⑺降り積もるもの

 事務所には立花と翔の二人きりだった。


 立花は昏倒した男を順に眺めると、無言で銃弾を撃ち込んだ。

 銃口には何かの装置が付いていた。銃声を消す為の装置らしい。そんなものがあるのなら初めから付けておけばいいのに、と思ったが、すぐに察した。

 立花は殺し屋ということを隠していないし、忍んでもいない。しかも、事務所に襲撃犯がやって来た時、翔とミナは撃たれる寸前だった。サイレンサーを装着する余裕すら無かったのだろう。


 冷酷非道な殺人鬼に見えるけれど、違うのかも知れない。

 三代目ハヤブサの名を継いだ時、彼は何を思っただろう。翔には想像することしか出来ないが、相当な重圧なのではないだろうか。


 立花は裏社会の抑止力であり、フィクサーの孫を護衛している。社会が正常に動き続ける為のかなめなのだ。


 立花は回転椅子に腰掛けると、ポケットから煙草を取り出した。小さな火を守りながら切っ先をあぶるその姿は、近江にそっくりだった。




「ミナから何を聞いた?」




 今し方人を殺したばかりとは思えないくらい穏やかな声で、立花が言った。美味そうに煙草をむ姿を横目に、翔はつばを呑み込んだ。


 隠し事や誤魔化しは無意味だ。

 立花はミナが話したことを見抜いている。




「……ミア・ハミルトンがハッキングしたデータに、俺の過去に関わるものがあったって」

「ミナが話したってことは、確証を得たんだな」




 煙を吐き出して、立花は薄く笑った。




「お前が殺したのか?」

「分からない」

「だろうな」




 立花は追求しなかった。元より、興味は無かったのかも知れない。「他には?」と立花が促したので、翔は一日を振り返った。

 幸村にプリンを届けて、電気ケトルでハーブティーを飲んで、大阪で笹森とミナが盃を酌み交わして、それで。




「ミナの家族の話を、少しだけ聞いた」

「へぇ」

「寂しがってたよ」




 何で会わせてやれないのかなんて、立花に言っても仕方ない。ミナが家族と交わした約束だ。他人がどうこう言うことじゃない。


 立花はぼんやりと天井を眺めていた。




「家族か……」




 家族に会えなくて寂しいミナと、もう会えない家族を恋しく思えない自分は、どちらがマシなんだろう。

 記憶を思い出したら、自分も寂しく思うのだろうか。もう会えないということを実感出来るのか。




「アンタ、施設出身なんだろ?」




 翔はソファに座った。

 立花とこんな風に穏やかに話すことが出来る日が来るなんて想像もしていなかった。事務所内は死体が転がって、壁には血飛沫が染み込み、空気は血と硝煙と煙草の煙に汚染されているけれど、不思議と居心地は悪くなかった。




「施設に入ったのは、五歳の頃だ。それまでは親の下にいた」




 奇妙な感覚だ。

 立花にも当然過去はあるはずなのだけど、彼が子供の頃というのは想像し難い。翔が黙っていると、立花は無機質な眼差しで滔々と語った。




「クソみてぇな家でよォ、親父もお袋も薬物中毒で、いつもラリってた。まともなメシなんざ食えなかったし、毎日殴られて、蹴られて、施設に行くまで俺はまともな言葉も知らなかった」




 親の元で育つことが、幸せとは限らないのだ。そう思うと、何だか悲しくて、遣る瀬無かった。


 人は望まれて産まれて来るのだと、心の何処かで思っていたのだ。親は無条件で子供を愛するものだと。それが当たり前でなかった立花は、どんな気持ちでミナや翔の家族の話を聞いていたのだろう。


 実の母から命を狙われた少女がいた。虐待を受けて来た子供だった。依頼を受けた時、立花は何を思っただろう。そして、少女を庇ったミナや翔を見て、何を。


 ミナが少女を守った時、立花はヒーローに見えたと言っていた。それを、どんな気持ちで。




「クスリのやり過ぎで親が死んで、施設に引き取られたんだ。……最低な所だったよ。職員は毎日暴力振るって、ガキ共は必死にび売って、殴られてもヘラヘラしてた。その癖、裏では新入りをいびってマウント争いしてよォ」




