⑷半端な覚悟

「湿布ある?」




 翔が言うと、ミナは小首を傾げた。




「Did you get injured?」

「いや、ちょっと」




 ミナは曖昧あいまいうなずいて、たなから救急箱を取り出した。

 木製の箱の中には、見たこともない医療器具が詰まっていて驚いた。簡単な手術なら此処でも出来そうだ。


 ミナは真空パックの中から一枚の湿布を手渡し、追求はしなかった。言い訳を考えていなかったので、ありがたい。


 事務所のソファが硬いせいだと思ったらしく、ミナは英語で簡単な柔軟を教えてくれた。確かにそのせいで関節は痛かったけれど、隠し事をしていたので後ろめたかった。


 朝ご飯と言ってミナが出して来たのは、どんぶり一杯のお茶漬けだった。昨晩のおにぎりも味が無かったし、料理は苦手なのだろうか。

 ほのかに梅の味がする。蓮華れんげですくって食べていると、ミナはパソコンの前に座った。




「昨日の調査、どうだったんだ?」




 ミナは、振り返ると目を眇めた。




「What about the target? Or is it the client?」

「全部。分かっていることがあるなら、知りたい」

「教えてもいいけど、――君は何を支払うの?」




 ミナは無表情だった。

 翔は言葉に詰まった。




「It ’s not a charity. 此方の情報に見合うだけの対価をちょうだい」

「……」

「It does n’t have to be money」




 妥協したように見せて、釘を刺している。

 報酬なく成果は得られない。天使のような顔をしているが、殺し屋の事務所で働いている子供なのだ。ただの子供ではない。


 翔が黙っていると、ミナは許容するように微笑んだ。




「半端な覚悟じゃ、何も成し遂げられないよ」




 こんな時ばかり、やけに流暢りゅうちょうに喋りやがる。




「食べ終わったら、sinkに置いといてね」




 そう言って、ミナは背を向けてしまった。

 集中状態に入ったミナが聞こえていないのを良いことに、翔は舌打ちをした。














 2.正義の矛

 ⑷半端な覚悟
















「シビアな考え方をするのね」




 昼下がりのオフィス街。

 青い芝生の広場は昼食を取るOLがちらほら見掛けられた。翔は風呂敷に包まれたおにぎりを咀嚼そしゃくしながら、苛立ちをぶつけるように地面を蹴った。


 高梁と二人、洒落しゃれたベンチに腰掛けて昼食を取っていた。理不尽には慣れていたし、罵倒ばとうされるのも日常茶飯事だったはずなのに、苛立ちが収まらない。


 パソコンの前から動かないミナを放って、翔は高梁の元へやって来た。調査のつもりだったのに、彼女がとても穏やかなので、つい要らぬ愚痴ぐちこぼしてしまった。


 ミナの言うことは、もっともだった。だから、翔は反論出来なかった。自分達の間にある請負契約は、ミナが自分の過去を調査する代わりに、自分が雑用をこなすというものだ。思えば、自分は何の働きもしていない。


 けれど、高梁は優しく微笑み、聞いてくれた。




「どんな子なの?」

「分かんねぇ。でも、悪い奴じゃないと思う」

「じゃあ、きっと貴方を心配してくれたのね」




 心配?

 そうだろうか。




「成果を得る為に報酬を支払うように、信念を貫くには覚悟がいるわ。その子が欲しいのは、そういうものなんじゃない?」

「……分かんねぇよ」




 ミナはお金じゃなくても良いと言っていた、と思う。

 英語だったのでよく分からない。けれど、お金じゃないのなら、自分は何を支払えるのだろう。


 翔は味の無いおにぎりを嚥下し、問い掛けた。




「信念を貫くには覚悟がいるって言ったな。それって、アンタの経験談?」

「……ええ、そうよ」




 高梁は広場を眺めていた。けれど、翔には、彼女の目にはもっと遠い何かを見ているように感じられた。




「七歳の時に両親が交通事故で死んでから、施設で育ったの。本当に酷い所だった。職員は怠慢たいまんで、子供達は残酷なヒエラルキーに従って、新入りを甚振いたぶるのよ。嫌でしょう?」




