⑸拳
ミナが帰って来ないので、翔は街を探し歩くことにした。
眠らぬ街は庭みたいなものだと思っていたけれど、一本道を外れると路地裏や裏道が複雑に
時刻は午後九時半。未成年の子供を一人で歩かせるには不安な時間帯だ。
あの容姿で不審者に
翔はミナという子供のことをよく知らなかった。
普段どんなところで何をして、誰と関わっているのかも分からない。年齢が幾つくらいなのかも分からないし、本名も知らない。
当て所なく
嫌な記憶がフラッシュバックして、翔は
耳を
「ショウ?」
風船が割れるように、張り詰めた糸が切れるように、翔は意識を取り戻した。気付くとあの公園に来ていて、頭上から街灯が照らしていた。
熱に誘き寄せられた
街灯に巣を作る大きな
ミナが立っていた。
事務所を出た時と同じ黒いパーカーで、フードを深く被っている。まるで、出会った時のようだった。
「……俺に何か、出来ることはあるか?」
翔が問い掛けると、ミナは「こっちの台詞じゃない?」と笑った。先程までの落ち込みは跡形もなく消え失せていた。
「立花はターゲットを殺すんだろう。依頼は達成されるんだろう。だけど、そんな結末は納得出来ねぇよ」
ミナは、静かに頷いた。
何でもいい。何か出来ることはないのだろうか。
自分が正義の味方だなんて思ったことはないし、ヒーローになりたいとすら考えていない。だけど、此処で折れてしまったら、もう何処にも行けない。
「I'm glad you were there」
そんなことを言って、ミナは微笑んだ。
「……古海さんに会って来たよ」
ぽつりと、ミナが言った。
「この国は仏教をBaseに、色々な宗教が混ざっているんだね」
何の話だ。
翔が黙っていると、ミナが言った。
「お家の中にブツダンって言うのがあって、死んだ人を
ターゲットに接触すれば立花の仕事の邪魔になるし、ミナ自身が辛くなる。それでも、彼は居ても立っても居られなかったのだろう。
「奥さんは、妊娠していたそうだね。胎児は刑法上、人としては扱われない。産まれるまでは器物に分類されるんだって」
人はいつから人になるのか。
哲学かと思ったが、ミナが言っているのは刑法上の話だ。つまり、西岡が起こした交通事故で命を落とした胎児は器物として扱われ、過失致死ではなく器物損壊になるのだ。
遣り切れない話だ。
古海の家族は息子が産まれる日を心から待ち望んでいた。明日が来ることを疑わなかった。そして、理不尽に奪われた新しい命は、人としてすら扱われない。
「法律に血は通っていない」
分かっている。
法とは常に冷静な存在でなければならないし、
それなら、西岡は許されるのか。
「西岡さんは、事故の直後、その場を逃げ出した。もしも、すぐに救助してくれたら、古海さんの家族は助かったかも知れない。――なんて、希望的観測だ」
ミナは自嘲した。
「何が正しいのか俺には分からない。だから、俺は自分に出来ることをやりたいようにやる」
ミナは空を眺めていた。
街の光に照らされた夜空は明るく、星の一つも見えない。だが、濃褐色の瞳は美しく輝き、翔は其処に満天の星を見た気がした。
3.地獄に咲く花
⑸拳
駅前の広場は人で埋め尽くされている。
中点の太陽が石畳を照らし、物寂しげな街路樹も何処か風情が感じられた。街路に立ち並ぶ白い旗とテントは今日も賑わっている。
人集りの中央に、古海がいる。相変わらず安っぽい上下のスーツを着て、生真面目にネクタイをきっちりと締めていた。
周囲を取り巻く聴衆の中には、報道陣と思われる人も見掛けられた。携帯電話を構えて古海を写す無作法な野次馬も散見される。
この国は不思議な性質を持っている。
行列が出来ていれば並び、多数が肯定するものは受け入れる。果たして、この中でどれ程の人が彼の話を
演説を終えた古海が聴衆と固く握手をしている。
署名を集める遺族の元に長い列が出来ていた。
必要なのは質でなく、数なのだ。古海の言葉に突き動かされた人々が、水が低きに流れるように署名するのは好都合だった。