 本当にこの国の話なのかと、疑いたくなるくらい凄惨な環境だった。施設に入った子供には逃げ場も自衛の術も無い。心に傷を負った子供を暴力で押さえ付けることがどれだけ残酷か、大人達は分からなかったのか。誰も疑問に思わなかったのか。誰も、助けようとは思わなかったのか。




「十歳くらいの時、猿山のボスを殴ったんだ。そん時は最高に気分が良かった。でもな、ヒエラルキーが逆転しても、世界は何も変わらなかった。今度は最下層に叩き落とされた猿山のボスがターゲットになって、同じことの繰り返し。くだらねぇだろ」

「でも、アンタは加わらなかったんだろ?」

「つまんねぇからな」




 吐き捨てるように立花が笑った。

 淡い煙が周囲を包み込み、やがて霧散して行く。




「職員がマジでどうしようもない奴等でよ、ロリコン野郎に物影に連れ込まれて裸の写真撮られたり、腹癒はらいせにリンチされてヤクザみてぇな傷を顔に付けられたりした奴もいた。十代で妊娠させられて、物理的におろさせられて、二度と子供産めない体になった奴もいた。……その場で庇うことは出来ても、いつでも守ってやることは出来なかった」




 施設なんてろくなところじゃねぇ。

 以前、立花が言っていた。それがオブラートに包んだ表現だったことを今になって知った。語られるそれは地獄と呼んでも過言でない最低最悪の環境で、牢獄ろうごくと同じだった。




「施設を出てからは、生きる為に何でもやった。盗みも、殺しも。死んでたまるかって思ってたからな。後悔なんざ、してねぇ」




 翔には、分かる。

 自分も同じだった。生きる為には働かなければならない。けれど、働く為には学歴や過去が必要で、それを持たない自分達に選べる仕事なんてものは無い。

 働かなければ金を得られない。金が無ければメシも食えない。


 目眩めまいがする程の空腹や、寝転ぶ路上の冷たさ。

 通り過ぎる人々の白い目や、帰る場所の無い虚しさ。

 きっと、ミナには分からない。あの辛苦を、悲哀を、絶望を知らない。――でも、知らなくていい。




「時々、瞼の裏に蘇る」




 雨粒みたいに、立花が溢した。




「親父の拳とか、物陰で泣いてたガキとか、頬を腫らして笑ってた奴とか、殺した奴等の縋るような目とか」




 どれだけ逃げても、過去は追い付いて来る。

 立花はそんな風に言った。




「初めて殺したのは、よく知らねぇ会社員の男だった。19歳くらいの時かな。帰り道に待ち伏せして、ナイフで一突き。つまんなかったな。こんなもんかって思った」




 帰り道ということは、その男にも帰る場所はあったのだろう。彼を待っている家族もいたはずだ。立花はそれを踏みにじっていながら、つまんなかったと。


 けれど、翔にはそれを責められない。

 誰を憎む。誰を恨む。誰を責めれば救われる。

 おぼれる者が間違ったものを掴んだとして、一体誰にそれを責められる?




「仕事してる内に、感覚がバグっちまってよ。こんな自分でも必要とされてるんだって思ったら、馬鹿みてぇに浮かれちまってさ。端金はしたがね掴まされて、いい気になってよ、まさか自分が捨て石にされるなんて、考えてもなかった」




 立花の口調は淡々としていて、自己憐憫なんて欠片も無い。

 けれど、他人事みたいに語る声を聞いていると、何故だか胸が苦しくて、謝りたいような気がした。




「どっかのヤクザぶっ殺して、目ェ付けられて、拉致らちされてよ。コンクリート漬けで東京湾に沈められそうなところを、近江さんが助けてくれた。気紛きまぐれだって言ってたな。よく分かんねぇ。近江さんが後継者を探してるって言うから、修行して、俺が継いだ」