 そういえば、立花も同じようなことを言っていた。




「同室の男の子がリーダーでね、私をレイプしようとしたから、思わず殴っちゃったのよ。そしたら、徹底的に無視されるようになったの」

「……大人に言わなかったのか?」

「面倒なことには首を突っ込まない。それが暗黙あんもくのルールだった」




 最低の環境だ。

 立花はクソみてぇな施設と言っていた。もしかしたら、彼もそれなりの苦労をして、辛苦しんくを味わって来たのかも知れない。




「イジメられていた子を庇って、大人達に反抗したこともあったわ。そうしたら、施設を追い出されてしまったの。別の所に行ったけど、何処も同じような環境で、嫌になったわ。だから、強くなろうと思ったの。こいつ等を見返してやる! ってね」




 元々、正義感を持った気の強い性格だったのだろう。



 高梁は明るく笑っていた。

 朝がまぶしく感じられるのは、夜の闇を知っているから。彼女の笑顔は、そういうものに思えた。


 こんなのおかしいだろ。

 翔は遣り切れなかった。こんなに苦労して来た人が、何も得られないまま、志半こころざしなかばで理不尽に殺されるなんておかしいじゃないか。


 翔は拳を握った。

 感情を呑み込んだのは、冷静でなければ何も出来ないことを知っているからだ。




「仕事は楽しいか?」




 翔が問い掛けると、高梁は答えた。




「ええ、勿論!」




 純真な笑顔に、翔は何も言えなくなる。

 今すぐ仕事を辞めて身を隠せとは言えなかった。彼女は自分の夢を叶える為に努力をして来た。翔が幾ら言っても、彼女は逃げないだろう。


 何が出来るだろう。

 俺に何が。


 ふと思い出して、翔はポケットの中を探った。

 くしゃくしゃになった湿布が入っていた。乾燥してしまったせいで固まっている。そういえば、ミナは真空パックに入れていた。


 湿布が乾いてしまうことなんて、知らなかった。


 翔がそれをポケットに押し込もうとすると、高梁が尋ねたので、渋々押し付けた。




「昨日、足首痛めてただろ。だから、……やる」




 高梁ははにかむように笑った。短く礼を言って、ストッキングの上から湿布を貼った。

 乾燥していたせいで、粘着力が落ちているらしい。がれそうなそれを片手で抑えながら、高梁はハンカチを巻いた。


 彼女と別れて事務所に戻ると、ミナがエプロンを着けていた。黒地のシンプルなデザインだった。

 時刻は午後六時。夕食の支度をしているらしい。




「オカエリ」

「ああ。……いつも此処で作ってんの?」

「Sometimes」




 給湯室から香ばしい匂いがする。何を作っているのか全く分からないが、美味そうだ。


 事務所の定位置に立花がいた。

 相変わらず、新聞を片手に煙草を吸っている。翔はたまらない気持ちになって立花に詰め寄った。




「……なあ、あの依頼、本当に受けるのか?」

「あの依頼?」




 立花は新聞から目を上げた。




「昨日の依頼だよ。女の人を殺すって」

「ああ……」




 立花はゆっくりと煙草を灰皿に押し付けた。

 伏せられた視線が持ち上げられる。――その瞬間、金色の瞳が冷酷に光った。




「どうしてそれを訊く?」




 金色の瞳が翔を射抜いた。


 途端、まるで喉元を手の平で押さえ付けられているかのように呼吸が出来なくなった。




「ミナ!!」




 立花が声を上げた。それは室内を震わす程の怒鳴り声だった。


 給湯室から顔を覗かせたミナが目を真ん丸にする。

 立花は床を鳴らすような足音を立てにじり寄ると、ミナの胸倉を引っ掴んだ。




「お前、こいつに何を言った?」

「What do you mean?」




 ミナは困惑したような顔付きだった。しかし、立花は答えを聞くこともなく、そのまま壁に押し付けた。


