⑵ドブネズミのウィロー

 傷だらけの手から小銭こぜにが零れ落ちる。

 伸ばした手の平に落ちたそれは冷たかった。


 落書きだらけのコンクリートの壁を、無数の配線が蛇行だこうする。左右から押し潰されるかのような息苦しさに目眩めまいがした。


 人並みの生活をしたいとは思わない。

 生きる為なら幾らでも汚れ仕事をする。この街は、自分のような社会のゴミがあふれ返っている。


 夜の繁華街は毒々しいフィラメントに照らされている。熱帯魚のような衣装に身を包んだ娼婦しょうふが、夜の闇を泳いで行く。


 生きる為には金が必要で、金を得る為には働かなければならない。そして、働く為には名前と過去が必要で、後者を失くした自分は、道具のように消耗しょうもうされるしかない。それは坂道を転がり落ちる岩のように、何処までも、何処までも。


 駅前に設置された巨大なディスプレイは、高速道路で起きた凄惨な交通事故を報道している。スタジオでは偉そうな顔をしたコメンテーターがありきたりな正論を並べ、民衆は好き勝手に他人を評価し、滅多めった打ちにする。


 翔には、まるで遠い国の紛争を聞いているように感じられた。彼等の言葉は泡のように浮かんでは消えて行く。


 噴水広場は人でごった返している。誰もが取りかれたかのように携帯電話を眺め、笑顔の仮面を付けて彷徨さまよい歩く。


 下らない。吐き気がする。――けれど、そんなゴミみたいな奴等と同じ土俵にすら立てない自分は、一体何なのだろう。


 誰かに必要とされることもなく、振り返られもせず、消費されて行く命を惜しんでくれる人もいない。

 名前を呼んでくれる人もいなければ、最期の時に呼べる名もない。




「ショウ」




 何処からか声がして、翔は足を止めた。

 振り返る。噴水の石段、小さな子供が座っていた。雑踏の中、その子供は太陽のような存在感を放ちながら、子犬のように人懐ひとなつこく微笑んでいた。




「また、会えたね」




 つたない日本語で、その子供は言った。


 不意に腹の虫が鳴いた。羞恥しゅうちを覚える程のプライドも無かった。翔が歩み寄ると、子供は自分の隣を指して笑った。




「いつも、お腹を空かせてるね」

「うるせぇな」




 翔が隣に座ると、子供は目を細めて笑った。

 どうやら、多少は日本語が通じるらしい。

 子供は腕から下げたビニール袋に手を伸ばし、中から白い塊を手渡して来た。柔らかな表面は丸みを帯びて、まだほかほかと温かい。




「What is this?」

「肉まん」

「ニクマン」

「そう」




 子供はその言葉を何度も繰り返しながら、昨日と同じように半分に割った。そうして両方を見比べて、大きい方を差し出して来る。


 思わず受け取ってしまい、翔は自分の危機感の無さに愕然がくぜんとした。相手が子供とは言え、自分は何をしているのだ。


 だますか騙されるか、奪うか奪われるか。この世は弱肉強食で、弱い者から死んで行く。それなのに、この子供は当たり前のようにほどこし、弱者や敗者を生かそうとする。


 気紛れな憐れみとは思えなかった。

 何故だろう。その子供の透き通るような瞳の前では、虚勢きょせい矜持きょうじも無意味に感じられた。




「お前、日本語が話せたのか?」

「Just a little」




 翔が相槌あいづちを打つと、子供は白い歯を見せた。

 多少は話せるらしい。翔は退屈凌たいくつしのぎのつもりで問い掛けた。




「こんなところで何してんだ」

「Willowを追い掛けていたんだ」

「ウィロー?」

「Yes!」




 小さな指が路上を指差す。

 噴水広場の端にはホームレスの作った段ボールハウスが並んでいる。知り合いでもいるのだろうかと視線を泳がせれば、子供はチチチと舌を鳴らした。


 すると、側溝から丸々と太ったドブネズミが顔を出した。表皮は濡れたように黒く、太い尻尾はまるで蚯蚓みみずのようだった。




「His name is Willow!」




 翔は呆気に取られてしまった。

 まさか、一人でドブネズミを追い掛けて来たのだろうか。


 ウィローはピンク色の鼻をヒクヒクと動かすと、再び側溝の中へ消えてしまった。子供は残念そうに嘆息たんそくを漏らした。


 この子供は何なのだろう。

 思えば、名前も歳も、性別すら分からない。


 東洋の顔立ちをしながら英語を話し、子供でありながら繁華街を好きに彷徨さまよう。孤児のようには見えない。仕草一つ一つにしつけが行き届き、衣服も清潔だ。愛されて来た者特有の自信のようなものが感じられる。




「この辺りは物騒だから、あんまり一人で出歩くな」

「ブッソウ」

「ええと」




 英語では何て言うんだ。

 頭を掻きむしりたくなる。苛立ちを抑えながら、翔は肉まんを頬張ほおばって誤魔化した。




「お前、いくつなの。名前は」




 子供は忙しそうに肉まんを咀嚼そしゃくしながら、答えようと指を折る。翔が答えを待っていると、子供は突然、腰を上げた。




「It looks like Willow has found something!」

「はあ?」

「Shall we go together?」




 何かに誘われていることは分かったが、それが何を指しているのかは分からなかった。ただ、目の前の子供はとても楽しそうにしていた。まるで、新しい玩具おもちゃを見付けた幼子おさなごのように。


 断る言葉も見付けられず、翔も立ち上がった。

 その子供が嬉しそうに笑うので、それで良いかと思った。










 



