⑸人を呪わば
郵便を出すなんて初めてだった。
ポストには二つの
一度戻って訊くべきなのだろうか。しかし、ミナが正解を知っているとも思えない。
細かい文字の説明書きがあるので読んでみたが、所々読めない漢字があった。時々、あるのだ。目では見えているのに、特定の文字が
注意書きには英語が添えられていたので、やはりミナを呼ぼうと思った。お使い一つこなせないのでは情けないが、失敗するよりはマシだと思った。
その時だった。
「翔くん?」
聞き覚えのある声がして、翔は振り返った。
ヘッドライトが
どうしてこんな所にいるのだろう。
先程の遣り取りを思い出し、翔は彼女の顔を見られなかった。だが、高梁は翔の手に郵便物があることに気付くと、
高梁は説明書きを丁寧に説明して、翔の代わりに
じゃあね、と高梁が去って行こうとするので、翔はつい、呼び止めていた。
「なあ、アンタ。信念を貫く為には覚悟がいるって言っていたな。もしも、その為に死ぬかも知れないとしたら、アンタはどうする?」
高梁は自転車を停めて、微笑んだ。
「後悔はしないわ。私は自分の正義を信じて、後悔の無いように生きて来た。例え、私が
彼女の覚悟は変えられない。
立花もそうだろう。彼等は覚悟を持って進んでいる。自分が口を出す権利なんて、初めから無かったのだ。
それでも、願うことは許されるだろうか。
彼女の幸せを、未来を、正義を信じることは間違っているだろうか。もしも自分や彼女が悪だと言われるのならば、正義なんてものには何の価値も無かった。
「アンタに会えて良かったよ」
翔が言うと、高梁は微笑んだ。
彼女が夜道に消えて行くのを、翔は最期まで見送った。鼻の奥がつんと痛んで、涙が溢れそうだった。
2.正義の矛
⑸人を呪わば
事務所に新聞が届いていた。
翔がそれを開いたのは、
大見出しは大麻所持で逮捕された芸能人の話題だった。それから交通道路の玉突き事故、迫り来る台風の脅威。
新聞の端に、都内で女性の変死体が発見されたと書かれていた。その名前を見た時、翔は泣き出したいような、叫び出したいような激情に駆られた。
警察は、女性が犯罪に巻き込まれたものとして捜査している。そう
自分に何か出来たとは思わない。だけど、彼女が何も成し遂げられず、理不尽に命を奪われたということを思い出す度に、苦しくて何かに八つ当たりしたくなる。
立花は依頼を遂行した。ならば、これから自分があの依頼人を殺したとしても、彼の邪魔をしたことにはならないはずだ。
翔が立ち上がった時、給湯室からミナが現れた。
「散歩に行かない?」
まるで、タイミングを見計らったみたいに。
気を使われたのだろう。
けれど、それを退けられる程の気力も残っていなかった。ミナは翔を引っ張って、街へ飛び出した。
繁華街に近い住宅地は、息を殺すようにひっそりとしていた。寂れた商店街は
駅前ともなると人々が多くなり、それだけ騒がしかった。香水と腐臭の混じった街は、哀しい程、いつも通りだった。
交番の前を横切った時、
親しげに一言二言話し、ミナは歩き出した。
散歩と言っていたが、目的地があるような歩き方だった。ミナは軽い足取りで繁華街を突き進みながら、先程の警官の話をした。
「桜田さんって言うんだ。この街に来たばかりの頃はよく道に迷っていたから、いつも助けてもらったよ」
「……あんまり一人で出歩くなよ。危ねぇだろ」
ミナは笑っていた。
二駅分くらいの距離を、引っ張られるように歩いた。辺りの景色に見覚えがある気がして見渡していると、何処からか線香の匂いが漂って来た。
モノクロの箱みたいな建物があった。
メモリアルホールと書かれている。それが何なのか、ミナが自分を何処へ連れて来たかったのか、その時になって
翔はミナの手を振り払った。
「――余計なお世話なんだよ!!」
翔が声を上げると、ミナは目を細めた。
周囲の人々が一斉に振り返る。それが銃口だったなら自分達は今頃、蜂の巣になっていただろう。けれど、ミナはそのまま幼子にするみたいに翔の顔を両手で挟み、逃がさないとばかりに覗き込んで来た。
視界一杯に広がる天使の瞳は、相変わらず美しく、残酷に透き通っていた。その時にはもう、周囲のことなんて意識の外だった。
いいかい。
語り聞かせるような落ち着いた声で、ミナが言った。
「この世は残酷で、理不尽で、不条理なんだ。必ずしも救いがあるとは限らないし、何でもかんでも救える訳じゃない」
そんなこと、お前に言われるまでも無い。
ミナに何が分かるんだ。お前みたいな恵まれた子供に、俺の何が――!
