⑷断崖絶壁
事務所の扉を開けた瞬間、
煙の元には予想通り、立花がいた。眉間には深い皺が寄り、明らかに不機嫌だった。
ミナは換気扇のスイッチを入れると、一直線に窓に向かって大きく開けた。幾分か明瞭になった室内で、換気扇が勢いよく回り始める。
指先に煙草を挟んだまま、立花が言った。
「あの依頼人がまた来たぞ」
地を這うような低い声だった。
ミナはブラインドの紐を弄りながら問い掛けた。
「西岡のこと?」
「他にいねぇだろ。俺は依頼を並行してやらねぇ」
唾を吐き捨てるような口調だ。
苛立っているのは分かるが、ミナに当たるなよな。
そんなことを思ったが、ミナは毛程も気にしていなかった。
「何で?」
「俺の仕事に条件を付けて来やがった」
立花は八つ当たりみたいに煙草を入念に灰皿に押し付けて、忌々しげに言った。
「なるべく派手にってよ」
「ふざけんな!!」
思わず、翔は怒鳴ってしまった。
こんなクソ野郎は他に聞いたことがない。人の命を軽んじ、罪を忘れ、その場の愉悦を貪るだけのゴミだ。生きている価値すらない。
ミナは目を細めた。
「受けるの?」
「さあな。……お前次第だ」
立花はミナを見て言った。
ターゲットのことを調べるのはミナの仕事だ。恐らく、ターゲットの自宅やスケジュール、人間関係。立花が仕事を行う為に適切な情報を提供しているのだろう。
高梁が殺された時も、ミナが調べたのだろうか。
ふと、そんなことを思った。そして、彼はどんな気持ちでその情報を提供したのだろうか。
「お前の持って来た情報の中で、それが一番適切と思えば、俺は依頼人の期待に応えて派手にやってやる」
立花は笑っていた。
彼は元々機嫌が悪かった。その八つ当たりだ。――だからといって、ミナがそんなものを背負う必要は無いはずだ。
ミナが何かを考え、口を開こうとした刹那、翔の右手は振り抜かれていた。
立花の澄ました横っ面目掛けて殴り掛かったつもりだった。だが、初動で読んでいたのか立花は往なすようにして躱した。
そのまま腕を掴まれた。物凄い力だった。折られる前に身を
翔が体勢を立て直す間も無く、立花の拳が眼前に迫っていた。間一髪で
「ショウ!!」
胃液が逆流する。翔は奥歯を噛み締めて、吐き気を呑み込んだ。
「ミナに、八つ当たりしてんじゃねぇ……!」
振り
「八つ当たり? 何処が?」
「――こいつが、望んで協力してる訳ねぇだろうが!!」
右ストレート。怒りを込めた一撃は、容易く避けられた。立花は翔の関節を押さえると、そのまま後頭部を掴んで地面に叩き付けた。
コーヒーテーブルに置かれたマグカップが倒れ、床に飛び散った。それはまるで、誰かの悲鳴のように聞こえた。
三半規管が激しく揺さぶられ、立ち上がれない。
鼻は無事か? 血が止まらない。
それでも、此処で立ち止まれない。
軍人みたいな身のこなしだった。
桜田が言っていた。そうだよ。この男はプロの殺し屋で、一般人じゃない。俺みたいなガキが敵うはずないじゃないか。
それでも!
震える足で立ち上がれば、立花は煩わしそうに顔を
あとはもう一瞬だった。
強烈なローキックを食らって体勢を崩した瞬間、天地が引っ繰り返って、床に倒されていた。
翔が起き上がる間もなく、眉間に冷たい鉄の塊が押し付けられた。
銃口だ。
だが、不思議と恐怖は無かった。
立花は観察するような眼差しを向けて来る。金色の右目に、もう怒りは無かった。
「お前、格闘技でもやってたのか?」
知らない。覚えていない。
この街には血の気の多い連中が沢山いる。喧嘩の中で
「どうしてミナを庇う?」
立花は冷静だった。その金色の瞳は、真実を見極めようとしている。
翔は悲鳴を上げる体に
「俺はミナの味方だ」
床に仰向けに倒れたまま、情けない。
だけど、目は
「……だってよ、ミナ。どうする?」
ミナは静かだった。
精密な検査をしているみたいな慎重さで、目に見えない何かを見定めようとしているようだった。
立花は銃口を突き付けたまま、猛禽類の目でミナを
「あの依頼人はクソ野郎だ。生きてるだけで迷惑を掛けるゴミ以下の産業廃棄物だ。だが、俺はプロで、依頼を受けた。ターゲットは必ず殺す」
ミナは口を真一文字に結び、俯いていた。
こんな理不尽な話があっていいのかよ!
