⑹灯火

 例えば、この世が等価交換ならば。


 いつかの問い掛けを振り返り、ミナは拳を握った。

 きらめく夜景、吹き付ける寒風かんぷう、オフィス街にとどろいた頭蓋骨の砕ける音と、手首に食い込む荷造り紐。向けられたナイフの切っ先、冷たい金色の瞳。蜜色みついろの月は夜空から見下ろしていて、足掻あがいても届かない自分を嘲笑あざわらっているみたいだった。


 脇腹が燃えるように熱かった。

 狙撃されたのだと気付いた時、自分の見通しの甘さをうらんだ。どうしてもっと。強迫観念が細波のように打ち寄せて、がたい後悔と自責の念が呼吸を奪う。




「ショウ……」




 翔は動かなかった。まるで、石像にでもなってしまったかのようだった。


 例えば、この世が等価交換ならば、清算の時に自分は何を支払えばいいのだろう。この至らなさを、無力さを、歯痒はがゆさを、不甲斐なさをどうやってつぐなえばいい。


 銀色の砂嵐が視界を覆い隠し、激痛と耳鳴りが悪夢のように襲い掛かる。


 何かを叫ぼうと口を開けばうめき声が漏れ出して、身を起こそうと手を突けば崩れ落ちる。腐った水が傷口に染み込んで、細胞を破壊して行くのが分かる。


 それでも。




「Peridot, Look at me!!」




 ミナが叫んだ時、翔が振り向いた。

 出会った頃と同じ、行先さえ見失った迷子のような、すがるような眼差しだった。


 此処で死ぬ訳にはいかなかった。こんなところで死ぬ為に海を渡った訳じゃない。帰るべき場所がある。待っている人がいる。


 その為に、切り札が欲しい。

 何も失わない為に、信念を貫く為に。

 正攻法でも搦手からめてでも邪道じゃどうでも何でもいい。


 銀色に染まる視界の端で、何かが光った気がした。

 次の瞬間、骨を打ち付けるにぶい音が地下空間に木霊こだました。


 翔の右足が振り上げられ、ペリドットの脇を鋭くえぐる。瞬間移動でもしたみたいだった。石像のように固まっていたはずの翔が、突然、野生動物みたいに俊敏しゅんびんに動き出す。


 ペリドットの顔がゆがむ。翔の一撃を振り払い、銃口が持ち上げられる。刹那、翔のかかとが銃を蹴り上げた。


 弾き飛ばされた拳銃はコンクリートの壁に衝突して、汚濁おだくの中に沈んだ。翔は追撃の手を緩めない。蹴り上げた勢いを殺さぬまま、空中で回転するとペリドットの側頭部を殴り付けた。


 何が起きてる?

 ミナには、目の前で起きていることが理解出来なかった。

 不測の事態が起こっている。現実が予測を飛び越えて、頭突きでも喰らわせて来たみたいだ。


 幸運とは思わなかった。

 何故か。――翔の目は、氷のように冷たかった。




「Stop!!」




 汚水の中で藻掻きながら、ミナは手を伸ばした。

 何が起きているのかは分からない。だが、嫌な予感がした。このまま何もしないでいたら、取り返しの付かないことになる。


 激しい戦闘だった。とても平静の様子とは思えない。純朴じゅんぼくさが嘘みたいに、目の前の敵を打ち滅ぼす為に、防御を捨てて、ただ体を動かしている。筋肉に掛けられるリミッターが解除されて、彼は自壊じかいしながら戦っている。


 止めなければ。

 助けなければ。

 せめて、翔だけでも。


 ペリドットが嗜虐的しぎゃくてきな笑みを浮かべる。対峙たいじする翔を捉えて、その瞳は残酷な光を帯びていた。


 翔の腕が槍のように振り抜かれる。ペリドットは口角を釣り上げると、紙一重でかわして胸倉を掴んだ。そのまま一気に翔の体を持ち上げると、突風のようにコンクリートの壁に叩き付けた。




「ショウ!」




 頭蓋骨が乾いた音を鳴らし、翔の体は糸が切れた人形みたいに弛緩しかんした。顳顬こめかみから真っ赤な血液が零れ落ち、翔のまぶたは下ろされてしまった。


 汚水を掻き分け、ミナは翔の体に取り付いた。

 首筋に手を当てる。冷たい体から微かな心音が聞こえて、安心すると同時に背筋が凍った。




「何なんだ、このガキは」




 弾き飛ばされた拳銃を拾い、ペリドットが言った。

 その瞬間、襟首えりくびを掴まれた。重力のような抗い難い凄まじい力で、ミナの体は木葉のように吹き飛ばされる。


 汚水の中に背中から墜落し、視界がぐにゃりとゆがんだ。腹の底から熱が込み上げて来て、口の中に鉄の味が広がる。吐き出したつばが真っ赤で、遠い世界のことみたいだった。




「なあ、おい。返事くらいしろよ」




 肺が焼けるようだった。

 返事どころか、立ち上がることも出来ない。激しく咳き込みながら、ミナはペリドットをにらんだ。




「Fuck off men」

「……英語?」




 にじむ視界の奥、ペリドットの眉が寄る。




「お前、何者?」

「答える義理はないね」




 ペリドットは笑ったようだった。

 分からない。視界が不明瞭だ。息が苦しい。でも、ペリドットを此処から逃してはいけない。


 ペリドットは溜息を一つ零した。

 水面が揺れる気配がする。近付いて来る。

 駄目だ。逃すな。此処じゃなきゃ駄目だ。ショウ。


 後頭部で、撃鉄げきてつの起きる音がした。




「なら、死ね。ガキのお守りをする程、暇じゃねぇんだ」













 5.夜のパレード

 ⑹灯火












 乾いた銃声が尾を引いて鳴り響く。

 微かなうめき声と共に生温い液体が頭から降り注ぎ、ミナは胸が潰れる程の安堵あんどを覚えた。




「It's late」




 待ち草臥くたびれてしまった。

 闇の中に一筋の光が差し込むみたいに、希望に胸が熱くなる。非現実的にライトアップされたクリスマスツリーと流れ落ちる大量の水。暗い下水道の中で、金色の双眸が太陽のように輝いていた。




「レンジ」




 普段装着している眼帯は外され、あらわになった右目の下に群青ぐんじょうタカ羽搏はばたいている。

 金色の瞳、群青の鷹。それがハヤブサと呼ばれる殺し屋の象徴であることを知っている。


 ハヤブサ。

 この国の英雄の名だ。最速のヒットマンとうたわれ、同業者にさえ恐れられる裏社会の抑止力。立花蓮治は、その三代目だった。


 スナイパーライフルなら兎も角、片手銃で遮蔽物の多い不明瞭な視界の中を正確に狙撃出来るなんて、最早、存在自体がフィクションみたいな男である。


 片手で銃を構えた立花が、感情の死に絶えた顔付きで此方をにらんでいた。


 撃ち抜かれた肩を押さえながら、ペリドットが苦く笑う。




「お前が、ハヤブサか」




 立花は、まばたき一つしなかった。

 正確無比せいかくむひな銃弾はペリドットの手の平と、ひざを撃ち抜いた。普通なら立てない。動けない。立花はれ下がる電源コードを掴むと、ターザンみたいに軽やかに飛び移って来た。


 見慣れた革靴が、汚水の中を突き進む。

 満身創痍まんしんそういのミナと翔、そして、ペリドットをにらむと、再び銃を構えた。




「そいつに手を出すなら、お前を殺す」




 死刑宣告のような無慈悲さで、立花は言った。

 脅しではない。警告だ。そういう凄みを持った声で、立花は銃口を突き付けている。




「なるほどねぇ」




 血塗ちまみれで、ペリドットは笑った。まるで、痛みを知覚していないみたいだった。




「こいつが、ハヤブサのぎょくか」




 立花は答えない。

 低い声で立花が呼んだ。ミナは震える腕を叱咤しったして身を起こすと、ペリドットの脇を抜けて立花の後ろに隠れた。

 悔しいけれど、今の自分では守られることしか出来ない。死なないようにするだけで精一杯だ。


 ペリドットに追われている時も、この地下空間に逃げ込んだ時も、位置情報は常に立花へ送っていた。この場所に誘導したのも作戦の内だった。

 メタンガスの爆発も、クリスマスツリーの転落も、全ては布石。立花が到着するまでの時間稼ぎ。想定外の事態は幾つか起きたが、結果から考えると上々だろうか。


 間抜けなクリスマスソングと、緊急車両のサイレンが鳴り響く。武器を失くしたペリドットは動けない。




「王手だ」




 其処でようやく、立花が笑った。

 ペリドットはしば茫然ぼうぜんとしていたが、のどの奥を鳴らすようにして笑った。本当に痛みが無いみたいだった。肩、手の平、ひざを撃ち抜かれているはずなのに、血塗ちまみれのまま大きく背伸びをした。翡翠ひすいの瞳に殺意はもう無かった。




「……分かったよ、俺の負けだ」




 そう言って両手を上げ、ペリドットは力無く笑った。

 不思議な感覚だった。あんなに恐ろしかった殺し屋が、今は普通の人間に見える。


 何故だろう。

 ミナが呆然ぼうぜんとしていると、ペリドットの大きな手の平が頭を撫でた。血塗ちまみれで硬く、けれど、温かい手の平だった。




「またな」




 その瞬間、地下空間は真っ白に包まれた。


 狼煙のろしのような煙が渦を巻く。

 立花の呼ぶ声とサイレン、クリスマスソング。玩具箱おもちゃばこを引っ繰り返したみたいにめちゃくちゃで、見事な幕の引き方だった。


 煙をもろに吸い込んだらしく、立花は激しく咳き込んでいた。ミナは手の平で煙を振り払いながら、翔の腕を握っていた。

 やがて煙が晴れると、ペリドットの姿は何処にも無かった。まるで、全てが夢だったかのように。


 立花は下水道の先を見詰め、銃を構えていた。

 分かってる。ペリドットを追うべきだ。此処で逃しちゃいけない相手だ。――だけど。




「レンジ……、お腹が痛い」




 立花の顔がゆがむ。

 自分なんて捨て置いて、さっさとペリドットを追い掛けて始末するべきだ。あの男は必ずミア・ハミルトンを殺しに来る。いずれ脅威になる相手だ。悪い芽は早い内にむべきだろう。


 だけど、何故だろう。

 と、思った。


 立花は舌打ちを漏らすと、スーツが汚れることも構わずにひざを突いた。




「何処を撃たれたんだ」

「左の脇腹。翔は頭から出血してる。警察が来る前に、逃げよう」

「……」




 立花は何かを言いたげにしていたが、追求はしなかった。




「歩けるのか」

「歩く」

「……」




 立花は無言で翔を背負い、ミナの手を引いた。

 薄暗い下水道の中を、三人で歩いた。側から見れば家族に見えるのだろうか。そう思うと、胸の奥が締め付けられるように痛くなった。




「ペリドットは、また襲って来るぞ」




 手を引きながら、立花が言った。

 意識の無い翔が時々ずり落ちそうになるのを器用に背負い直しながら、その足取りは揺らぐことも無い。




「分かってる。策はある」

「……」

「ねぇ、レンジ」




 何も言わない立花に、ミナは言った。




「ショウが、助けてくれたよ」

「……知ってる」

「すごく強かったよ。俺一人だったら、殺されてたかも知れない」

「お前が一人だったなら、初めから依頼は受けなかったよ」




 分かりにくいけれど、立花なりに翔を認めてくれている。元々、多弁たべんな人じゃない。


 分かってる。

 立花が本当はとても優しくて、繊細で、責任感が強いってことも。沢山傷付いて来た人だってことも。ただの殺人鬼じゃないってことも、知ってる。




「ねぇ、レンジ」

「何だよ」




 素っ気無い態度でも、立花は絶対に無視しない。見捨てない。振り払わない。




「助けに来てくれて、ありがとう」

「……別に。受けた依頼を途中で投げ出すのが、嫌なだけだ」




 立花は鼻を鳴らした。

 照れ隠しだろうか。胸の奥がくすぐったくて、さっきまでの痛みは消えてしまった。


 頭の芯がぐらぐらする。

 失血のせいだろうか。それとも、破傷風はしょうふうか。




「お前、日本語上手くなったな」




 思い出したように立花が言った。

 ミナは笑った。




「ショウが、教えてくれるから」




 立花と二人きりの時には、英語だけで良かった。

 翔は訊けば答えてくれて、辛抱強しんぼうづよく教えてくれた。今の自分が上手く話せているのなら、それは翔のお蔭だった。


 何だか、眠くなって来た。

 微睡まどろむ目を擦りたい衝動を抑えながら、ミナは歩き続けた。視界が白くかすみ、雲の上を歩いているみたいに足元が揺れる。




「ねぇ、レンジ」

「黙って歩け」

「でも、話したい。レンジのことを知りたいし、俺のことを知って欲しい」




 翔が来てからなんだ。

 立花とこんな風に話せるようになったのも、喧嘩けんか出来るようになったのも、全部翔のお蔭なんだ。


 このままじゃ駄目だ。

 翔のことも、立花のことも、もっとちゃんと知らないといけない。




「ねぇ、レンジ……」




 体が重い。寒くて堪らないのに、汗がにじむ。

 足取りがにぶっても、立花は手を引いてくれた。地下空間の出口が見える。それが天国の門でも、地獄の入口でも構わないと思った。


 どうせ、この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ。

 例えこの世が不条理にあふれた欠陥品そのものであっても、立花はきっと手を引いてくれる。それならせめて、誇れる自分であろう。


 朦朧もうろうとする意識の中、ミナは昔の夢を見た。

 六歳の冬、猛烈な寒波に襲われて地域一帯が停電した。冷凍庫みたいな極寒の中、父が何処からか蝋燭ろうそくを引っ張り出して来て、火を点けた。


 LEDに慣れた当時のミナは、蝋燭ろうそくの火がこんなにも温かく、遠くまで照らすことなんて知らなかった。

 おぼろげに照らし出される家族の顔と、ろうの溶ける匂い。力強く笑った父の横顔を今も鮮明に覚えている。


 こんな人になれたら良いな、と思った。

 闇の中を彷徨さまよう人に、絶望の中でひざを突く人に、行き先を見失った迷子のような人に、手を差し伸べて、此処は地獄じゃないよと笑えるように。


 ねぇ、レンジ。

 俺はね、貴方が悪い人間だとは思わないんだ。

 俺には、貴方がヒーローに見えたよ。


 笑うかな。笑われてもいいや。

 そんなことを思いながら、ミナは歩き続けた。

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