナの身勝手を立花が許すように、立花の傲慢さをミナは受け入れているようだ。
「レンジは優しいねぇ」
携帯電話を膝に伏せ、ミナは車窓を眺めていた。
夜の闇に包まれた車窓は鏡のようだ。翔太はその陶器のような横顔に問い掛けた。
「……笹森に会いに行った目的は、何なの?」
車窓に映るミナがゆっくりと
答えてくれるだろうか。自分は、彼が答えるに値する人間だろうか。そんなことを思いながら、翔は無意識に膝の上で拳を握っていた。
「……ニューヨークに家族がいて」
ぽつりと溢れるそれは、まるで弱音や泣き言のような悲しい響きを帯びていた。ミナは一瞬、口元を結ぶと、一息に言った。
「俺が自分のことを守れるようになるまで、会わない約束をしてる」
「……それは、寂しいな」
「会えないと分かってから初めて、そう思うようになったよ」
振り向いたミナは、泣き笑いみたいな中途半端な顔をしていた。
多分、ミナは笑って欲しかったのだろう。
馬鹿だな、下らないな、と言って。
けれど、たった17歳の子供が漏らす甘えや弱さを笑えるはずも無かった。翔が黙っていると、ミナは独り言みたいに言った。
「大切なものは、失くしてから気付く。俺達はいつだって、無い物ねだりだ」
傷のある人の言葉だと、思った。
過去に何があったのかは分からないが、この子には傷がある。だから、人に優しく出来るし、助けたいと考える。
「俺は、大切なものを守れるようになりたい。希望的観測に囚われて、選択肢を見失うのはもう嫌だ。それなら、俺は自分に出来ることを納得出来るようにやる」
この子が守りたいものが何なのか、翔には分かる。
それは翔が失ってしまった、もう二度と取り戻すことの出来ないものだ。その為ならこの子供は地獄にも落ちるし、命も投げ出す。
車内にアナウンスが響き渡る。もうすぐ東京。近付いていると分かると、あの汚れた眠らない街が恋しくなる。けれど、此処にずっといても良いような気がした。この微温湯のような時間が、いつまでも続けば良いなと、思った。
6.フィクサー
⑷
電車の中は心地良く、静かだった。
ミナは
酒精と香水の入り混じる街は今日も今日とて変わりなく、賑やかに騒がしかった。目が
交番の前では桜田と酔っ払いが怒鳴り合っていて、下着みたいな服装の売女が街角に立っている。
時々、ミナが何か
誰かの名前のようだったが、父や母ではなさそうだった。
背中越しに聞こえる心臓の音に気持ちが凪いで行く。いつかもこうして背負って帰ったような気がした。だらりと下がるミナの両手は、
「お兄ちゃん」
誰かに呼ばれたような気がして、翔は足を止めた。
振り返る。街の雑踏の中、此方を気に掛ける人間はいなかった。回遊魚のように進み行く人々の群れを眺め、酷く安堵する。何故なのかは、分からない。
事務所に帰り着いた頃には午前零時を過ぎていた。
穏やかな寝息を聞いていると眠気を誘われて、途端に体が鉛のように重く感じられた。
ブラインドカーテンの隙間からLEDの光が漏れている。事務所の扉に鍵は掛かっていなかった。殺し屋の事務所に入る程に命知らずな泥棒もいないだろうけど、無用心だなと思った。
三階に届けるべきだろうか。流石に施錠しているだろうか。
そんなことを考えながら、翔は扉を開けた。そして、心臓が凍るかと思った。目の前に見知らぬ男が立っていた。
「なんだ、お前」
声が
目の前にいたのは、年老いた男だった。けれど、老人と呼ぶには何処か
依頼人ならば、ミナが把握しているはずだ。
一般人にも見えないが、ペリドットのような殺意も感じられない。
男の口元が弧を描く。目の端に浮かぶ
左目に、医療用の眼帯を付けていた。既視感を覚える容姿だ。男は背筋をぴんと伸ばし、翔を射抜くように見据えていた。
