4.小さな掌

⑴善意の殺人

 暗闇の中、轟々ごうごうと流れ落ちる水の音がする。


 湿気と腐臭に包まれた暗闇のトンネルは、進む程に太陽から遠去かる。左右から迫るようなコンクリートの壁には電灯らしきコードがっているが今は起動される気配もなかった。


 頭を締め付けるインカムからは雑音が入り、不明瞭な視界も相俟あいまって平衡へいこう感覚が乱されていく。スピーカー越しに聞こえる微かな子供の声が、命綱だった。




『Go straight and turn right at the end』




 だから、英語は分からねぇんだよ。

 翔は悪態吐あくたいづいた。


 事の発端は三時間前だ。

 ミナが「ウィローの信号が途絶えた」と大騒ぎした。事務所のたなを掃除していた翔は、厚意でミナのパソコンを覗いた。ディスプレイには三次元的な地図が映し出され、まるで大木の根のようだった。


 ちなみに、ウィローとはドブネズミの名前である。地図を作る為に発信機を付けて放し飼いにしているらしいが、用途は全く不明だ。


 立花は定位置で煙草を吹かして、我関せずの態度を貫いていた。頭を抱えるミナが気の毒に思えて「何処かでネズミ捕りにでも捕まったんだろう」と適当になぐさめた。

 しかし、ミナは納得せずに「ウィローは賢いからネズミ捕りには引っ掛からない」と威張った。


 ネズミは人間より賢いらしい。

 そもそも、人間なんて脳味噌の割に大した知能はなく、都会のカラスの方が学習能力が高いのだそうだ。


 ウィローを探しに行くと言ってミナが慌しく事務所を飛び出したので、翔もハタキを放り出して追い掛けた。ウィローもミナも、小さい癖に異様にすばしっこいのである。


 最後の信号発信地点は下水道である。工事中で開かれたマンホールに飛び込もうとするミナを、作業員と翔で羽交はがめにしたところで彼の暴走は一先ひとまず止んだ。


 そのまま事務所に引きって帰ったが、意気消沈するミナがあわれだったので、「俺に何か出来ることはあるか?」と問い掛けたのが間違いだった。ミナはこの世の終わりみたいな顔で、たなから作業着とインカムを引っ張り出して来た。


 そして、現在。

 翔は作業着を着て、作業員のふりをして工事現場に潜り込み、ドブネズミの為に下水道の中を探索しているのである。


 ミナが気の毒だったのは本当だが、ドブネズミがネズミ捕りに引っ掛かっていようが、業者に駆除されていようが、翔にはどうでもいいことだった。あれよあれよという間に下水道へ送り込まれ、何処から何処までがミナの手の平の上だったのか見当も付かない。


 暗いトンネルを、ヘッドライトの光を頼りに注意深く進んだ。自分の足音が反響し、この世に一人きりになってしまったのではないかと急に心細くなる。




『もう少し行ったら、下水道の合流地点があるよ』




 気を付けて、なんてミナが呑気に言った。

 色々言ってやりたいことはあるが、この声が命綱であることを痛感し、翔は黙った。


 地響きのような音が聞こえて、まさか地震かと身構えた。こんな場所で生き埋めにされたら、絶対に助からない。

 慎重に一歩一歩と音の方へ近付けば、途端に視界が開けた。


 正方形の塔が地中深くに突き刺さっているみたいだった。四方から汚れた水が滝のように流れ落ち、凄まじい質量にコンクリートの壁が揺れているのである。


 圧巻の一言である。

 飛び散る排水と腐臭の中にありながら、まるで山奥の滝に辿り着いたかのような謎の達成感すらあった。

 下方には灰色の水が溜まっており、流れ落ちる排水を受けて激しく泡立っている。こんな中に落ちたら死体も揚がらないだろう。




『ウィローはその先に行ったみたい。追い掛けて』




 能天気に、ミナが言った。

 思わず、翔は怒鳴ってしまった。




「ふざけんな! 道なんてねぇんだぞ!!」

『あるよ。カメラを上に向けて』




 ヘッドライトの横にカメラが付いているらしい。

 用意周到過ぎて、人間不信になりそうだ。

 指示通り顔を上げると、スピーカーの向こうでミナが「ほら」と言った。


 排水の流れ落ちる無数の道から、コードが伸びている。ワイヤーにくくり付けられているが、所詮しょせんは電灯のコードである。ドブネズミは通れたかも知れないが、人間には不可能だった。


 念の為に手応えを確認したが、少なくとも翔の体重を支えられそうではない。ミナでも難しいのではないだろうか。




「無理だ。ぶら下がったら千切れる」

『何事も挑戦さ』

「じゃあ、お前がやれよ」

『God will not let you be tempted beyond what you can bear』




 小難しいことを早口で言うので、その英語は耳を通り抜けてしまった。

 翔は舌打ちを一つ零した。




「俺が此処で死んだら、お前は何をしてくれんだ? お前の常套句じょうとうくだろ」




 インカムの向こうでミナが笑った。

 外国のコメディアンみたいな笑い方だった。




『Okay, okay. Come back!』

「後で覚えてろよ」

『What do you mean?』




 もういい。

 脱力感と共に肩を落とした。

 ミナに悪意がなかったことは事実だし、翔の行為も善意だった。無邪気な子供の無謀な計画に巻き込まれただけのこと。


 インカムをめ直し、翔はきびすを返した。

 水流のうなりが何処までも、何処までも響いている。












 4.小さなてのひら

 ⑴善意の殺人














 下水道を歩いている内に、翔は或る昔話を思い出した。


 善良だが貧乏な老人が昼食のおにぎりを食べようとして、誤って落としてしまう。すると、おにぎりは木の根元にある穴に吸い込まれてしまった。

 穴を覗くと底から楽しげな歌が聞こえて、誘われるまま老人は穴の中へ下りる。穴の中はネズミの国で、老人はおにぎりの御礼に葛籠つづらを貰って帰るのだ。


 これを聞いた隣の老人は同じようにネズミの国へ行く。宝を目当てに猫の物真似をしてネズミを脅かしたのだ。ネズミ達は明かりを消してしまい、その老人は地中深くに取り残される。老人は彷徨さまよい続け、そのままモグラになったという。


 それが何処で誰から聞いた話なのかいまいち思い出せないが、自分の現状と重なる点があって、翔は身震いした。

 マンホールから顔を出し、太陽光を浴びた時には、自分がモグラにならずに済んだと安心したくらいだった。


 ほっと胸を撫で下ろした頃、出口まで導いたミナがつたない日本語で「おかえり」と言った。まったく、誰のせいだと思っているのだろう。




『ちょっと出掛けて来る』




 人を下水道に迷い込ませておいて、どういう神経をしているのだろう。翔は怒鳴り付けたかったが、通信は不躾ぶしつけに切断され、うんともすんとも言わなくなってしまった。


 地上に出て歩く途中、擦れ違う人が顔をしかめて距離を取った。普段は気にもしなかったが、どうやら今の自分は下水道の臭いが染み付いているらしい。


 近所のコインシャワーに寄って行くべきか迷ったが、そんな金はないのでそのまま事務所に戻った。自分がどれだけ大変な目に遭ったのか、ミナに知らしめてやろうと思ったのだ。


 事務所には、出た時と同じく立花が定位置で煙草を吹かせていた。翔の姿を認めると同時に鼻をつまんだので、僅かに胸のすく思いがした。




「ミナは?」




 臭い作業着のまま問い掛けると、立花は鼻をつまんだまま答えた。




「うるせぇから、奉公ほうこうに出した」

「はあ?」

「お前、臭ぇわ。うちのシャワー貸してやるから、洗って来い」




 なんだかよく分からないまま、鍵が投げ渡された。

 立花の事務所は地上三階建てのビルの二階にあるのだが、一階はテナントで、三階が彼の居住区域らしい。


 薄暗い階段を上がって鍵を回すと、事務所と同じような造りの部屋が現れた。床は灰色っぽいフローリングで、入ってすぐ、右手にキッチンがあった。


 事務所の給湯室とは異なる調理を目的とした造りになっていて、翔の知らない調理器具の数々が整然と並んでいる。


 左手側にバスルームがあった。

 奥にテーブルと椅子が二つ、観葉植物とベッドが見える。殺し屋なんて社会不適合者の仕事だと思っていたが、結構いい暮らしをしていたことに衝撃を受けた。


 色々と探索してみたかったが、今は兎に角、シャワーを浴びたかった。


 バスルームがそれなりに洒落しゃれていたので、もしかするとミナも此処に住んでいるのだろうかと思った。高そうなシャンプーを泡立てると、何処かぎ慣れた匂いがした。


 そういえば、立花は奉公ほうこうに出したとか言っていた。

 奉公ほうこうって何だっけ。熱いシャワーを浴び、ふかふかのタオルで髪を拭ってから、普段着に戻った。


 施錠してから階下に降りれば、立花は携帯電話を耳に当てて何か楽しそうに話していた。

 翔は臭い作業着をポリ袋に詰め、ソファにどかりと腰を下ろした。




「たまには服も洗え」




 立花は通話を終えたらしかった。

 そんなことが出来たなら初めからやっている。家があって、着替えが出来て、シャワーを浴びられるなんて翔にとっては贅沢ぜいたくな暮らしだった。


 今度、ミナに相談してみよう。

 雑用の報酬は自分の過去の調査料として消えてしまっている。食事が必要経費ならば、衣服も同じ扱いになるかも知れない。


 ぼんやりしていたら、突然、ドアが叩かれた。

 生憎あいにく、応対可能な事務員はいない。翔は重い腰を上げて扉を押し開けた。


 最初に感知したのは、花のような香水の匂いだった。

 染髪せんぱつされただろう明るい髪と、のりの効いたスーツ。化粧を施したその面は、とても気が強そうだった。


 キャリアウーマンを絵に描いたような女性が立っている。忙しそうに携帯電話を片手に握り、人工的な睫毛まつげを伏せ、翔には目もくれずに通り過ぎて行った。


 長い髪から甘い匂いがする。耳に下げられた金色のピアスが夏の日差しのようにまぶしかった。




「貴方が殺し屋?」




 開口一番に、女が言った。

 立花は怪訝そうに眉をひそめた。




「依頼か?」




 立花は席に座ると、参ったな、とでも言うように頭をいた。事前予約でも必要なのだろうか。

 翔は開けっ放しの扉を閉め、静かにソファへ戻った。すると、女は嫌そうに顔をゆがめ、にらんで来た。




「まさか、従業員? ドアマンにしては見窄みすぼらしいと思ったけど」




 ドアマンが何なのか分からなかったが、馬鹿にされていることは分かる。こんなところで怒っても無意味なので、翔は黙っていた。


 立花は溜息を吐いた。




「今はミナがいねぇんだよな」




 そう言って、立花は翔を呼び付けた。




「ミナの分までしっかり聞いとけよ」




 事務員の不在が自分に影響するとは思わなかった。

 翔は姿勢を正し、うなずいた。


 女は座りたかったのかも知れない。ふとそんなことを思ったが、今更勧められるはずもなく、翔は辺りを見回した。扉の近くに四人掛けのテーブルと椅子がある。

 テーブルの上から裏の白いチラシを引っ掴み、ペンを握った。女は座ることを諦めたのか壁に寄り掛かった。




「NDAの説明が欲しいわね」

「事務員が帰って来たら、封書で送ってやるよ」




 NDAって何だ。

 翔の疑問は解決されないまま、立花がペンを置くように言った。どうやら、記録を取ってはいけないらしい。

 何がなんだか分からない。ミナが帰って来たら訊くことだらけだ。頼むから、早く帰って来てくれ。


 女は部屋の中を直進して来た癖に、扉の前に椅子があったことに気付いて勝手に座った。

 立花は足を組んで定位置で踏ん反り返り、依頼人に先を促した。




「貴方はお金さえ払えば、どんな人でも殺してくれるの?」

「対象は選ばねぇが、事情は選ぶ。うちは復讐は専門外だ」




 女は、曖昧に相槌を打った。

 先にそれを確認するということは、ろくでもない依頼であることは間違いがなかった。翔はお茶でも出すべきか迷ったが、手順が分からなかったので、結局、ソファに座った。




「殺して欲しいのは、子供なの」




 ぎょっとした。

 立花が眉一つ動かさないのが恐ろしかった。女は立花の机に名刺と一枚の写真を乗せた。




「実の娘よ。……今、重い病気にかかってる」




 写真を覗きたかったが、女の気配が変わったので動けなかった。選択肢を誤ったら、依頼人が感情を爆発させてしまうような気がして怖かった。立花は気紛きまぐれだし、此処には間を取り持てるミナもいない。


 立花は写真を一瞥いちべつすると、女を見据みすえた。




「可哀想だから、殺してくれって?」

「……そうよ」




 滅茶苦茶だ。

 例えその子が重い病にかかっていて、余命幾ばくもなかったとしても、今は生きてる。母親ならば、どうして最期まで見守ってやらない?


 流石の立花も納得がいかないのか、問い掛けた。




「どうして自分でやらない?」

「貴方には分からないわ。人を殺すということが、どれだけリスクが高いのか」




 リスク?

 そういう話なのか?

 翔には分からなかった。立花は何も言わない。




「娘の苦しむ姿を見る度に、せめて楽に死なせてやりたいと思うわ」




 女の声は震えていた。

 伏せられた睫毛まつげの先に涙の雫が留まっている。

 立花は困ったように言った。




安楽死あんらくしは、法律上は認められてないんだっけか」




 立花は机に頬杖を突いた。

 それも後で、ミナに訊いてみようと思った。




「治療にどれだけのお金が掛かると思うの? うちにはもう、病院に支払えるだけのお金はないわ」

「……」




 何が正しいのか、翔には判断が付かなかった。

 重い病、幼い命、高い治療費、終わりない苦痛。楽にしてやりたいという母親の気持ちも分からない訳じゃない。だが、母親だろう。どうして、最期の時まで寄り添わない。どうして、他人任ひとまかせにする。


 立花は携帯電話を眺めると、溜息を一つ零した。




「いいぜ。その依頼、受けてやる」




 翔にはそれを責められない。

 室内は湿っぽい雰囲気が漂っている。




「詳細は封書で郵送する」

「ありがとう」




 女はハンカチで目元を拭うと、深く頭を下げた。


 静かに部屋を出て行った依頼人の残り香が鼻の奥にこびり付いているような気がして、翔は窓を開けた。

 窓の向こうにミナが歩いて来るのが見える。翔はほっとして、出迎えるべく事務所を飛び出した。

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