テントの中に戻った古海は、薄いタオルで汗を拭いていた。ダウンコートでもまだ寒い気温の中、彼だけが異質だ。
ペットボトルの水を
古海は快活に笑うと、その肩を叩いた。
「家に一人でいると、自分が生きているのか、死んでいるのか分からなくなる。君が来てくれて良かった」
そんな古海の言葉が、翔には痛かった。
愛する家族を失い、守るべきものを失くし、復讐すら
彼の怒りを、彼の嘆きを、彼の悲しみを、彼の遣る瀬無さを、翔には推し量ることが出来ない。中途半端な同情は彼を救えない。
もしも、彼が救われるとしたら、それはいつなのだろう。西岡の罪が
家族の死を無意味にしない為に、全国各地を回って事故の悲惨さを伝え歩くのだろうか。
「君の姿に、死んだ娘の未来を重ね見た」
古海はミナを指して娘と言った。やはり、この男の目にも彼は少女に見えているのだろう。
「ごめんね、君には何の関係もない話だった」
「It doesn't matter」
古海は笑った。
ミナは辺りに目配せした。そして、誰も聞き耳を立てていないことを確認し、声を
「Understand your feelings」
古海も、翔も聞き取れなかった。
ミナは小さく咳払いをした。
「大切な人を亡くしたことがある」
古海を映す瞳は、透き通るように美しく輝いている。けれど、それは初秋の日差しのように、今にも崩れてしまいそうに繊細に見えた。
「もしかしたら本当は生きているんじゃないかって、悪い夢を見ているだけなんじゃないかって、今でも思う。でも、そんな風に思う度に遣り切れなくて、死にたくなる」
古傷を
そんなことを語る必要はないし、肩入れする義務もない。だけど、それはきっと、古海の演説に対するミナの精一杯の誠実さだった。
古海は面食らったように目を丸めた。
「君は……」
「古海さん」
スタッフらしき女性が古海を呼んだ。
演説が始まる。聴衆は悲劇のヒーローを待ち望み、今か今かと首を長くしている。
古海は返事をすると、最後に振り向いた。しかし、何かを伝えようとして、彼は口を
その目に映るのは憎悪か、悲哀か、諦念か。願わくば、それが希望でありますようにと翔は祈った。
「移動しよう。彼の言葉を一番近くで聴きたい」
翔は
聴衆と報道陣に囲まれた古海は、緊張しているのか固い表情をしていた。ミナに手を引かれ、翔はその最前線に立っていた。
古海は自分達を見付けると少しだけ表情を和らげ、気を落ち着けるように深呼吸した。
「先月、僕は家族を亡くしました」
マイクを通した声は震えていた。
街頭に設置されたスピーカーから古海の声が雨のように降り注ぐ。
「高速道路の玉突き事故で、僕の妻と娘は亡くなりました。娘は三歳でした。そして、妻のお腹には息子がいましたが、誰一人助かりませんでした」
空気が湿気を帯びていく。
何処かで涙が落ち、鼻を
「昏睡状態から目覚めた僕は、全てを失っていました。……僕は、毎日のように子供達の未来を想像し、妻と語り合った。子供達はどんな姉弟になるのか、小学校へ入学する時は何色のランドセルがいいか、成人したら一緒にお酒でも飲みながら、互いの近況を話し合う。娘の寝顔を見ながら妻と語り合うのが、僕の何よりの楽しみでした」
遣り切れなくて、翔は目を伏せた。
「でも、もう叶いません。僕の家族は死んだ。死んだ人は二度と生き返らない……」
遺族だろう。古海の言葉に過去を重ね見て、堪え切れなくなったのだ。
「事故を完全に失くすことは難しい。車がいくら便利になっても、人が運転する以上はミスも起こる。……ですが、今回は違う」
古海の瞳に青白い炎が見える。それは
憎しみを捨てて前を向ける程、人は単純には出来ていない。
「事故を起こした車は、渋滞する車の列に凄まじいスピードで突っ込んで来た。被告人は過去にも過失運転致死によって人を死なせている。その時は示談で罪を逃れたが……」
