⑵二人きりの冒険

 水面を飛び跳ねる石みたいに、話題は目まぐるしく切り替わった。その間、幸村は立花のことには触れなかった。嘘を信じたのかどうかは分からないが、幸村がミナをとても気に入っていると言うことは確かだった。


 古い映画の話をするミナを、幸村は優しい目で眺めていた。肉食獣が我が子を見るような目だ。

 この人はミナのことを可愛がってくれているし、本当に心配してくれている。何かあった時は、ミナはこの人に預けよう。翔がそう考えるくらい、幸村は親切だった。


 一時間くらい実も花も無い話をして、話題は幸村の仕事の話に変わった。

 幸村は弁護士らしいが、元々は検事局に勤める検事だったそうだ。依頼人の弁護をするのが弁護士で、犯人を法廷で検挙するのが検察官の仕事だと教えてくれた。どちらも優秀ではければ就けない仕事だ。




「犯人にしかるべき罪を負わせるのが正義だと思ってたの。でも、段々人を信じられなくなっていく自分が嫌で、辞めちゃった」




 幸村は軽い口振りで言うけれど、そんなに簡単なことでは無かっただろう。彼女の苦悩や決意を思うと、どんな言葉を掛けてやるべきなのか全く分からなかった。そして、何も言えない自分が情けなかった。




「弁護士の仕事は信じること。私はそう思うわ。例え裁判に負けてもね」




 彼女を見ていると、自分が矮小わいしょうに思えて仕方なかった。

 記憶を失くし、己の信念はおろか名前すら分からない。目指すべき場所も、何を頼りに歩いて行けばいいのかすら。




「You are cool」




 ミナが言った。褒めたのだろう。幸村は眩しそうに目を細めて笑った。

 この少年は、他人の嘘が分かるのだと言う。幸村の言葉が嘘偽りのない本心であると分かったのかも知れない。


 ミナはポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認すると、席を立った。子供らしく簡単な礼をして、颯爽と歩き出して行く。この子供が、状況に応じて、礼節をわきまえた態度を装うことが出来ると知っている。彼を見ていると、何がミナという少年の本質なのか分からなくなる。


 事務所に戻ると、飲み掛けのコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。何だかとても勿体無いことをしてしまったような気がした。

 ミナは三階の居住区へ寄ってから事務所に戻った。その手には見たこともないバッグパックが下げられている。




「何処か行くのか?」

「オオサカに」




 オオサカ――大阪?

 関西の大阪か?




「新幹線で三時間くらいかな。日付が変わる前には戻れると思う。レンジには伝えてあるから――」

「待て! ちゃんと説明しろ!」




 ミナの話は前置きが長い癖に唐突で、あたかも此方が理解していることを前提に勝手に進めてしまうのだ。頭が良いんだか悪いんだかよく分からない。




「grandpaの友達がオオサカに住んでるから、会いに行くの。レンジは奉公って言ってたよ」




 そういえば、前にもそんなことを言ってたな。

 grandpa ――祖父か。ミナの血縁者がこの国にいたことに安心しつつ、驚いた。自分のことを話さな過ぎるのだ。




「ショウも行く?」

「……行ってもいいのか?」

「訊いてみる」




 ミナは携帯電話を取り出して、目の前で通話を始めた。

 謎はますます深まるばかりだ。翔は溜息を呑み込み、通話が終わるのを待った。








 6.フィクサー

 ⑵二人きりの冒険








 新宿から山手線で品川へ。

 券売機で新幹線の切符を購入したミナが不安そうな顔で帰って来る。駅構内は凄まじい人口密度で、息苦しいくらいだった。


 ミナも翔も公共の交通機関に弱かった。海外で生まれ育ったミナと、記憶喪失の翔は余りに心許無こころもとなくて、何度も駅員に道を尋ねた。しまいには新幹線の乗り場まで案内され、翔は深くお辞儀じぎをする羽目になった。


 シートの硬い自由席を探していたら、窓際とその隣の席が空いていたので急いで座った。ミナは落ち着きが無いので、窓際に押し込んだ。

 発車すると、僅かに体がシートに押し付けられる。暖房のせいか喉が乾いていた。ミナがバッグパックからミネラルウォーターのペットボトルを差し出して来た。その足元には紙袋に入った東京銘菓が置かれている。マメな子供である。


 大阪まで長い道のりだ。ミナは機嫌良さそうに車窓を眺めているけれど、翔は退屈だった。何もせずに座っていると、身体の端から錆び付いて、もう立ち上がれないような気さえした。


 ひまを持て余してミナを呼ぶと、子犬のような瞳が此方を見た。




「ハヤブサって何なの?」

「この国の英雄だって聞いてるけど」




 殺し屋が英雄なんて世も末だな。

 翔は胸の中で吐き捨てた。




「ペリドットが言ってたけど、殺し屋の中じゃ有名なんだろ? 何で?」

「うーん」




 うなりながら、ミナは腕を組んだ。

 そして、まばたき程の刹那、視線が周囲を探った。ぼうっとしていたら見落としてしまいそうな程、自然な動作だった。




「……この国の裏で、殺し屋が暗躍していることは知っているね?」




 ミナは声をひそめた。教えてくれるらしい。

 顔付きも口調も穏やかだが、真冬の朝みたいな澄んだ空気を纏っている。それは、これから大切なことを話すと念を押しているみたいだった。




「金さえ積めば誰でも殺してくれる。そうなって来ると、命の価値が下がる。人は、殺されるかも知れないと思いながら充実して生きられない」




 それはそうだろう。

 殺し屋が暗躍していることや、金さえ積めば邪魔者を排除してくれるなんて知ったら、社会は崩壊する。




「ハヤブサの別名は、最速のヒットマン。同業者にも恐れられる伝説の殺し屋なんだって。暴走しがちな殺し屋を抑える、わば裏社会の抑止力だね」




 だから、この国の英雄か。

 確かに、立花の腕前は超人的だった。しかも、三代目らしい。彼にもきっと背負っているものがあるのだろう。


 立花が凄腕の殺し屋であることは分かった。当然、次の疑問は、どうしてそんな男のところにミナがいるのかということだ。




「先代のハヤブサと俺の親父が知り合いなんだ」

「お前の親父って、何者?」




 ミナは答えなかった。

 答えられないことは追求しないことにしている。何か意味があるのだろう。必要であれば、ミナは教えてくれる。


 ミナはバッグパックから重箱みたいな弁当を取り出した。

 本当にいつの間に用意したのだろう。開いてみると、その彩の良さに驚かされる。ニンジンが飾り切りされていたり、トマトとチーズがピックで刺さっていたり、もう意味が分からないくらい綺麗だった。




「レンジが作ってくれたんだ。一緒に食べよう」




 翔は耳を疑った。

 立花が、この弁当を作ったというのか。

 普段、お好み焼きやら焼きそばやら鉄板に何か恨みがあるのかと思う程、大味な料理ばかり作るミナらしくない繊細さだとは思ったが、まさか立花が。


 キッチンで弁当をこしらえる立花を想像すると何だかおかしかった。綺麗な三角形のお握りは一つずつラップに包まれている。

 冷えていても噛めばほどける米粒に感動した。中から焼鮭や梅干しが出て来るのも、海苔が丁寧に巻かれているのも、立花の気遣きづかいが感じ取れた。甘い卵焼きは立花らしくなくて、ミナや自分の為に態々わざわざ作ってくれたのだと思うと、照れ臭い。もっとも、ただ几帳面で料理が好きなのかも知れないが。


 弁当は文句無しに美味かった。

 片付けを終えた頃には目的地が近付いていた。荷物が軽くなったと喜ぶミナに代わり、土産の東京銘菓は翔が持った。


 ミナと立花がどういう関係で、どんな背景があるのかは分からない。だが、どうでもいい他人の為に弁当を作りはしないだろう。ミナは従兄弟なんて適当な嘘を吐いていたけれど、彼等はまるで、歳の離れた兄弟みたいだった。


 大阪駅に到着してみて、早速迷子になった。

 駅前で待ち合わせをしていたらしいのだが、同じ名前の駅が幾つもあったのだ。携帯電話を眺めながら「大阪は初めて来た」なんてミナが爆弾発言をしたので、翔は駅員を探して駆け回った。


 せめて駅構内から出ようとしても、工事中で道が塞がっていて迂回うかいしなければならなかったり、到着したと思ったら元の場所に戻っていたりと、まるで迷路の中にいるみたいだった。


 もう二度と地上には出られないんじゃないかと絶望しかけた時、ミナが背筋を伸ばして歩き出した。ぐるぐる歩き回っている内に把握はあくしたらしい。


 地上に出てみると、もう日は落ちていた。飲み屋の看板が点灯し、帰宅途中のサラリーマンや学生の群れが見掛けられた。大阪の街は賑やかで、懐かしく感じられた。汚いだけの繁華街とは違う温かみを覚える。




「待ち合わせしてるのはどんな奴なんだ?」

「ササモリさんって言うんだ。実は、俺も会うのは初めてなんだよね」




 頭が痛くなる。

 初めての土地に初対面の相手。来る前に聞いていたら止めていたのに。待ち合わせと言ったって、顔を見て分かるのだろうか。

 ミナは祖父の友達だと言っていた。幾つくらいだろう。高齢ならば、歩かせるのは悪いな。そんなことを思っていたら、ミナが袖を引いた。




「Look at that」

「あ?」




 人差し指が、酒精を漂わせる大学生達を指し示す。時刻はまだ早いけれど、随分と楽しそうだ。顔を紅潮させて肩を組んだり、大声で歌ったりしている。楽しそうで結構なことだが、駅前で迷惑な奴等だ。




「楽しそうだねぇ」




 大学生達の歌に合わせてミナが体を揺らす。呑気なものだ。少しリズムが違うが、楽しそうなので放っておいた。

 翔は付き合いで多少アルコールを飲んだことはあるが、別に美味いとは思わなかった。未成年のミナには羨ましく見えるのだろう。




「お前が二十歳になったら」




 濃褐色の瞳が翔を映す。




「一緒に呑もうぜ。その時には全部清算して、乾杯しよう」




 ミナは十七歳らしいから、あと三年。

 その頃には自分の過去も取り戻しているだろうし、力も付けているはずだ。ミナが何を成し遂げようとしているのかはよく知らないが、力になれると思う。翔が言うと、ミナが嬉しそうに頷いた。こいつは下戸げこか酒豪かのどちらかだろうな、とぼんやり思った。




「君、可愛いなぁ」




 今時聞かないような口説き文句を吐いて、一人の男がミナの前に立った。胡散臭いサングラスを掛けた若い男だった。

 隣の翔のことは丸切り無視して、ミナを舐めるように見詰めている。




「俺はこないな者なんやけど。芸能界って興味ある?」




 そう言って差し出された名刺には、確かに何処かの芸能プロダクションらしき名前が印刷されていた。

 偏見なのだろうが、関西弁は胡散臭く聞こえる。厄介なトラブルに巻き込まれる前にこの場を離れようとミナの手を引くと、男がさっと手を伸ばした。


 趣味の悪い腕時計が街明かりに鈍く光る。ミナが肩を掴まれそうになり、身を屈めるようにして躱した。猫みたいに俊敏で滑らかな動きだった。再び男が手を伸ばす。ミナはそれを左手の甲で払うと、身を引き様に足払いを掛けた。


 派手な音を立てて男が尻餅をつく。思わず、翔は囃し立てるように口笛を鳴らした。

 集まって来た野次馬が好き勝手なことを言って笑った。

 男の顔が怒りに赤くなって行く。まずいな、と翔は思った。


 ミナは殴り掛かられても構わないというように身構えている。立ち上がった男が何かをわめいて、尻ポケットから鈍色の折り畳みナイフを取り出した。


 周囲がざわめいて、静電気みたいな緊張が走った。

 男はナイフを構えて、ミサイルみたいに突っ込んで来た。翔は間に滑り込み、男の手を蹴り上げた。


 弾き飛ばされたナイフを空中で掴み、刃を閉じた。男はやけを起こしたみたいに拳を振り上げる。翔はナイフをミナに預けると、拳を手の平で払って、鳩尾みぞおちひざで蹴り上げた。


 骨のきしむ音が聞こえた。

 男の体は一瞬硬直し、そのまま弛緩した。翔がそっと路上に寝かせると、拍手の音が包み込んだ。

 いつの間にか辺りは人集りが出来ていて、酔っ払いが揶揄やゆしたり、褒めたり、よく分からないことを言った。


 鬱陶しかったので無視していたら、ミナが昏倒した男の脈を確かめていた。初めて会った時もそうだったな、と懐かしく感じた。




「警察を呼ぼう」




 ミナが言ったが、翔は断った。

 事を荒立てる必要は無いし、自分は過剰防衛になるかも知れない。警察は信用出来ない。何となく、そんな気がする。




「脈がおかしい。眼球運動に、異常発汗も。これって多分」




 射抜くような鋭い視線で、ミナが顔を上げる。

 その言葉の先を聞くより早く、後ろから声が掛かった。




「おーい、其処の人」




 振り向くと、人集ひとだかりを掻き分けて一人の青年がやって来た。

 肌も服も黒いので、闇の中にいたら見付けられないだろう。




「下がっときや。関わらへん方がええ」

「……どういう意味だ?」




 意味深なことを言うので、翔は眉をひそめた。

 その時、周囲を包む人集りの中から囁き合うような声がした。野次馬達がしきりに口にするその言葉に、聞き覚えがあった。




「アンタが、ササモリさん?」




 色黒の男――笹森ささもりは、怪訝な顔をしていた。

 短い眉と切長な二重ふたえの瞳が釣り上がり、とても真面な仕事に就いている人間には見えなかった。


 遠くでサイレンが聞こえる。

 野次馬の誰かが通報したのだろう。




「逃げんで。警察は好かんのや」




 笹森が言った。

 警察に捕まる程の悪事を働いたつもりはないが、面倒なことになるのは明白だった。ミナは「俺は残る」と言い張っていたが、翔が睨むと渋々従った。


 仰臥ぎょうがに倒れた男を振り返る。翔はその顔を見て、血の気が引いた。

 死人のような蒼白な顔で、口元は微かに弧を描いていた。意識は無いはずだ。けれど、その男は確かに、笑っていた。

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