「
「……何なんだよ、お前……」
普段は英語交じりの片言の日本語しか話さない癖に、どうしてこんな時ばかり訳知り顔でつらつらと語るのだ。
「彼女の行いが正しかったのか、間違っていたのか。意味があったのか、無かったのか。……君がその目で見届けろ」
翔は確かな違和感を抱いた。
自分は、ミナという少女を計り違えているのではないか。そんな形容し難い違和感が、足元から悪寒のように包み込む。
「Come on」
ミナが歩き出す。翔は見えない糸で引っ張られるみたいに、その小さな背中を追い掛けていた。
高梁世那の葬儀は、とても小さかった。
関係者以外は立ち入れない。しかし、親族のいない彼女の葬式は異様な静けさの中で粛々と進められているようだった。
受付で、ミナは
昔お世話になりましたと、両親の代理で参りましたと、嘘だか本当だか分からないことを言って、傷ましげに目を伏せた。
香典に書かれていたのは、翔の知らない名前だった。偽名だろう。こんな子供が香典を出しに来るなんて怪し過ぎる。
線香臭いホールに、念仏が響く。
何を言っているのか分からない。会場から出て来る人が肩を寄せ、涙を零していた。仕事の為に生きていた彼女を、悼んでくれる人が身近にいたということが、翔にとっての救いだった。
どのくらいそうしていたのか。
ミナは背筋を真っ直ぐに伸ばして、葬儀場の出口を見張っていた。そして、徐に立ち上がった。
「Hello」
其処にいたのは、あの依頼人だった。
事務所で会った以来だ。確か、ホリイレイイチロウ。
男はミナを見て放心したように見惚れたが、すぐ様辺りを見回した。そして、周囲の視線を避けるようにミナをホールの端へ促した。翔は慌てて追い掛けた。
男は笑っていた。
翔は自分の右手を必死に押さえた。こんな男はどうなっても良い。だけど、彼女の葬儀をぶち壊しにする訳にはいかない。
ミナは微笑んでいた。仮面のような冷たい微笑みだった。その周囲の空気が下がって行くのを、翔だけが感じていた。
「三代目にも宜しく言っておいてくれたまえ。――それから、もしも寂しくなったら、連絡してくれよ?」
男はミナに名刺を差し出した。
「彼女は残念だった。きっと今頃、天国でご両親に会えただろう」
翔は右手を押さえていられなかった。
どの口が言うんだ!
思い切り振り被って、その男の頬を。
ミナは静かに名刺を受け取ると、微笑んだ。
「だけど、アンタは地獄に落ちろ」
絶対零度の声で、ミナが吐き捨てた。
男は何を言われたのか分からなかったようだった。翔は振り上げた拳を下ろせぬまま、ミナの顔を
英語じゃない。
今、ミナはなんて――。
「彼女の正義は必ずアンタを貫くだろう」
ミナは男の目の前で名刺を破くと、
「桜田さん?」
交番にいた警官だ。
桜田は男に何か話し掛けていた。見る見る内に男の顔から血の気が抜けて行く。
ミナが、言った。
「He that hurts another hurts himself. ――この国ではなんて言うんだっけ?」
ああ、そうだ。
ミナは無邪気に手を打った。
「人を呪わば穴二つ。行いは必ず返って来る。罪には、罰だ」
死人のような顔色になった男が、その場に崩れ落ちる。何が起きているのか分からない。葬儀場の外は
野次馬が群れを作る。パトカーが数台、葬儀場の前に停められていた。
ミナは人集りを堂々と横切って行く。向けられた背中は小さく頼りないのに、凛と背筋を伸ばす様が妙に力強く見えた。
依頼人に
築き上げられた来たミナという人間像は、
「お前、何をしたんだ?」
人集りを抜けたタイミングで、翔は問い掛けた。
ミナは意味深な笑みを浮かべて、口の前に指を立てた。翔は舌打ちをした。語るつもりはないらしい。
この子供は、重大な何かを知っている。
まるで、依頼人が逮捕されることが初めから分かっていたみたいだった。
ミナは考え事をするように顎に指を添えた。
「答えが欲しいのなら、それに見合った報酬をちょうだい」
翔はそれでも問わずにいられなかった。
「お前は、何者なんだ」
畳み掛けるように翔は言った。
目の前にいるこの少女は多分、ただの子供じゃない。
「どうして、殺し屋の所にいる。何の為に」
「最初に言っただろ。Trunp cardが欲しいって。日本語ではなんて言うんだっけ……」
ミナは頭を
「切り札だ」
I want a trump card ――.
確かに、そう言っていた。
「俺は、切り札が欲しいんだ」
思わず耳を疑った。
ミナの言葉には違和感があった。聞き違いかと思ったが、翔は念の為にと問い掛けた。
「……今、俺って言ったか?」
ミナは不思議そうに首を捻り、さも当然と言わんばかりに答えた。
「俺は男だ」
今度こそ、翔は言葉を無くした。
男?
この天使のような
嘘だろ。
ミナは不満そうに口を尖らせた。
「俺の名前はミナト。Please call me Mina. 改めて、宜しく」
されるがままに、翔は握手をしていた。
ミナト――。
それで、ミナか。
荒れた手の平は、
衝撃が大き過ぎて事実を飲み込むのに時間が掛かった。翔はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
そもそも、立花が姫なんて言うからだ。
翔は頭を
「Are you okay?」
思い出したように英語を使いやがって!
苛立ちのままに
まあ、いい。
ミナが男で、自分が手札として期待されていたとしても、やるべきことは何も変わらない。
翔はミナの手を掴み、笑った。
「いいぜ。お前が何者なのか知らねぇが、俺だってただ利用されるつもりはねぇ」
「……」
「俺はお前の踏み台にはならねぇぞ」
ミナは目を瞬いた。子犬のような円らな瞳が、西陽を浴びてきらきらと輝いている。
夕焼けに照らされながら、ミナはあの日と同じことを言った。
「君の働きに期待してる」
翔は鼻を鳴らし、その手を振り払った。
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