⑶基幹
夜のオフィス街は賑やかだった。
帰宅を急ぐサラリーマンが道を埋め尽くし、居酒屋は閑散としている。平日とあれば、当然なのかも知れない。
行き交う人々は振り返らない。
駅を目指し、携帯電話を握り、早足に歩いて行く。彼等には守るべきものがあるのだろう。それは自分の生活だったり、家族だったり、命だったりする。
翔は、一際大きなビルのエントランスで立ち尽くしていた。時刻は午後八時を回ったところだ。ビルの中では今も忙しなく働く人々がいるのだろう。
エントランスは眩く見えた。
スーツを着た人々が駅の改札みたいにごった返している。帰宅する人と残業する人は何が違うのだろう。翔には想像も出来なかった。
ミナを追うことは出来なかった。当然、ターゲットの自宅も知らない。だが、彼女が霜山学館の東京本社で働いていることは聞いていた。其処で待っていれば、彼女に会えると思ったのだ。
一時間、二時間と待つ内に、自分の考えが甘かったことを思い知る。ターゲットは出て来ない。今日は出勤していないのかも知れない。それとも、もう帰ってしまったのか。
馬鹿みたいだ。
ビルの灯りが少しずつ消えて行く。
出直すべきだろうか。帰った時、ミナや立花に追求されたら答えられない。自分のやっていることが自己満足であることも分かっている。けれど、殺されそうな人を助けようとすることに、論理的な理由が必要とは思えなかった。
時刻が午後十一時半を過ぎた時、ビルの明かりは完全に消えた。天を
その時、一人の女性が出て来た。
長い黒髪を夜風に泳がせ、
翔は辺りを見回した。此処で依頼人に見付かったら、立花も立場を失う。
周囲を警戒しながら、声を掛けるタイミングを見計らった。駅の方向に歩いて行くので、焦った。翔は電車に乗るだけの金を持ち合わせていなかった。
電車に乗るものかと思ったら、彼女は駅の裏手にある駐輪場へ消えた。自転車通勤なのかも知れない。それはまずい。
翔が焦って追い掛けた時、一台の自転車が飛び出して来た。
甲高い急ブレーキの音が鳴り響いた。
間一髪で衝突を
「大丈夫ですか?!」
焦ったような女性の声が頭の上から聞こえた。
翔が顔を上げると、ターゲット、高梁世那が自転車を降りて駆け寄って来るのが見えた。
「何処かに怪我は? 本当にごめんなさい!」
彼女には悪いが、ぶつかってはいないし、飛び出したのは翔だ。無視して通り過ぎてしまえばいいのに、馬鹿だな、と思った。
けれど、そうして此方の身を案ずる姿が、出会った時のミナに似ていて、胸が温かくなった。
「俺は大丈夫。アンタは?」
「私は平気よ。本当に――」
高梁が顔色を悪く問い掛けた時、翔の腹の虫が鳴いた。高梁がぽかんと口を開ける。翔は、顔から火が出る程、恥ずかしくなった。
「お腹が空いてるの?」
笑いを噛み殺しながら、高梁が言った。
翔は腹を押さえて舌打ちを漏らした。思えば、昨夜、ミナから肉まんをもらって以来、何も食べていなかった。
高梁は鞄の中から板チョコを取り出すと、半分に割った。明るい笑顔で手渡され、翔は目を伏せて受け取った。なんだか最近、こんなことばかりだ。
不意に彼女の足元に目が行った。
足首の辺りのストッキングが伝線して、関節が青紫に変色していた。捻ったのか、ぶつけたのか。
どうやら痛めてしまったらしい。自転車を降りて押すことにしたらしいが、高梁は片足を引き摺っていた。
何だか放っておけなくて、翔は代わりに自転車に乗った。後部座席を指すと、高梁は驚いたような顔をして、擽ったそうに笑った。
自転車の二人乗りは禁じられているらしいが、緊急事態だ。警察に注意されたら、そう言おう。
高梁を後部座席に乗せ、翔は地面を蹴った。自転車に乗るのは久しぶりだったので緊張したが、漕ぎ出してしまえばスムーズに運転出来た。
夜風は冷たかった。だが、背中に乗せた高梁が温かくて、気にならなかった。
高梁の案内に従って、自宅近くのコンビニまで自転車を
「あなた、いくつ?」
「二十歳」
「若いねぇ」
そうだろうか。
翔には分からない。ただ、自分も彼女くらいの年齢になったら、二十歳が若く感じられるのかも知れない。
「ご家族が心配してるんじゃないかしら」
「家族は、いねぇ」
錆びたチェーンが悲鳴を上げている。
翔が答えると、後ろで高梁は笑ったようだった。
「私と一緒ね」
何処かで秋の虫が鳴いている。名前は知らないし、興味も無かった。
「お名前を訊いてもいいかしら」
「じゃあ、アンタが先に名乗れよ」
「ふふ。私は高梁世那」
知ってる。
俺は、アンタを暗殺しようとしてる殺し屋の仲間なんだ。アンタは腐った上層部のせいでゴミみたいに殺される。
そんなこと、言える訳もない。
「お仕事は?」
「フリーターだったけど、今は違う。なんか、事務所の掃除したり、子供の相手したりしてる」
自分はアルバイトなのか、それとも、正社員なのか。
仕事内容も自分が一番よく分かっていない。
何が可笑しかったのか、高梁が笑った。
「私は霜山学館ってところで、子供の教材を作ってるの」
「へえ。何で?」
「勉強って楽しくないじゃない? だから、楽しく勉強出来たら良いなって思ってね」
でも、アンタは勉強したんだろ?
