⑸拳

 ミナが帰って来ないので、翔は街を探し歩くことにした。


 眠らぬ街は庭みたいなものだと思っていたけれど、一本道を外れると路地裏や裏道が複雑にからみ合い、見知らぬ街を歩いているような感覚に陥った。


 時刻は午後九時半。未成年の子供を一人で歩かせるには不安な時間帯だ。

 あの容姿で不審者にさらわれていないだろうかと、何か物騒なトラブルに巻き込まれていないだろうかと思うと気が気じゃなかった。


 翔はミナという子供のことをよく知らなかった。

 普段どんなところで何をして、誰と関わっているのかも分からない。年齢が幾つくらいなのかも分からないし、本名も知らない。


 当て所なく彷徨さまよっていると、唐突に孤独感に苛まれた。波間を漂う木片みたいに、人の流れに呑み込まれてしまう。

 嫌な記憶がフラッシュバックして、翔はひざに手を突いた。鎖で繋がれているみたいに足が重かった。


 ひたいに汗がにじみ出て、地表が揺れているかのような目眩めまいがした。心臓が激しく脈を打ち、立っていられない。

 耳をつんざくような耳鳴りの中、何処か遠くで蝉時雨せみしぐれが聞こえた気がした。




「ショウ?」




 風船が割れるように、張り詰めた糸が切れるように、翔は意識を取り戻した。気付くとあの公園に来ていて、頭上から街灯が照らしていた。


 熱に誘き寄せられたが近付いては爆ぜて行く。

 街灯に巣を作る大きな蜘蛛くもと、糸に包まれた獲物が闇夜に浮かぶ。


 ミナが立っていた。

 事務所を出た時と同じ黒いパーカーで、フードを深く被っている。まるで、出会った時のようだった。




「……俺に何か、出来ることはあるか?」




 翔が問い掛けると、ミナは「こっちの台詞じゃない?」と笑った。先程までの落ち込みは跡形もなく消え失せていた。




「立花はターゲットを殺すんだろう。依頼は達成されるんだろう。だけど、そんな結末は納得出来ねぇよ」




 ミナは、静かに頷いた。

 何でもいい。何か出来ることはないのだろうか。

 自分が正義の味方だなんて思ったことはないし、ヒーローになりたいとすら考えていない。だけど、此処で折れてしまったら、もう何処にも行けない。




「I'm glad you were there」




 そんなことを言って、ミナは微笑んだ。




「……古海さんに会って来たよ」




 ぽつりと、ミナが言った。




「この国は仏教をBaseに、色々な宗教が混ざっているんだね」




 何の話だ。

 翔が黙っていると、ミナが言った。




「お家の中にブツダンって言うのがあって、死んだ人をまつっているんだって。其処にイコツって骨を、お墓に入れるまで置いておくそうだよ」




 仏壇ぶつだんに遺骨。つまり、ミナは古海の自宅まで行って、死んだ彼の妻と娘に手を合わせて来たらしかった。

 ターゲットに接触すれば立花の仕事の邪魔になるし、ミナ自身が辛くなる。それでも、彼は居ても立っても居られなかったのだろう。




「奥さんは、妊娠していたそうだね。胎児は刑法上、人としては扱われない。産まれるまでは器物に分類されるんだって」




 人はいつから人になるのか。

 哲学かと思ったが、ミナが言っているのは刑法上の話だ。つまり、西岡が起こした交通事故で命を落とした胎児は器物として扱われ、過失致死ではなく器物損壊になるのだ。


 遣り切れない話だ。

 古海の家族は息子が産まれる日を心から待ち望んでいた。明日が来ることを疑わなかった。そして、理不尽に奪われた新しい命は、人としてすら扱われない。