 感謝してる。

 立花は目を伏せて、そう言った。


 どんな人間にも過去がある。その生い立ちが不幸だったのか幸運だったのかは分からないが、立花の過去だけで映画が一本撮れそうだと思った。




「近江さんがミナを連れて来た時は、心底ムカついたな。まず、俺の仕事に関係無ぇし、なんで俺がこんな世間知らずのガキ守ってやんなきゃなんねぇんだって思った」




 そりゃ、そうだ。

 立花は自分のことで精一杯だった。其処に訳の分からないお荷物を背負い込まされて、しかも言うことを聞かないし、日本語も話せなかった。今なら立花の態度ももっともだと分かる。




「英語でごちゃごちゃ文句言って来るし、飯も適当だし、仕事は邪魔して来るしよ」

「今と変わんねぇな」

「ああ。……でも、嘘は吐かない奴だった。下らねぇ言い訳もしないし、どんなに脅して突き離しても、俺の前では落ち込まなかった」




 ますます、今と変わらない。

 変わらない二人の関係が何だか羨ましくて、微笑ましくて、つい翔は笑ってしまった。立花は不満そうににらんで来たけれど、怖くなかった。




「俺が仕事から帰って来ると必ず、おかえりって言う。テメェの家じゃねぇっての」




 憎まれ口を叩いてはいるが、嬉しかっただろう。

 自分が何者か分からない、帰る場所さえ見失っている自分達のような人間にとって、その言葉がどれだけ救いになるか。


 その時、玄関の向こうから階段を上がって来る足音が聞こえた。調子外れの鼻唄は、ミナの声だった。立花も勘付いただろう。扉の方を見遣ると、目元を僅かに和らげた。




「たった一人でも、心の底から信じてくれる奴がいれば、それだけで救われる。なあ、翔。お前もそうだろう?」




 翔は答えなかった。タイミング良く扉が開き、鼻唄混じりにミナが「ただいま」と言ったからだ。

 呑気なものだ。死体を跨ぐ姿は中々に罰当たりだったが、それすらおかしくて、翔と立花は顔を見合わせて笑った。




「おかえり、ミナ」









 6.フィクサー

 ⑺降り積もるもの









 事務所の中が血塗れだったので、翔は三階の居住区で眠った。ベッドが二つしかなかったので、ミナが何処からか引っ張り出して来た寝袋で寝た。

 フローリングの床は冷たかったけれど、ミナが暖房を入れてくれたので眠る頃には快適だった。


 夜、夢を見た。

 いつか、何処かの河川敷で、親父がゴムのボールを持っていた。無愛想な父の口元が僅かにほころんでいて、自分は投げられたそれを懸命に受け止めた。

 青い芝生にお袋と砂月が座っていた。此方を見て楽しそうに何か話している。中天の日差しが水面を照らし、宝石みたいな光の粒が眩しかった。


 起きると、室内にはこうばしい匂いが漂っていた。

 玄関の方、キッチンから何か聞こえる。言い争っているようだったので慌てて起きると、ミナと立花が揃って朝の挨拶を口にした。


 時刻は既に正午に差し掛かり、ミナが昼食を用意してくれたらしい。オムライスを作るつもりだったそうだ。チキンライスかバターライスかでミナと立花がめていたらしい。

 翔はどっちでも良かった。そんなことで喧嘩出来る二人が羨ましかった。


 どういう折衷案になったのか、結局、昼食はチキンカレーになった。玉子は何処に行ってしまったのだろう。

 三人で食卓を囲むのは初めてだった。以前、立花が夕飯にビーフシチューを用意してくれた時は、ミナと二人で食べた。


 自分達は、友達でもなければ、家族でもない。

 契約関係にある他人だ。背負っているものも、目指しているものも違う。それでも、カレーを美味いと思う感情は一緒だった。


 食事の後始末はミナに任せて、翔は立花と一緒に事務所に戻った。どんな魔法を使ったのか室内は新築みたいに綺麗にされていた。転がった死体も、壁に染み込んだ血の跡も無い。