古海は其処で不自然に言葉を切った。
顔からは血の気が引き、今にも倒れそうだった。翔は古海の視線の先を追い掛け、
駅前のベンチに、一人の男が座っている。
サングラスを掛けた金髪の男は、口元に不敵な笑みを浮かべて手を振っていた。
依頼人――西岡だった。
多数の死傷者を出した凄惨な交通事故を起こした西岡被告は、古海の演説を愉悦混じりに聞いていた。
腹の底から激しい怒りが込み上げて来て、翔はその男の首を
「……僕は、罪には罰が下るべきだと思う。遺族の悲しみを和らげ、死者の魂を慰める為ではなく、このような悲劇が二度と起こらないように」
その瞳を憎しみに燃やしながら、古海は声を震わせた。
「家族と同じ目に遭わせてやりたい。それが出来ないなら、可能な限りの厳罰を望みます」
古海と西岡の視線が交差する。――刹那、ミナが地面を蹴った。目の端で捉えた翔は、殆ど
ミナがつんのめったみたいに急停止する。金属を叩くような
一拍遅れて、悲鳴が
集まった聴衆はパニック状態に陥り、混乱と悲鳴の中を逃げ惑う。
美しい石畳の上に、古海が倒れていた。
首は有り得ない方向に曲がり、赤黒い血液と
立花だ。何処から狙撃したのか全く分からないが、彼は任務を遂行したのだ。
凄まじい勢いで世界が回って行く。その中で、翔とミナの周りだけが異様に静かだった。
悲鳴の中で、場違いな笑い声が
改札の横、ベンチに座った西岡が、両手を叩いていた。おかしくて堪らないと腹を抱え、ベンチごと引っ繰り返りそうな程に笑っている。
レンジが依頼を受ける度に、体の末端から死んでいくような気がする。
ミナが言っていた。翔にはその感覚が自分のことのように分かった。
意識は冷静そのものなのに、自分が何を仕出かすか分からない。此処に刃があれば、生きたまま西岡の腹を切り裂いて、その内臓を引き
そうして刃を探さなかったのは、自分の手がミナの腕を捕まえていたからだった。その小さな子供が翔を
サイレンの音が響き渡る。
非日常的な空間となった駅前で、報道陣が喚き散らす。遺族が古海に駆け寄って、患部である眉間を止血しようとタオルで圧迫しているのが、最早、
「Release」
突き放すような冷たい声で、ミナが腕を振り払った。
磁石に吸い寄せられるようにミナが歩き出す。向かう先は西岡の元だった。
激しい怒りが空気を歪めているようだ。
翔は舌打ちを漏らし、小さな背中を追った。
古海が狙撃される瞬間、ミナは地面を蹴った。翔が止めなければ、銃弾の前に飛び出して、古海を
ミナは、自分に出来ることをやりたいようにやると言った。その時から、行動が予測出来た。彼は最大限、
引き
動かない古海を指差して、西岡は歯を
「俺に
ミナの表情は見えない。けれど、笑っている筈もなかった。ミナが低い声で何かを吐き捨てた。恐らく、スラングだ。翔には聞き取れなかった。
顔を紅潮させた西岡が腰を浮かせる。ミナに手を伸ばした、その瞬間、翔は頭の中が真っ赤に染まった。
怒りが限界値を超え、衝動のままに西岡を殴り飛ばしていた。まるで、誰かに操縦されているみたいに現実感がなかった。
西岡はベンチに逆戻りし、そのまま勢いよく壁に衝突した。
サイレンの音や悲鳴が、まるで対岸の火事みたいに感じられた。
ミナが口を半開きにしたまま、目を真ん丸に見開いている。
彼が古海を
当然、一発殴ったくらいじゃ気は晴れない。西岡に触れた場所から自分の体が腐っていくような気さえした。
西岡は気を失ったのか、仰向けのまま起き上がらない。翔はミナの腕を引いた。
「行くぞ、ミナ」
ミナが頷いた。
大きな瞳に涙の膜が張っている。それが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのかは分からない。だが、この子供を残しておくことは出来ないと思った。
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