「法律に血は通っていない」




 分かっている。

 法とは常に冷静な存在でなければならないし、遵守じゅんしゅされなければ意味がないのだ。


 それなら、西岡は許されるのか。




「西岡さんは、事故の直後、その場を逃げ出した。もしも、すぐに救助してくれたら、古海さんの家族は助かったかも知れない。――なんて、希望的観測だ」




 ミナは自嘲した。




「何が正しいのか俺には分からない。だから、俺は自分に出来ることをやりたいようにやる」




 ミナは空を眺めていた。

 街の光に照らされた夜空は明るく、星の一つも見えない。だが、濃褐色の瞳は美しく輝き、翔は其処に満天の星を見た気がした。














 3.地獄に咲く花

 ⑸拳














 駅前の広場は人で埋め尽くされている。

 中点の太陽が石畳を照らし、物寂しげな街路樹も何処か風情が感じられた。街路に立ち並ぶ白い旗とテントは今日も賑わっている。


 人集りの中央に、古海がいる。相変わらず安っぽい上下のスーツを着て、生真面目にネクタイをきっちりと締めていた。

 周囲を取り巻く聴衆の中には、報道陣と思われる人も見掛けられた。携帯電話を構えて古海を写す無作法な野次馬も散見される。


 この国は不思議な性質を持っている。

 行列が出来ていれば並び、多数が肯定するものは受け入れる。果たして、この中でどれ程の人が彼の話を真摯しんしに聞き、共感してくれるのだろう。


 演説を終えた古海が聴衆と固く握手をしている。

 署名を集める遺族の元に長い列が出来ていた。

 必要なのは質でなく、数なのだ。古海の言葉に突き動かされた人々が、水が低きに流れるように署名するのは好都合だった。


 テントの中に戻った古海は、薄いタオルで汗を拭いていた。ダウンコートでもまだ寒い気温の中、彼だけが異質だ。

 ペットボトルの水をあおる古海は、此方に気付くと軽く手を振った。応えるようにミナが手を上げ、駆け寄って行く。


 つたない日本語で一言二言世間話をすると、ミナは丁寧に頭を下げた。どうやら、昨日家に押し掛けた礼のつもりだったらしい。

 古海は快活に笑うと、その肩を叩いた。




「家に一人でいると、自分が生きているのか、死んでいるのか分からなくなる。君が来てくれて良かった」




 そんな古海の言葉が、翔には痛かった。


 愛する家族を失い、守るべきものを失くし、復讐すらままならない彼の胸中は如何程いかほどか。


 彼の怒りを、彼の嘆きを、彼の悲しみを、彼の遣る瀬無さを、翔には推し量ることが出来ない。中途半端な同情は彼を救えない。

 もしも、彼が救われるとしたら、それはいつなのだろう。西岡の罪があばかれ、厳罰に処され、その後、彼はどうやって生きるのだろうか。

 家族の死を無意味にしない為に、全国各地を回って事故の悲惨さを伝え歩くのだろうか。




「君の姿に、死んだ娘の未来を重ね見た」




 古海はミナを指して娘と言った。やはり、この男の目にも彼は少女に見えているのだろう。




「ごめんね、君には何の関係もない話だった」

「It doesn't matter」




 古海は笑った。

 ミナは辺りに目配せした。そして、誰も聞き耳を立てていないことを確認し、声をひそめた。




「Understand your feelings」




 古海も、翔も聞き取れなかった。

 ミナは小さく咳払いをした。




「大切な人を亡くしたことがある」