楽しくなくても、辛くても、そうするしか無かったから。
「昔は施設にいたの。最低な所だったわ。彼処から抜け出す為には、勉強するしか無かった。私はこうして働けるけど、此処まで這い上がれない子供は沢山いる。同じような境遇の子を助けたいと思った。……でも、私が本当に助けたかったのは、昔の自分なのかも知れない」
顔が見えないせいか、高梁はやけに饒舌だった。
彼女のやっていることは独善だ。だけど、あのクソみたいな依頼人よりは、ずっとマシだった。
もう近くだから、と高梁が言った。
翔は近くのコンビニに自転車を停め、手渡した。彼女の足首は腫れている。自宅まで送るべきなのだろうか。せめて、コンビニで氷でも買ってやれたら良いのに、何も出来ない自分が
「翔くん、送ってくれてありがとね」
「……お大事に」
「ええ。貴方も」
小さく手を振る彼女は、幼い少女に見えた。
夜の闇に消えて行く背中を見詰めながら、翔は今にも駆け出しそうな自分を必死に抑えた。
今もミナは彼女の身辺を調査して、立花は暗殺の準備を進めている。金色の瞳が高梁を狙撃する様が
2.正義の矛
⑶
事務所に戻ると、立花が新聞を読んでいた。
殺し屋も新聞を読むんだなと遠いところで考えながら、室内を見回した。
ミナはいなかった。まだ調査しているのだろうか。
翔の視線を察したらしく、立花が言った。
「ミナはいねぇぞ。子供は寝る時間だからな」
「……何処で?」
「それを答える理由があるか?」
まあ、尤もだ。
兎に角、ミナは無事に帰宅して、何処かで就寝しているらしい。それなら良い。
給湯室を覗くと、お盆の上に大きなおにぎりが二つ並んでいた。ショウへ、と
まさか立花が用意したとは思えない。一応、訊いてみたら、ミナだと言われた。
両手で抱える程に大きい。
ラップを外して
もう一つは塩むすびだった。
油性マジックで、でかでかとSHOと書かれている。
ミナのマグカップは淡い水色で、立花のものらしきマグカップは何の面白味も無い無地だった。けれど、裏側にやはり油性マジックで鳥の絵が描かれていた。
何故だろう。
立花と鳥を結び付けるものが思い付かない。
マグカップ一杯の水道水を飲み干して、翔は事務所に戻った。立花は新聞を読みながら煙草を吹かせていた。
「アンタ、何で殺し屋なんかやってんの」
「何で?」
立花は翔の言葉を繰り返して、目を瞬いた。
「需要があるからだろ」
「そういう意味じゃなくて」
立花は何かを考えるように天井を眺め、煙草を灰皿の縁で叩いた。灰が粉雪みたいに舞って、吸い殻の山が崩れる。
「俺も昔は、お前と同じようなクソみてぇな生活をしてた。その時、助けてくれた人がいた。その人が殺し屋で、後継者を探していたから、そのまま俺が継いだ」
それだけ。
立花はそう言って、皮肉っぽく笑った。
「三代目って呼ばれてたのは、それでなのか?」
「そうだよ。俺の恩人は二代目だった」
殺し屋が襲名制とは知らなかった。
翔には、立花が答えてくれるのが意外だった。初めて会った時もそうだったが、この男は殺し屋ということも隠さなかった。ならば、彼は何処までのことを教えてくれるのだろう。
思い切って、翔は尋ねてみた。
「復讐を請け負わないのは、何でなんだ?」
理由によっては、その矛先を変えられるのかも知れない。そんな打算に、立花はゆっくりと煙を吐き出して答えた。
「だって、面倒臭いだろ。きりがねぇ。不毛だ。やられたらやり返されるのが世の常だ。俺はそんな因果に縛られた人生は
不毛。確かに、そうなんだろう。
彼の言うことは理に適っている。ビジネスと割り切っているのかも知れない。
何となく思い付いて、翔は尋ねた。
「ミナは四代目なのか?」
「ミナが?」
立花は噴き出すように笑った。
馬鹿じゃねぇの、有り得ねぇ。そんな風に否定するので腹が立ったが、ほっとした。あんな純真そうな少女がいつか銃を握って、罪も無い人々を殺すのかと思うと、恐ろしかった。
立花は悪童のように笑った。
「――まあ、それも面白いかもな」
何が面白いのだ。
あんな小さな少女が、立花のように仕事だからと割り切って、人を殺す仕事をするなんて最悪の未来だ。
立花は冗談だと笑ったけれど、翔は信じることが出来なかった。金色の目は相変わらず冷めていて、感情の
「俺はもう寝る。朝になったらミナが来るから、朝飯でも出してもらえ」
「……」
「じゃあな」
そう言って、立花は席を立った。
黙って電灯を切って行ったので、翔は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます