⑹名もなき花

 うつむくミナの手を引いて歩いた。

 時々、後ろ髪を引かれるみたいに立ち止まるのが辛かった。翔は前だけを見詰めて、ほとんど引きるように道を急いだ。


 街は夕陽に照らされ、オレンジ色に染まっていた。やがて夜行性の人々が現れ、街は不夜城のように賑わうのだろう。


 古海が殺されたのは、演説の最中で、西岡の目の前だった。依頼通りだ。立花はミナの情報を受け取って、西岡の希望を叶えたのだ。


 誰を責める。誰を罰する。誰を恨めば救われる。

 古海は正直で、正義感が強そうだった。彼は西岡を糾弾し、危険運転に警鐘けいしょうを鳴らし、社会を動かしたのかも知れない。明るい未来を築いたのかも知れない。でも、もう叶わない。


 ミナが言った。




「この世の摂理は因果応報ではなく、弱肉強食なんだと思い知る。どれだけの悪行を重ね、どれ程の人を苦しめたとしても、生き残った奴が正義だ」




 振り向けば、ミナは俯いていた。

 長い睫毛まつげの先に光が灯って見えた。泣いたのだろうか。翔は立ち止まり、ひざを曲げてその顔を覗き込んだ。




「……俺、余計なことしたか?」




 ミナは首を振った。

 それが真実かは分からない。ミナは古海を身を挺してでも助けようとした。だが、翔がそれをはばんだ。




「古海さんを殺したのは、跳弾ちょうだんだった」




 古海が狙撃される寸前、確かに金属みたいな音が聞こえた。立花は何処か遠くからテントの支柱を狙い、跳ねた弾で古海の眉間を貫いたのだ。


 超人的な離れ業だ。

 にわかには信じ難いが、ミナはその弾道を見たと言う。




「レンジが何処から狙撃するのかは分かっていた。いつどのタイミングで撃たれるのかも予測していたのに……、間に合わなかった」




 ミナは力なく項垂うなだれた。知らぬ場所で、とんでもない駆け引きが行われていたらしい。


 立花に情報を渡した時点で、ミナはその任務を邪魔するつもりだったのだ。暗殺のタイミングや狙撃する位置を想定していたが、立花の技量がそれを上回った。それだけのこと。


 ただ一つ、問題は。




「……死んでもよかったのか?」




 あの時、ミナは銃弾と古海の間に割って入ろうとした。翔が止められず、立花が照準をずらさなければ、撃たれていたのはミナだった。


 ミナは少し黙り、答えた。




「死んでもいいということと、命を懸けるということは違うことだ」




 詭弁だ。

 あの時、確かにミナは命を捨てようとした。


 濃褐色の瞳は己の行為に一切の後悔もないと言うように不可思議に煌めいている。

 憎悪ではない。怨嗟でも、使命感でも、自己犠牲でもない。この見るものを惹き付ける青白い炎の名前は、きっと。




「ミナ」




 夕陽に染まる一本道の先に、立花が立っていた。

 黒いシャツとスラックスで、まるで影から抜け出して来たみたいだった。

 立花は足音もなく歩み寄り、ミナの頭を撫でた。




「お前がしたことは、全部だ」




 白々しく微笑みながら、労わるような口調でありながら、その声は冷たく乾いていた。


 金色の瞳は日輪のように輝いているのに、刃のように残酷だ。




「古海は死んだ。金も権力も力もなく、弱かった。西岡の方が強かった。ただ、それだけのことだ」

「……」

「お前がしたことは何だ? 自分の身をさらして、聖者にでもなったつもりか? 俺はお前の体を貫通させてターゲットを殺すくらい、訳ないんだぜ?」




 ミナは何も言わなかった。噛み締められた唇は白かった。翔は立花の手を振り払い、間に立った。




「それはアンタの持論だろ。どうでもいい」




 確かに、ミナは立花の仕事の邪魔をした。

 そもそも立花は依頼を受けてミナを護衛しているようだし、それを逆手に取った今回の行動は裏切りに等しいのかも知れない。


 叱責しっせきされても罰されても当然だった。行動したのがミナではなく翔だったなら、立花は言葉の通り、翔を貫いてターゲットを殺したのだろう。


 立花は鬱陶うっとうしそうに目を細め、翔を無視してミナを見遣みやった。




「お前は金も権力も腕っ節もない、ただのガキだ。正義感で救えるほど、人の命は安くねぇぞ」

「俺は自分が正しいだなんて思ったことは、一度もないよ」




 ミナが言い返すと、立花が嬉しそうに笑った。

 立花は事あるごとにミナを責めるが、その気持ちが翔には何となく分かる気がした。


 この子供は、折れないのだ。

 物分かりもいいし、素直だ。だが、その精神は強靭きょうじんな一本の柱みたいにびくともしない。イジメ甲斐があるというのか、彼がひざをつく姿が見てみたくなる。――勿論もちろん、そんなことは絶対にさせないが。




「……お前のご主人様は、筋金入りのエゴイストだぞ?」




 立花は不敵に笑った。

 翔は鼻を鳴らした。そんなこと、出会った時から知っていた。




「ミナが悪だって言うなら、正義なんてものは俺にとって何の価値もない」




 暗く寂しいあの公園で、ミナが手を差し伸べたその時から、翔の未来は変わったのだ。決めたのだ。


 正義も悪もどうでもいいことだ。この子供が救おうとして掴み取れず、不甲斐なさに零した涙も自分だけが知っていればいい。


 帰ろうぜ、と言えば、ミナは頷いた。

 何でもかんでも救えるとは思わない。けれど、この子供が命を賭して救おうとするものだけは、せめて守ってやりたいと思った。












 3.地獄に咲く花

 ⑹名もなき花














 駅前で起きた暗殺事件は世間を震撼しんかんさせた。射殺の瞬間がテレビで生放送されていたことから連日ニュースで取り上げられ、世間ではテロや裏社会についてあれこれと憶測が飛び交っている。


 くだらない世の中だ。

 翔は欠伸あくびを噛み殺した。


 次のニュースです。

 厚化粧のアナウンサーが、やけに滑舌よく言った。


 映ったのは、惨事の現場であるあの駅前だった。其処にはあの日と同じように白いテントが立ち並び、古海に代わってマイクを握る遺族がいた。




「まるで、雑草だな」




 コンビニ袋を下げた立花が、退屈そうに言った。

 殺し屋もコンビニを利用するんだな、なんて見当違いなことを考えていると、立花はテレビをあごでしゃくった。




「古海の死を受けて、遺族の署名活動はより活発になった。……西岡の裁判は明日だ」




 署名の束が映し出される。

 凄まじい量だった。この事務所が紙で埋まっても、まだ足りないくらいの量だ。




「ミナの情報によると、署名は五千万を超えたそうだ。追加で、焼けたドライブレコーダーから危険運転の証拠が見付かったってさ。……西岡に勝ち目はねぇ」




 そんな幸運が起こるのだろうか。

 翔には信じ難かった。焼けたドライブレコーダーから記録が抜き取れたのならば、古海が死ぬ必要はなかった。


 もしかして。

 翔は嫌な予感がした。

 高梁が死んだ時のように、死者の正義を引き継いだ何者かがいるのではないか――。




「真実なんてものはない。そして、事実は捏造出来る」




 立花の言葉が、答えだと思った。

 恐らく、そのドライブレコーダーの記録は捏造されたものだ。古海が死んでから見付かるなんて都合が良過ぎる。


 けれど、翔にはそれを責められない。

 捏造された証拠で人間一人の人生が台無しになったとしても、最低のクソ野郎が野に放たれるより、どれ程マシで救いがあるか。




「ミナは何処に行ったんだ?」




 今朝から姿を見掛けていない。

 翔が問い掛けると、立花は定位置に座って煙草を取り出した。




「知りたいなら、報酬を寄越せ」




 立花は口角を釣り上げ、煙草に火を点けた。

 ミナにそっくりだ。どちらが影響を受けたのかは分からないけれど、彼等には彼等なりの価値観や考え方があるのだろう。


 その時、事務所の外から階段を駆け上がるけたたましい足音が響いた。ミナの気配じゃない。翔は、クソ野郎な依頼人を出迎える為に立ち上がった。


 扉が蹴破る勢いで開かれる。

 其処に立っていたのは、西岡だった。


 毒々しい金髪はぐちゃぐちゃに乱れ、サングラスはずり落ち、顔中に脂汗あぶらあせにじませた酷い姿だった。翔が殴った頬には湿布が貼られているが、腫れ上がっていることが分かる。