 ミナの手にあったフライ返しが床に落ちる。それはまるで、遠い世界のことみたいに聞こえた。




「何度目だ? 俺の仕事の邪魔をするな」




 鼻が付きそうな程の距離で、立花が恫喝どうかつする。血の気が引いて、指先の感覚が消える。

 壁に押し付けられたミナの爪先は床を離れていた。金魚のように口を開閉させながら、喘鳴ぜんめいに変わる。思わず、翔は叫んでいた。




「止めろ!」




 翔は立花の肩を掴んだ。だが、気付くと天井が見えて、翔の身体は床に倒れていた。


 何が起きたのか分からない。

 だが、良くない状況であることは分かる。




「ミナは何もしてない! ――俺が、俺が勝手にやったんだ!!」




 立花は顔をゆがめ、舌打ちをした。

 空気が凍るような殺気をにじませながら、立花はミナを離した。


 床に座り込んだミナが激しく咳き込んでいる。

 立花が眉をひそめ、翔の胸倉を掴んだ。




希死念慮きしねんりょの暴走か? こっちはガキのお遊びでやってんじゃねぇんだよ」

「分かってる。でも!」

「お前、ターゲットに接触したな? それで、情でも移ったか?」

「……!」




 何も言い返せなかった。

 金色の瞳には怒りが浮かんでいる。まるで銃口を突き付けられているみたいに、戦慄せんりつが体を貫き、歯の根が合わずにガチガチと鳴った。




「正義の味方にでもなったつもりかよ。俺は、殺し屋だぞ」




 分かってる。そんなこと、分かってる。

 でも、もしかしたら、彼がその手をゆるめるのではないかと。彼女の生い立ちに同情して、助けてくれるんじゃないかと。――そんなはずないって、知っていたのに。




「仕事を選ぶのはプロじゃねぇ。受けた依頼は必ず遂行する」

「Renji!」




 掠れた声で、ミナが叫んだ。


 翔には聞き取れなかったが、ミナは自分を庇っていた。まくし立てるような早口で、見上げる程の身長差の相手にすがっている。


 ずっとそうだ。自分はいつもこの子に助けられて、かばわれて、何の対価も払えない。


 立花は突き放すみたいに翔を解放した。

 そのまま怒りを散らすみたいに足音を鳴らし、立花は事務所を出て行ってしまった。扉が壊れそうな程の酷い音が虚しく響いた。


 緊張の糸が切れて、翔はその場に崩れ落ちた。血相を変えたミナが駆け寄って来る。

 ミナの小さな手の平が背中を撫でる。その度に自分が情けなくて不甲斐なくて、泣きたくなった。




「ごめんな、ミナ」

「どうして、謝るの」

「俺のせいで……」

「元々、そういう契約でしょ」




 自分がやったことは、ミナが責任を取る。一番初めに立花から言われたことだった。自分達は仲良しこよしの友達ではない。


 分かっていた筈だ。

 ミナが責められたのは、自分のせいだ。


 余りの情けなさに顔を上げられなかった。

 うつむいていると、ミナが一度小さく咳き込んだ。




「Don't waste your preparedness」




 顔を上げた時、ミナはすでに冷静だった。

 嵐の前の静けさみたいな、静謐せいひつな顔付きをしている。




「Oh well, ショウに仕事を頼もうかな」




 ミナが明るく言った。浮かべられた微笑みは、作為的さくいてきではないが、場を明るくする為の意図的な笑顔だった。




「郵便を出して来て欲しいんだ。All right?」




 気丈に振る舞うミナがいじらしくて、自分の愚かさが恨めしかった。


 たなから取り出されのは何の変哲へんてつもない茶封筒だった。


 まるで、子供のお使いだ。

 だけど、憤慨ふんがいする権利も自分には無かった。


 翔はそれを受け取り、頷いた。

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