⑺祈りと約束
目を覚ました時、見慣れた天井があった。
煙草の
「――ミナ!」
身を起こせば、骨が
筋繊維が切れているのか彼方此方が痛い。
見覚えのないスウェットの上下を着ていた。自分は助かったらしい。その上、手当てや着替えまでしてもらっている。こんな親切を施してくれるのは、一人しかいない。
「うるせぇな」
不機嫌な低い声がした。
目を向ければ、事務所の定位置に立花がいる。眼帯を付けて、無感情な金色の瞳を新聞に向け、まるで、何事も無かったみたいだった。
「ミナは上で寝てる」
事務所の三階が居住区になっていることは知っている。
寝ているということは、無事だったのか。立花が助けてくれたのだろうか。
「左の脇腹を撃たれて、輸血して五針、
「……それ、いつの話だ」
「昨日の話だ。ずっと熱が下がらねぇ」
そんなことを言いながら、立花は煙草に火を点けた。
居ても立ってもいられなくて、翔は痛む体に
「一つ、言っておくが」
煙草の灰を落として、立花が言った。
「あいつの怪我はあいつの責任で、だせぇ
そんな言い方をしなくてもいいのに、と翔は苛立った。
手術ということは、処置しなければ命に関わる大怪我だったのだろう。
「顔が見たい」
「寝てると思うが」
そう言いながら、立花は鍵を投げて寄越した。空中で受け取り、翔は身を
事務所を飛び出して、階段を駆け上がる。
立花とミナの居住区に足を踏み入れた瞬間、湿った熱気に包まれた。窓際の壁に沿わせるように置かれたベッドが膨らんでいる。靴を脱いで駆け寄ると、赤い顔をしたミナが静かに眠っていた。
掛けられた布団が上下する。
タオルがあったので、汗を拭いてやろうと思った。
キッチンの水道で硬く
「……ショウ?」
熱い息を吐き出しながら、ミナが言った。寝起きのせいか、声が
「元気そうだね。良かった……」
自分は撃たれて手術する程の怪我をしている癖に、
「守ってやれなくて、ごめんな」
「俺が
立花も同じことを言っていた。もしかすると、
せめて、代わってやりたい。撃たれたのが自分だったなら良かったのに。
「立花が、助けてくれたんだろ」
「Yeah, Renji was cool」
「……ペリドットとミアは」
其処まで言って、翔は止めた。
今のミナに訊くべきじゃない。立花に訊いてみよう。
そう思ったが、ミナは察したように微笑んで答えた。
「ミアは依頼人のところで保護してる。ペリドットは……、逃げられた」
「逃げられた?」
確かに、ペリドットの身体能力は異常だった。立花でも取り逃したのだ。自分達にどうにか出来る相手ではなかったのだろう。
ただ、問題は別にある。
ペリドットが生きているということは、再び狙われる可能性が出て来るということだ。彼はミアを狙って来るだろうし、自分達の前に立ちはだからないとも限らない。
翔が考え込んでいると、突然、デコピンをされた。
頬を
「もう、手は打ってある」
「でも、ペリドットは生きてんだろ」
「依頼内容は脅威の
ふう、と息を吐いて、ミナが言った。
話の内容に見合わないフラットな口ぶりだった。
「ミアと協力して、向こうの依頼人のことを調べたんだ。暗殺に関わった議員七名は、昨日の夜にレンジが全員始末している。ペリドットが此方を狙う理由はもう無くなったんだ」
一晩で七名。
ぞっとする程の手際の良さだ。手術後のミナはペリドットの依頼人についての情報を調べ上げ、立花は一晩で全員を殺した。テレビを見ていないから分からないが、国家を揺るがす
依頼人がいなくなれば、それを
フリーの殺し屋ならば、そうなのだろう。立花ならそうする。だけど、相手は国家公認の殺し屋だ。ペリドットから狙われない保証にはならない。
「ペリドットが言ってたよ。俺の負けだって」
自分が意識を失った後、何があったのだろう。
あの化物じみた身体能力を相手に、ミナや立花はどうやって逃げ
「もしもまたペリドットが襲って来るなら、その時は殺す。レンジが、そう言ってた」
殺すか、殺されるか。
この世界には
もしも、次にペリドットが襲来したならば、自分に何が出来るだろう。自分にあの男を、――殺せるか?