「久しぶりだな、西岡被告」




 立花が言った。空気が凍るような絶対零度の微笑みだった。西岡は何かに追われているかのように辺りを見回し、立花の机に詰め寄った。




「頼む、助けてくれ!!」




 西岡の手の平が机を叩く。吸い殻の山が崩れ、立花は機嫌悪そうに眉をひそめた。




「……依頼なら受けてもいいが、俺はSPじゃなく、殺し屋だ。アンタの依頼は何だ?」




 テレビから西岡を糾弾きゅうだんする遺族の街頭演説が響く。

 白いテントの下には、古海の遺影が飾られていた。其処には失われた家族の姿がある。西岡さえいなければ有り得た幸せな未来の形だ。


 この男が、古海一家の未来を踏みにじった。

 怒りが込み上げて来る。一発殴るだけじゃ足りなかった。翔が再び拳を固めていると、西岡は耳障みみざわりな甲高かんだかい声で叫んだ。




「殺せ! あいつ等、全員殺してくれ!」




 西岡が指差したのは、街頭演説を行う遺族だった。

 古海を悼み、英霊としてかかげ、遺族は何度踏みにじられても雑草のように蘇る。


 立花は悠々と煙草を吹かしていた。




「……じゃあ、まあ。一人頭一千万として、署名が千人なら一千億だ」




 実際には、五千万人もの署名が集まっている。

 幾らになるのか数えようとして、止めた。自分には一生縁のない大金だ。


 立花は煙草の切っ先を突き付けた。




「落ち目のアンタに払えるのかい?」




 西岡が言葉を詰まらせる。

 払えるはずがない。そんな大金は、きっと国家だって持っていないのだ。


 立花は煙草を灰皿に押し付けると、一瞬で西岡の胸倉むなぐらを掴んだ。




「テメェが思う程、人の命は安くねぇぞ!」




 短く悲鳴を上げた西岡が、腰を抜かして崩れ落ちる。

 殴る価値もないと、心底思った。そして、こんな男の為に死んだ人々を思うと、悔しくて堪らなかった。




「テメェに逃げ場はねぇぞ。あの連中は、お前が罰を受けるまで絶対に逃がさねぇ」




 危険運転を許すな。

 西岡被告を許すな。

 古海氏の無念を晴らせ。

 のどから血を吐いても、彼等はそれを止めない。


 高梁が、言っていた。

 例え、自分が志半ばで倒れたとしても、誰かが同じ意志を持って道を切り開いてくれる、と。


 それを正義と称するのか、それとも執念と呼ぶのか、翔には分からない。分からないが、受け継がれるそれがとても尊いものだということは、知っている。


 立花の恫喝に、西岡が転げるようにして逃げ出す。

 翔は中指を立てた。




「おととい来やがれ」




 背中で立花が笑う気配がした。

 翔は鼻を鳴らし、入り口に置かれた箒を手に取った。

 西岡が死のうが、実刑判決を受けようがどうでもいいことだ。彼の末路は予想出来るし、返り咲ける程にこの世界が単純に出来ていないことは知っている。




「表、掃除して来る」




 立花は、あー、とも、おー、とも付かない声で返事をした。

 一人きりの事務所で彼が何を思うのか知る由もないが、西岡を突き放すあの言葉を聞けただけで充分だった。


 階段を降りると、ポストの前でミナに会った。

 赤と青に彩られたエアメールを愛おしそうに眺めている。その横顔は天使そのものだ。


 ほうきを持った翔に気付くと、ミナは何も言わずに付いて来た。立花と顔を合わせづらいと本当か嘘か分からないことを言って、階段の下に座った。


 表を掃きながら、翔はふと思い付いて問い掛けた。




「立花が、此処はまだ地獄じゃねぇって言ってたけど、どういう意味なんだ?」




 答えてくれるとは思わなかったし、はぐらかされても構わなかった。けれど、何の気紛きまぐれか、ミナが言った。




「この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ」



 

 翔は手を止め、振り向いた。

 ミナは相変わらず天使のような可愛らしい顔をして、にこにこと微笑んでいる。




「俺は、地獄にも花が咲くことを知っている」




 地獄の花と言えば彼岸花ひがんばなを想像するけれど、ミナは止まない雨も、明けない夜もないと、そんなことを言っているようだった。何にせよ、苦境になければ出て来ない言葉だ。


 芽を出すそれが花とは限らないけれど。

 翔は思ったが、黙っていた。自分の言葉がミナに正しく伝わるかは分からないし、何より英訳が出来なかった。


 逆境に咲くその花はきっと美しいだろう。その時に、ミナが笑っていられたらいい。そして、それを守ってやれたらいいな、と思った。

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