 近江が手を回してくれたらしいが、立花も詳細は知らないと言う。この世界には翔の知らない不思議なことが、たくさんある。


 テレビを見て微睡まどろんでいたら、立花が言った。




「お前の最大の幸運は、ミナに拾われたことだな」




 脈絡の無い話で驚いたが、テレビでは丁度、保健所で殺処分される野良犬のドキュメンタリー番組が放送されていた。立花はよく自分を犬扱いするので、連想したのだろう。




「この世には人を人とも思わないゴミみてぇな人間が山程いる。その中で、ミナみてぇな御人好しと出会える確率がどれだけ低いか」




 新たな飼い主に引き取られて行く子犬と、ガス室に向かう老犬。天国と地獄を思わせる様を、名前も知らない芸能人が泣きながら見ている。


 分かっている。

 自分は幸運だったのだ。そして、立花も。

 自分はミナに出会い、立花は近江に救われた。そうでなければ、今頃はこの世にいなかった。




「ミナはお前を使い捨てにしないし、受けた恩は必ず返す」




 近江も同じことを言っていたような気がする。受け売りなのか経験談なのかは分からないが、兎に角、自分は幸運だったのだ。


 幸せは雪に似ていると聞いたことがある。

 地面に落ちれば溶けるが、それは音もなく静かに降り積もるという。

 溶ける時は一瞬だ。だけど、雪が溶ければ春が来て、透き通る岩清水となり大海へ流れるような。そんな終わりの無い毎日が、少しずつ積み重なっていけば良いな、と思った。


 暇になって玄関先を掃いていたら、携帯電話が鳴った。

 慣れない機械に四苦八苦していると、勝手に電話が繋がって、近江が出た。


 事務所の処理が済んでいるかの確認だった。そういう窓口はミナだと思っていたので内心驚いた。特に話すことも無かったが、忘れる前に、一応。




「なあ、立花がアンタに感謝してるって言ってたよ」




 後で怒られるだろうか。

 電話の向こうで近江が朗らかに笑った。そんなことを言うはず無いと言いながらも、嬉しそうだった。




「殺し屋としての立花を育てたのは、アンタなんだろ? 何でなの?」




 スピーカーの向こうで唸る声がする。

 あの浮き雲みたいに捉え所の無い老人が困っていると思うと痛快だった。近江は一頻ひとしきり唸った後、そっと言った。




『なんだか、放っておけなくてな。殺し屋としての直感かな。死なせるには惜しいと思った』




 後継者を探して見知らずの男を拾うくらいだから、相当な人手不足だったのだろう。

 翔はほうきを担いで、空を見上げた。磨き込まれたような青空に雲は一つも無い。見事な晴天だった。洗濯物もよく乾くだろう。




「この前、ペリドットとやり合った」

『聞いてる』

「手も足も出なかった。立花が来なけりゃ、俺もミナも死んでた」

『あれは正真正銘の化物だ。お前みたいな素人がどうこう出来る相手じゃねぇ』

「それでも」




 翔は目をつぶった。

 瞼の裏側に蘇る。流れ落ちる排水、噴き上げる真っ赤な炎、転落して来たクリスマスツリーと伸ばされたミナの手。

 そして、ミナが撃たれた時、自分は何も出来なかった。




「強くなりてぇ。あんな思いは、もう御免だ」




 せめて、この手の届く範囲は、守りたい。

 声は掠れていた。翔の言葉をどのように捉えたのかは分からない。けれど、近江は買い物を頼まれたみたいな軽さで、あっさりと了承した。


 日時と場所を一方的に告げて、通話は切れた。忘れる前に記録しようとメモ帳のアプリを開き、日記のことを思い出す。

 日付はスケジュール帳に書き込み、翔は頭を掻いた。

 初めは記号だけでも良いと言っていた。


 色々なことがあった。処理し切れていない部分も多い。けれど、翔は二つの丸を書き込んだ。ミナや立花が応えてくれた信頼と、頑張った自分に。


 屋上からミナが呼ぶ。

 洗濯物を取り込むらしい。

 怒鳴るように返事をすると、ミナが英語で急かした。


 殺し屋の事務所も随分と所帯染しょたいじみている。

 翔は携帯電話をポケットに押し込んで、階段を駆け上がった。

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