 古海を映す瞳は、透き通るように美しく輝いている。けれど、それは初秋の日差しのように、今にも崩れてしまいそうに繊細に見えた。




「もしかしたら本当は生きているんじゃないかって、悪い夢を見ているだけなんじゃないかって、今でも思う。でも、そんな風に思う度に遣り切れなくて、死にたくなる」




 古傷をえぐるような生々しい声だった。

 そんなことを語る必要はないし、肩入れする義務もない。だけど、それはきっと、古海の演説に対するミナの精一杯の誠実さだった。


 古海は面食らったように目を丸めた。




「君は……」

「古海さん」




 スタッフらしき女性が古海を呼んだ。

 演説が始まる。聴衆は悲劇のヒーローを待ち望み、今か今かと首を長くしている。


 古海は返事をすると、最後に振り向いた。しかし、何かを伝えようとして、彼は口をつぐんだ。


 その目に映るのは憎悪か、悲哀か、諦念か。願わくば、それが希望でありますようにと翔は祈った。




「移動しよう。彼の言葉を一番近くで聴きたい」




 翔はうなずいた。断る理由も無かった。

 聴衆と報道陣に囲まれた古海は、緊張しているのか固い表情をしていた。ミナに手を引かれ、翔はその最前線に立っていた。

 古海は自分達を見付けると少しだけ表情を和らげ、気を落ち着けるように深呼吸した。




「先月、僕は家族を亡くしました」




 マイクを通した声は震えていた。

 街頭に設置されたスピーカーから古海の声が雨のように降り注ぐ。




「高速道路の玉突き事故で、僕の妻と娘は亡くなりました。娘は三歳でした。そして、妻のお腹には息子がいましたが、誰一人助かりませんでした」




 空気が湿気を帯びていく。

 何処かで涙が落ち、鼻をすする音が聞こえる。




「昏睡状態から目覚めた僕は、全てを失っていました。……僕は、毎日のように子供達の未来を想像し、妻と語り合った。子供達はどんな姉弟になるのか、小学校へ入学する時は何色のランドセルがいいか、成人したら一緒にお酒でも飲みながら、互いの近況を話し合う。娘の寝顔を見ながら妻と語り合うのが、僕の何よりの楽しみでした」




 遣り切れなくて、翔は目を伏せた。




「でも、もう叶いません。僕の家族は死んだ。死んだ人は二度と生き返らない……」




 人集ひとだかりの後ろで、嗚咽おえつが聞こえた。

 遺族だろう。古海の言葉に過去を重ね見て、堪え切れなくなったのだ。




「事故を完全に失くすことは難しい。車がいくら便利になっても、人が運転する以上はミスも起こる。……ですが、今回は違う」




 古海の瞳に青白い炎が見える。それは怨嗟えんさと憎悪に染まった悲しくも美しい復讐の炎だ。

 憎しみを捨てて前を向ける程、人は単純には出来ていない。




「事故を起こした車は、渋滞する車の列に凄まじいスピードで突っ込んで来た。被告人は過去にも過失運転致死によって人を死なせている。その時は示談で罪を逃れたが……」




 古海は其処で不自然に言葉を切った。

 顔からは血の気が引き、今にも倒れそうだった。翔は古海の視線の先を追い掛け、愕然がくぜんとした。


 駅前のベンチに、一人の男が座っている。

 サングラスを掛けた金髪の男は、口元に不敵な笑みを浮かべて手を振っていた。


 依頼人――西岡だった。


 多数の死傷者を出した凄惨な交通事故を起こした西岡被告は、古海の演説を愉悦混じりに聞いていた。

 腹の底から激しい怒りが込み上げて来て、翔はその男の首をめて殺してやりたいと思った。こんなクズが生き残って、古海の家族は全員死んだ。こんな不条理がまかり通っていいはずがない。




