6.フィクサー
⑴深淵の怪物
ブラインドの隙間から、淡い冬の日差しが漏れ出している。事務用のデスクに
気分転換にコーヒーでも入れようかと席を立つと、窓辺に立花の背中が見えた。その手には携帯電話が握られていて、誰かと通話していることが分かる。
プライベートを
インスタントコーヒーをマグカップに入れる。頭がぼんやりしていたので、砂糖やミルクは入れない。甘いものはそれ程、好きじゃなかった。
やかんが笛を吹く。目が覚めるようなブラックコーヒーを片手に事務所へ戻ろうとすると、立花の声がした。
「最近、犬を飼い始めたんだ」
何処か明るく、穏やかな声だった。
親しい相手なのかも知れない。そういえば、立花に家族はいるのだろうか。恋人や友人は。
素知らぬ顔をしてソファに座る。いつもは翔がいるので、ソファの感触が懐かしく思えた。
翔は今頃、玄関先でも掃除しているのだろう。勤勉な男である。事務所内もそれなりに綺麗にして来たつもりだったが、翔に言わせれば適当らしく、
「俺じゃねぇよ、ミナだ」
突然、自分の名前が出て驚いた。
一体、誰と何の話をしているのだろう。犬なんて飼った覚えはないが、日本語によくある
立花が此方を見て、追い払うように手を振った。
出て行け、ということだろう。それなら聞かれて困る内容の電話を此処でするなよ、と胸の内で吐き捨て、ミナはマグカップを片手に立ち上がった。
三階へ行こうか。いや、それでは翔が戻って来た時に困るか。迷いつつ、マグカップを片手に玄関の扉を開いた。
「……初めて会った時、あいつは地獄にも花が咲くことを知ってると言った。俺はあいつが何を成し遂げるのか、見届けたいと思う」
扉が閉まる刹那に聞こえた声に、胸が
程無くして、扉が開かれた。ノックの一つもしてくれないものだから、危うくコーヒーを
不満を込めて
事務所のコーヒーテーブルにマグカップを置き、再びやかんをコンロに掛ける。
電気ケトルの相談をしようと振り向くと、立花が給湯室の壁に
「翔のこと、何か分かったか?」
やかんがカタカタと震えている。
過去を調べるように依頼したのは翔だ。第三者である立花に報告する義務は無い。――だが、ペリドットと対峙した時の翔の様子はおかしかった。自分と翔の間だけでは済まないかも知れない。
「ペリドットとやり合った時、ショウが助けてくれたんだ。でも、いつもの様子じゃなかった。まるで、何かが乗り移ったみたいな……」
立花は何も言わず、先を促した。
「ペリドットが言ってただろ、あれは空手だって。顔面も
生憎、ミナは武道に詳しくなかった。畳み掛けるような
立花が何も言わないので、独り言を言ってるみたいだ。ミナは溜息を吐いた。
「それから、ミアがどうして狙われたのか、理由が分からなかった。反社会的人格のクラッカーであることは確かだけど、ペリドットを
「……前置きが長いんだよ、お前」
今度は立花が溜息を吐いた。
何だか会話の間に互いに疲れている。俺が悪いの?
ミナは眉を
「ミアは警察庁の機密情報をハッキングしたんだ。未解決事件とか、権力者による事件の
「お前も見たのか」
「見たっていうか、ミアが送って来たんだよ。アンダーウェブに中継地点を挟んでるから、追跡は出来ないと思うけど」
「……それで」
「機密情報の中に気になる事件の記録があった。……三年前、或る警察官の家族が惨殺された。データ上は未解決になってるけど、捜査された様子が無いんだよね」
これは偶然なのか、因果なのか。
まるで、神の見えざる手が自分をこの結論へ導いたみたいで不快だった。
「警察官の夫とその妻、娘は死体で見付かってる。でも、息子は消息不明なんだ。当時、十八歳。生きていれば二十一歳だ。学校での成績は普通、何処にでもいそうな平凡な学生だった。だけど、フルコンタクト空手をやっていて、全国大会に出場するくらいの実力者。――名前は、
翔とは名前が違うけれど、似ている。
神田翔と神谷翔太。写真の一枚でも残っていれば照合出来たけれど、三年前のその日、界隈は炎に包まれたのだ。
警察庁の公式の捜査記録では、煙草の不始末による火事だとされている。けれど、裏では三人もの人間が殺され、捜査すらされていない。
これはどういうことか。
立花は猫のように目を
「神谷翔太は、家族を殺したのか?」
「さあ、分からない。煙草の不始末のせいで、全部、燃えちゃったんだって。証拠は何も残ってない。……でもね、当時の神谷家は、誰も煙草を吸っていなかったみたいだよ」
死んだ娘、神谷砂月は
病院のカルテに記録が残っている。娘の為に父は煙草を辞めたらしい。
この事件には不可解なことが多い。
神谷家は、娘の為に空気の綺麗な静かな
まるで、探ってくれと言わんばかりの怪しさだ。
「それ、翔には?」
立花が言った。
ミナは肩を
「言うなら、確証を得てからにする」
「……まだ調査を続けるのか?」
「そのつもりだけど……」
金色の目に射抜かれて、ミナは言葉の先を
分かっている。これは踏み込んではならない深淵だ。ミアが狙われたように、これ以上首を突っ込めば、自分も翔も危険になる。
痛いくらいの沈黙を、やかんの笛が掻き乱す。
立花は溜息を一つ零して、コンロの火を止めた。
「調査は一旦、止めろ。
「……分かった」
普段なら
それだけ立花の目が真剣だったのだ。
こんな時、いつもニーチェの格言を思い出す。
怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう用心せよ。
貴方が長く深淵を覗く時、深淵もまた貴方を覗き込む。
玄関の向こうから階段を上がって来る足音が聞こえる。翔が戻って来る。ミナは咳払いを一つして、立花のマグカップを探した。
ペリドットと対峙した時、自分の無力さを痛感した。
敵の正体、目的、戦力。ミナは何も知らず、自分に出来る最善を尽くしたつもりだった。だが、結果はどうだ。立花がいなければ、翔共々殺されていた。
力が要る。
時代の
このままでは、自分のことも、翔のことも守れない。
扉が開くまでのカウントダウンをする。
ドアノブが回る。ミナはインスタントコーヒーの瓶を開けながら、素知らぬ顔で言った。
「……一人分のコーヒーを入れる為に、やかんでお湯を沸かすのはガス代の無駄だと思うんだ。電気ケトルかコーヒーメーカーを買おうよ」
扉の向こう、箒と
ねぇ、翔?
問い掛ければ、何の話だと首を傾げた。
ミナは目を伏せて笑い、沸騰する湯をマグカップへ注ぎ込んだ。
6.フィクサー
⑴深淵の怪物
電気ケトルを買いたいと言うので、ミナと二人で家電量販店に向かっていた。ハーブティーやコーヒーを飲む為にやかんでお湯を沸かすのが面倒なのだそうだ。
経費で落としてくれることになったので、ミナは小躍りして喜んでいた。先日、脇腹を撃たれて輸血手術をしたばかりとは思えない。
帰り道、駅前に新しいカフェが出来ていた。
若者向けの洒落た外装にフランス語の店名、コーヒーとデザートを売りにしているらしいが、店内は
瓶に詰められたプリンがお勧めらしい。
値段の割に小さいし、美味そうに見えなかった。ミナが十個入りのそれを買ったので、翔は、いつか立花に買い物下手と言われていたことを思い出した。
翔は電気ケトルと紙袋に詰められたプリンを持った。怪我人に荷物を任せる程、無責任では無かった。並んで歩いていると、何処からか警官の桜田がやって来て「兄弟みたいやねえ」とよく分からない感想を零して言った。
事務所に帰ると立花はいなかった。
何処へ行ったのだろう。ミナは構わず電気ケトルを箱から取り出して、取扱説明書はファイルに入れ、本体は給湯室に置いた。
ミナは
「それ、どうするんだ?」
事務所のコーヒーテーブルに置いたままになっている紙袋を指すと、ミナは思い出したみたいに手を打った。忘れていたらしい。立花もいい加減だが、ミナも大概である。十個もどうやって消費するつもりなのだろう。
コーヒーを
「幸村さんにあげようと思ってね。この前、お世話になっただろ?」
幸村は隣のビルに法律事務所を構える弁護士である。
先日、立花が受けた依頼を阻止する為にミナが消息を
そういえば、あれから会っていない。
弁護士ということは多忙なのだろうが、顔を合わせ難いのも事実だった。何より、彼女は立花のことを不審に思っているし、ターゲットの子供が暗殺されそうな場面に出会しているのだ。
あっという間にコーヒーを飲み終えたミナは、コート掛けに下げられたダッフルコートを
外は木枯らしが吹いていた。空気が痛いくらいに冷たい。歩いて数十歩の距離が億劫に感じられた。
隣のビルは地上五階、地下一階の鉄筋コンクリートで、その中の三階フロアが幸村法律事務所だった。
ミナが事務所の扉を叩くと、事務員らしい若い女性が出迎えてくれた。突然の来訪に気を悪くした風も無く、応接室に促される。品の良い革張りのソファに座っていると、温かい緑茶とオレンジジュースが出された。
さり気なくミナが緑茶を自分の元に引き寄せたので、翔は黙ってオレンジジュースを差し出した。
よく分からない攻防をしている内に幸村がやって来た。一部の隙も無いスーツの上下に、
「ミナちゃん、久しぶりね」
幸村はミナを見ると柔らかに微笑んだ。歴戦の戦士が
ミナという少年は、小動物みたいに庇護欲を掻き立て、場を
「翔くんも元気そうね」
「お蔭様で」
扉の向こうでは電話が鳴っている。
中々に繁盛しているらしい。
先日のお礼だと英語で言って、ミナが紙袋を手渡す。日本語を学んでそれなりに語彙も増えて来ているのに、何故なんだろうか。下手に喋ってボロが出るよりマシなんだろうか。
ミナと幸村が楽しそうに世間話するのを、翔は横で黙って聞いていた。英語混じりの話題に付いて行けなかった。話の主旨が少しずつずれて結論が出ない上に、話題がぽんぽん切り替わる。けれど、二人が楽しそうだったので、悪い気はしなかった。
「
誰のことだと首を傾げて、翔は慌てて誤魔化した。
そういう設定になっているのだ。翔はミナの友達で、立花は従兄弟。ついでに、先日の騒動はミナの家出ということになっている。
「喧嘩してるところなんだ。だから、その話はあんまりしたくない」
その嘘は後々困らないか?
翔が冷や冷やしていると、幸村が
「何かあったら、いつでも力になるからね」
要らぬところで不興を買わされた立花には同情しつつ、翔は目を逸らした。
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