「ねえ、ショウ。俺、ちゃんと生きてるよ」
いきなり言われたので、驚いた。濃褐色の瞳を見詰めると、鏡のように返された。対面しても居心地が悪くないのは、何故なんだろう。
分かってる。ミナは生きてる。無事とは言い
「ショウが守ってくれたからさ」
「俺は何も出来なかった」
「……ショウは、何処まで覚えてるの?」
何処までとは、どういう意味だろう。
補足を待っていると、ミナは「何でもない」と笑った。
「俺、もっと頑張るから。ショウのことも調べるし、自分のことも守れるようになる。だからさ、もっとたくさん、お話ししよう?」
ミナが何を言おうとしているのか分からない。
「君の苦しみを一緒に背負わせて。一人で抱え込むと時々、道を間違えるから」
まるで、経験談みたいだ。
ミナは小さな手で拳を作ると、静かにそれを翔へ向けた。
「約束だよ」
ああ、とも、おう、とも付かない声で、翔はそれに
布団の下から伸ばされる手は熱かった。水を飲ませて、体温計でも探してやるべきだ。そう分かっているのに、離せなかった。
自分を信じてくれる人がいて、守るべき存在がある。
小さな拳と交わした約束は、きっと、翔にとって生きる意味そのものだった。
5.夜のパレード
⑺祈りと約束
ミナの熱が下がったのは、手術から二日経った頃だった。
熱が下がってからは普段通りに活発に動き始め、今日も朝からウィローを探したり、駅前で桜田と話したり、昼飯にお好み焼きを大量に作ったり、通常運転に戻っていた。翔が思うよりも、ミナという少年は丈夫な性質らしい。
ソース
箸を止めた立花に代わり、残飯はミナが一人で
食器の片付けにミナが席を立つ。その時、扉からノックの音が響いた。
依頼をインターネットで受けるようになってから、来訪者は極端に減った。平日の昼間にやって来る物好きな来訪者は、一体何者だろう。
「やあ」
金髪にエメラルドの瞳をした青年――ペリドットが、いつかの
突然の来訪に驚いたミナが、腰を抜かして床に尻餅を付く。ポケットに入れていた携帯電話が滑り落ちて、床の上を転がった。ペリドットは自身の革靴の先に触れたそれを拾い上げると、ミナへ差し出した。
「大丈夫か?」
その声色は慈愛に満ちている。
薄いストライプの入った白いジャケットに、黒いシャツは
差し出された手を
ブラインドの隙間から差し込む光を背負い、立花が金色の瞳を冷酷に光らせている。抜身の刃みたいな殺気を漂わせ、立花は突然の来訪者を全身で警戒していた。
「ミナ、下がれ」
地雷原を
「そんなに警戒しなくても」
ペリドットは肩を
翔には、何処か空々しく見えた。
「安心しろよ。俺の依頼人はもう死んだ。任務は終了したし、お前等と殺し合うつもりはねぇ」
「……じゃあ、テメェは何で此処に来た」
もう用は無いはずだ。
よくもまあ、のこのこと顔を出せたものだ。
立花が言い放っても、ペリドットは口角を釣り上げただけだった。
政治上の理由とはいえ敵対し、殺し合った相手だ。どうしてそんな
「ちょっと気になることがあってよ」
エメラルドの瞳は、立花とミナ、そして、最後に翔を見た。
深い海の底みたいに、寒気がするくらい綺麗な瞳だった。
「お前、何者?」
何者かなんて、そんなこと自分が一番知りたい。
ペリドットは扉に
「のほほんとした顔をしてる癖に、スイッチが入ったみたいに、急に
「カラテ?」
ミナが首を伸ばした。
彼等が何のことを話しているのか全く分からない。
「知らねぇ」
ペリドットは納得したようではなかったが、翔にも答えようがなかった。
「まあ、いいや」
「良くねぇ。……テメェはうちの
それまで黙っていた立花が
ペリドットは笑っていた。
「俺は此処で戦闘になっても良いぜ。最速のヒットマンに殺されるなら殺し屋として
ペリドットはミナを見て、不敵に微笑んだ。
翔は
これではミナを人質に取ったも同然じゃないか。
「界隈で噂になってるぜ、ハヤブサ? 最速のヒットマンがお荷物抱えてる。狙うなら今だってな」
「……構わねぇさ。そんな馬鹿共は、幾らでも殺してやる」
「もしもーし! ミナちゃん、いる?」
誰の声かと思ったら、隣のビルに法律事務所を構える幸村だった。運が良いのか悪いのか、緊張感は氷のように溶けてしまった。
ミナは立花に目配せした。
幸村が急かすように扉を叩くので、翔は慌てた。まさか、この中に入って来るつもりか。
ミナが声を張り上げた。
「今、手が離せないんだ! 後で行くよ!」
そう、仕方ないわね。
そんなことを言って、幸村の足音が遠去かる。翔はほっと胸を撫で下ろした。何しろ、此処にはペリドットがいる。関係性を問われても、答えられるとは思えない。
「撤退しろ、ペリドット。事を
「急にぺらぺら喋りやがるな、クソガキ」
ペリドットはミナを
ペリドットは腕を組んで、ふむ、と一人納得したように頷いた。そして、何を思ったか無防備に背中を向けて、扉に向かった。
「またな」
半身で振り返ったペリドットの横顔には、描いたような微笑みがあった。そして、足音の一つも響かせず、
扉が閉じた瞬間、
そんな翔の横を擦り抜けて、ミナは扉を
もう、何がなんだか分からないし、付いていけない。
「スピーカーのこと、気付かれてたね」
気付いていたのか。それでも撤退したのは、何故なのか。
自分の預かり知らぬところで、
「またねって言ってた。また会うような気がする」
「そいつは、願い下げだな」
煙草に火を点けて、立花が溜息を吐いた。
同感だ。出来ることなら、もう二度と会いたくない。
皿を洗って来る、とミナが言った。
普段通りを
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