 1.宴安酖毒

 ⑵ドブネズミのウィロー













 その子供が再びドブネズミを追い掛け始めたのだということに気付いたのは、繁華街の路地裏に差し掛かった時だった。


 ドブネズミを追い掛けて、翔も知らないような裏道を抜け、幾つもの高いさくを越え、他人の敷地を通過し、今度はマンホールの蓋を開けようと四苦八苦している。


 急に自分が酷く馬鹿なことをしているのだという自覚が芽生えて来て、虚しくなる。その子供の目的も意味も全く分からない。




「其処は開けられねぇよ」




 腰に手を当て、翔は言った。

 マンホールというものは、勝手に開けることは出来ないのだ。そもそも、開けようと思ったことはないが、誰でも自由に開けられるのなら危険だろう。


 しかし、そいつは諦めない。

 鍵は掛かっていないと宣言して、マンホールの蓋に人差し指を掛けて引き上げようとしている。


 忠告するのも加担するのも馬鹿らしくて、翔はその場にしゃがみ込んだ。翔が手伝わなくても、その子供はしばらくマンホールの蓋と格闘していた。


 留め具が腐食しているのかも知れない。

 子供はそんなことを言ってから、ポケットから携帯電話を取り出した。ドブネズミに発信機でも仕込んでいたのか、界隈の地図を眺めている。


 子供が操作すると、地図は三次元になった。地下深くを潜る道はまるで木の根のようだった。




「お前、何がしてぇの」




 溜息混じりに問い掛けると、子供はあごに指を添えた。

 どんな答えが聞けるのかと待っていたが、結局、何も答えなかった。適切な和訳が出来なかったのかも知れないし、答えは無かったのかも知れない。


 時刻は午後十時を過ぎている。その子供が未成年ならば補導される時間だ。


 子供は蓋を開けることは諦めたのか、携帯電話を眺めながら言った。




「地図を作ってる」

「地図? 下水道の?」

「ゲスイドウ? Sewer?」




 子供がジェスチャーで地下を通る道を表現するので、翔はうなずいた。この子は日本に来て日が浅いのかも知れない。だから、語彙ごいが少ないのだろう。


 下水道の地図が一体何の役に立つのだ。

 三次元的な地図を理解している様子を見る限り頭が良いのだろうが、一人でドブネズミを追い掛ける程度には危機感が足りていない。




「お前みたいなガキは、学校の宿題でもして、家で大人しく寝てろ」

「ショウは?」

「俺は良いんだよ」

「Why?」




 当たり前のように問い掛けて来る。不快に思わなかったのは、きっと、その子供が余りに無邪気だったからだった。




「ショウは家に帰らないの?」

「忙しいんだよ」




 ふうん、と曖昧あいまいに頷いて、子供はそれ以上追求して来なかった。とても納得したようには見えない。




「Then I will go home」

「ああ」

「See you again」




 携帯電話をポケットに戻し、その子供は可愛らしく微笑んだ。向けられた背中はとても小さく、頼りなく見える。送るべきだろうか。否、それこそ通報されるかも知れない。


 路地裏から表通りに向かう背中をぼんやり眺めていた。また会うだろうか。会えると良いなと思った。ドブネズミを追い掛けて随分ずいぶんと走り回ったけれど、久しぶりに、――楽しかった。




「またな」




 何となく口にすると、子供は振り向いた。

 天使の微笑みで、子供が手を振る。――その時、表通りの光をさえぎって、無数の影が道をおおった。




「また会ったな」




 聞き覚えのある粘着質な口調だ。嫌悪感に顳顬こめかみ痙攣けいれんする。其処に並んでいたのは、昨夜、ぶん殴った若い男たちだった。


 鼻ピアスの男が愉悦に顔を歪める。

 翔は舌打ちを漏らした。彼等が何かを言うより早く、翔は子供を背中に隠した。




「何の用だ」




 うなるように言えば、男達は笑った。

 嵐の前に木々がさざめくようだ。


 昨夜よりも数が多い。一人、二人、三人、四人。それが両手で数えるよりも多いと分かってから、翔は数えることを止めた。


 弱い者程、群れるものだ。

 弱者は徒党を組んで強者を打ち倒そうとする。それはこの世界で当たり前のことだった。そして、やられたらやり返されるということも。


 自分が殴られるのなら、構わなかった。報復される理由がある。だけど、この子供はどうだ。何か罪を犯しただろうか。


 子供をかばって、この人数を相手に立ち回れるか。

 無理だ。それなら、翔が選ぶ方法は一つしかない。




「逃げろ!」




 翔が叫ぶと、子供は弾かれたように駆け出した。

 罵声ばせいを上げた金髪が手を伸ばす。翔はその腕を掴み、ひざに叩き付けた。

 骨の折れる乾いた音が響き渡る。悲鳴と雄叫び、罵声と怒声が炎のように噴き出した。




「ショウ!」




 悲鳴みたいな声が自分の名を呼ぶ。視界がまるで、スポットライトが当たったみたいに明るくなる。

 翔はほくそ笑んだ。こんな世界で、こんな状況で、自分の名前を呼んでくれる人がいる。




「行け!!」




 振り切られた拳をかわし、後頭部を引っ掴む。

 あんな子供に、ドブネズミを追い掛けるような愚かな子供に心配されている。


 子供は走り出したようだった。スキンヘッドが追い掛ける。翔はそのえりを掴んで引き倒した。顔面をかかとで踏みにじる。アスファルトが真っ赤に染まった。


 その瞬間、亡失したはずの記憶が脳裏を過った。


 作り掛けの夕食、血塗れの父が机に突っ伏している。

 母は台所で、フローリングに倒れていた。

 西陽の差し込むリビングに、血の川が流れている。


 赤かった。

 両親も、生家も、自分の両手も。


 頭が痛い。割れそうだ。



 ああ、俺は、何をしたんだっけ?

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