翔は拳で床を叩き、
「此処はまだ地獄じゃねぇぞ」
翔は反論した。
「もうとっくに地獄だろ……!」
立花は目を眇めた。
悔しくて堪らない。
無意味と分かっていても、翔は訴えた。
「あの交通事故で何人死んだと思ってんだ! その上、あいつは遺族まで殺そうとしてんだぞ!」
「結構なことじゃないか。俺はそういうゴミみてぇな依頼をこなして、飯を食ってんだ」
「アンタに、良心はねぇのか!」
「お前のいう良心って何なんだ? 誰にでも親切に、誰もが幸せに、皆で仲良しこよしか?」
立花の目は冷たかった。
ずっと、そうだ。彼は人の命を軽んじている。
ミナが言った。
「俺は、選ぶよ」
翔は目を剥いた。
何を選ぶというのだろう。こんな小さな子供が何を背負うというのだ。
ミナは答えなかった。
黙ったままパソコンの前に座り、ディスプレイを
3.地獄に咲く花
⑷断崖絶壁
パソコンに向かうミナは、呼吸すら忘れたみたいにキーボードを叩き続けていた。ディスプレイには無数の窓が出ては消え、まるで
何をしているのか翔には分からないが、何か凄いことをしていることだけは分かった。
眺めているだけで吸い込まれそうだ。立花は、天才だけに許された高次元の集中状態だと言った。
秒針が天を指し示した時、ミナの集中は糸が切れるようにして終わった。途端、
汗の雫が
「ターゲットの行動範囲とスケジュールは把握出来たよ。街の監視カメラと携帯のGPSをハッキングしたから、ターゲットの現在地は常に最新にしてある」
データを送るよ、とミナが言った。
立花は携帯電話を取り出し、口角を釣り上げた。
「上出来だ」
偉いぞ、と立花はミナの頭を撫でた。まるでペットでも扱うかのような態度だった。ミナはその手を振り払うと、
ネックレスでもしているのか、金属の触れ合う微かな音が聞こえた。
「レンジが依頼を受ける度に、俺は体の末端から死んで行くような気がする」
機械の合成音声みたいに抑揚のない声だった。
立花は携帯電話のディスプレイを見ながら、退屈そうに言った。
「最後に残るのは心臓か? それとも、脳か?」
「どちらが幸せなんだろうね」
首元から手を離し、ミナは席を立った。
「ショウ。俺のことはもう、
そんなことを言って、小さな背中は事務所の外へと消えて行った。追い掛けることは出来なかった。何より、彼自身が
扉が閉ざされると、事務所は翔と立花の二人きりになった。立花は携帯電話をポケットに押し込み、定位置に座って新聞を広げた。
テレビばかりが騒がしく、虚しかった。
「ミナが可哀想だ」
立花は乾いた笑いを漏らした。
「そう思うなら、ターゲットに接触させるべきじゃなかったな」
確かに、そうなんだろう。
自分が
「仕事を選ぶのはプロじゃねぇって言ってたけど、仕事を選べないのは三流の証拠なんじゃねぇの」
「口だけは達者だな」
立花は新聞から目を上げると、冷たく言った。
「大衆の語る正義は借り物で、良心なんてものは上から目線の同情だ。そんなもんで救えるものに大した価値はねぇ」
それは立花の価値観だ。彼には彼なりの信念や矜持があって、それは誰にも否定することは出来ない。
だけど。
「だけど、俺は救われたんだよ」
過去を持たない自分は、透明人間と同じだった。
誰も振り向かないし、期待もしない。自分を呼んでくれる存在も、ましてや手を差し伸べてくれる人もいなかった。
ミナが自分を呼んだ時、スポットライトが当たったように感じられた。この世界に生きていてもいいんだと言ってもらった気がした。彼にどんな意図や思惑があって、利用されているだけだとしても、構わないと思った。
「アンタにとって価値のあるものって何なんだ? 人の命を金に換えて、最後に何が残るんだよ」
「青臭ぇこと言ってんじゃねぇよ。
立花は軽薄に笑っている。
自身を卑下しているようではない。青臭いと言ったように、
これ以上の問答は無意味だ。
居た堪れなくて、翔は
「善も悪も、貫くには強さがいる」
振り向くと、立花はライターを握っていた。
小さな火が灯ると、その面は笑っているように見えた。
では、弱者は死ねというのか。
だから高梁は死に、ミナは従ったとでも?
翔は拳を握った。
けれど、それを振り
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