「お前が噂の番犬か」
男が言った。
自分のことをそう呼ぶのは、立花くらいだ。ならば、この男は立花の知り合いなのか。
敵か味方かも分からない。下手な受け答えは出来ない。
翔が後退ると、何かを察したかのようにミナが
「ショウは犬じゃないよ」
譫言のように、ミナが言った。
「俺の切り札だ」
「お前がミナトか。ヒーローにそっくりだな」
意味の分からないことを言って、眼帯男は不敵に笑った。
事務所に見知らぬ他人がいるというのに、不思議と危機感を覚えなかった。此方の引いた予防線を平気で乗り越えて、知らぬ間に懐に入って来るような人懐こさで、その男はミナの顔を覗き込んだ。
ミナよりは背が高いが、翔よりは小さい。喪服のような真っ黒いスーツは、夜の闇に溶け込むだろう。
事務所の中を見渡したミナは漸く状況を理解したのか、男に問い掛けた。
「レンジの知り合い?」
「まあな」
「Nice to meet you」
ミナが手を差し出すと、男は苦笑混じりにそれを受けた。
「うちの馬鹿な弟子はまだ帰って来てないのか」
「レンジは馬鹿じゃないよ」
「馬鹿な未熟者さ。依頼も満足にこなせないんだから」
何のことだ。彼等は何の話をしているんだ?
翔の疑問は置き去りに、眼帯男は黒曜石のような瞳でミナを見据えた。
「撃たれたんだろ?」
何故、それを知ってる。
表面上にはなるべく感情を出さず、翔は間に立った。この男が何者か分からない以上、気を許す訳にはいかない。
男は忍者みたいに翔の脇を抜け、ミナの前に詰り寄った。節ばった指先が脇腹を指し示す。
「傷一つ付けるなって、契約だった」
翔とミナがその手を振り払ったのは、同時だった。
眼帯男は足音も無く後退り、けらけらと笑った。
「Who are you?」
眼帯、黒いスーツ、聞こえない足音。ただ者じゃないことは分かる。敵か味方かも分からないが、この男の正体を示す記号が集まり過ぎている。
「俺か? 俺は
二代目――。つまり、立花の先代。
血縁者には見えないし、殺し屋なんて物騒な仕事を生業とする人間とも思えなかった。そういえば、ミナが立花の元にいるのは、近江の仲介によるものだと聞いている。ミナの反応を見る限り、会ったことは無かったのだろう。
「レンジは何処」
「仕事だよ」
「聞いてない」
「はは。殺し屋の片棒でも担いだつもりだったか?」
近江が笑うと、ミナは不満そうに眉間にぎゅっと
ミナは事務員だ。依頼の窓口と言っても過言ではないし、事実として任されて来た筈だ。
「なあ、ミナト。お前は何の為に此処にいる? 目的を曖昧にしていると、大事なものを見落とすぞ」
「分かってる」
「いや、分かってないね。だから、平気で命を投げ出す」
近江はミナの眉間に指を突き付けた。
「どんな大層な理由があっても、死んだら終わりだぞ」
それは、忠告なのか、それとも警告か。
庇うべきか迷って、結局、翔は黙っていた。近江がとても大切なことを伝えようとしていることは分かったし、ミナが理解しなければならないことだと思った。
この子供は、自分の信念がある。それは結構なことだ。だけど、自分の命をとても軽く考えている。命を懸けるということの本当の意味が分かってない。遺される人間のことまで考えていないのだ。
近江は冷ややかに翔を見遣った。何かを言おうとしたように見えたが、近江は笑っただけだった。
「じゃあな、ミナトと番犬。蓮治に宜しく」
そう言って、近江は風のように通り過ぎて行った。
翔とミナが振り向いた時には既に扉は閉じていて、其処には初めから誰もいなかったようだった。
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