「……僕は、罪には罰が下るべきだと思う。遺族の悲しみを和らげ、死者の魂を慰める為ではなく、このような悲劇が二度と起こらないように」




 その瞳を憎しみに燃やしながら、古海は声を震わせた。




「家族と同じ目に遭わせてやりたい。それが出来ないなら、可能な限りの厳罰を望みます」




 古海と西岡の視線が交差する。――刹那、ミナが地面を蹴った。目の端で捉えた翔は、殆ど脊髄せきずい反射でその腕を引っ掴んでいた。


 ミナがつんのめったみたいに急停止する。金属を叩くような甲高かんだかい音が何処かで聞こえた。振り向いたミナは面に返り血を受け、驚愕きょうがくに目を見開いていた。


 一拍遅れて、悲鳴がほとばしった。

 集まった聴衆はパニック状態に陥り、混乱と悲鳴の中を逃げ惑う。


 美しい石畳の上に、古海が倒れていた。

 首は有り得ない方向に曲がり、赤黒い血液と脳漿のうしょうが眉間から零れ落ちる。

 立花だ。何処から狙撃したのか全く分からないが、彼は任務を遂行したのだ。

 凄まじい勢いで世界が回って行く。その中で、翔とミナの周りだけが異様に静かだった。


 悲鳴の中で、場違いな笑い声が木霊こだました。

 改札の横、ベンチに座った西岡が、両手を叩いていた。おかしくて堪らないと腹を抱え、ベンチごと引っ繰り返りそうな程に笑っている。


 レンジが依頼を受ける度に、体の末端から死んでいくような気がする。

 ミナが言っていた。翔にはその感覚が自分のことのように分かった。


 意識は冷静そのものなのに、自分が何を仕出かすか分からない。此処に刃があれば、生きたまま西岡の腹を切り裂いて、その内臓を引きり出して、取り出した心臓を目の前で踏み潰してやれる――。


 そうして刃を探さなかったのは、自分の手がミナの腕を捕まえていたからだった。その小さな子供が翔をいかりのように現実へ繋ぎ留めた。


 サイレンの音が響き渡る。

 非日常的な空間となった駅前で、報道陣が喚き散らす。遺族が古海に駆け寄って、患部である眉間を止血しようとタオルで圧迫しているのが、最早、滑稽こっけいだった。




「Release」




 突き放すような冷たい声で、ミナが腕を振り払った。

 磁石に吸い寄せられるようにミナが歩き出す。向かう先は西岡の元だった。


 激しい怒りが空気を歪めているようだ。

 翔は舌打ちを漏らし、小さな背中を追った。


 古海が狙撃される瞬間、ミナは地面を蹴った。翔が止めなければ、銃弾の前に飛び出して、古海をかばったのだ。


 ミナは、自分に出来ることをやりたいようにやると言った。その時から、行動が予測出来た。彼は最大限、足掻あがくつもりだったのだ。それこそ、命を懸けて。


 引きるような笑い声がとどろいている。

 動かない古海を指差して、西岡は歯をき出しにして笑った。ゆがみ、黄ばんだ歯列が彼の本性を表している。




「俺に楯突たてつくからこうなるんだ!! ざまァねぇなあ!!」




 ミナの表情は見えない。けれど、笑っている筈もなかった。ミナが低い声で何かを吐き捨てた。恐らく、スラングだ。翔には聞き取れなかった。


 顔を紅潮させた西岡が腰を浮かせる。ミナに手を伸ばした、その瞬間、翔は頭の中が真っ赤に染まった。


 怒りが限界値を超え、衝動のままに西岡を殴り飛ばしていた。まるで、誰かに操縦されているみたいに現実感がなかった。


 西岡はベンチに逆戻りし、そのまま勢いよく壁に衝突した。


 頬骨ほおぼねに打ち付けた拳に静電気みたいな痛みが走る。

 サイレンの音や悲鳴が、まるで対岸の火事みたいに感じられた。


 ミナが口を半開きにしたまま、目を真ん丸に見開いている。


 彼が古海をかばおうとしたことも、西岡が救いようのないクソ野郎で殴る価値すらないことも知っている。だから、これは翔の腹癒はらいせで、エゴだった。


 当然、一発殴ったくらいじゃ気は晴れない。西岡に触れた場所から自分の体が腐っていくような気さえした。


 西岡は気を失ったのか、仰向けのまま起き上がらない。翔はミナの腕を引いた。




「行くぞ、ミナ」




 ミナが頷いた。

 大きな瞳に涙の膜が張っている。それが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのかは分からない。だが、この子供を残しておくことは出来ないと思った。

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