⑶路地裏の死神
口の中は血で一杯だった。
吐き出す間も無く
頭が痛かった。鉄の
「ガキは何処に行った?!」
「さっさと捕まえろ!」
あのガキは、まだ捕まっていないらしい。
翔は拳を握った。自分の体が限界で、意識を保っているのもギリギリなのだと分かった。それでも、此処で諦める訳にはいかなかった。
此処で立ち上がれなかったら、もう自分は何処にも行けないという脅迫めいた確信があった。
家族を亡くしたあの日から、自分は独りきりだった。誰にも必要とされず、見向きもされず、名前を呼ばれることもなかった。
どうせこの世は欠陥だらけの欠陥品そのものなのだ。幾ら願っても、祈っても、縋っても何も変えることは出来ない。
この街は人で
だけど、あの子だけが。
あの子だけが、名前を呼んでくれた。
手の平の感覚が無かった。
体中の気力を
視界が白く
男達が何かを叫んだ。
翔には最早、聞き取ることが出来なかった。
「ショウ!」
酷い耳鳴りの中、その声はまるで夜明けを告げる
薄暗い路地裏に小さな影が
「馬鹿、野郎……!」
明るい未来が約束されているような、恵まれた子供だった。誰もが振り向き、助けたいと願い、振り向いて欲しいと祈るような違う世界の子供だ。
「どうして……、どうして!」
逃げろと言った。その子が助かればそれで良かった。その為だけに拳を振るい、勝てない喧嘩を買って、自己犠牲なんてらしくもないことをしたのに。
「どうして、戻って来たんだ!!」
その子供は、微かな月明かりの下で確かに笑ったのだ。
「また会おうって、約束したから」
翔を
「一度別れたら、また会えるとは限らないでしょ?」
その子供は、泣き出しそうに笑った。
胸が締め付けられるように痛くなる。
氷が溶けるように、涙が溢れた。
「You guys are all morons」
取り囲む男達を睨み、子供が吐き捨てる。
意味は分からなかった。だが、許しを
「ぶっ殺してやる!!」
激怒に染まった怒声が
鋭利な刃が、月光を反射するのが見えた。
「逃げろ!!」
翔が叫んだ時、刃は既に子供の頭上にあった。
もう誰も間に合わない。そのナイフは無慈悲に肉を裂き、子供の命を奪う――はずだった。
空気の抜けるような奇妙な音が聞こえた。時が止まったかのような異様な静寂に包まれる。金髪の男の体がぐらりと揺れて、そのまま、倒れた。
誰も動けなかったし、誰も何も発しなかった。
アスファルトに倒れた金髪の男は、ぴくりとも動かなかった。
誰かが尻餅をついた。
アスファルトに赤い染みが広がって、路地裏はパニックに
地を揺らすような悲鳴が
誰かが叫んだ。
死んでる、と。
金髪の男は動かない。
路地裏を埋め尽くしていた男達は一斉に逃げ出した。まるで、化け物にでも遭ったみたいに。
真っ赤な記憶がフラッシュバックする。
混乱と動転の中、乾いた足音が静かに響いた。
「お怪我はありませんか、お姫様?」
若い男の声だった。
それは真っ黒な影に見えた。街の灯に照らされたその男は、小さな子供の前に歩み寄ると、微かに笑ったようだった。
金髪の男は動かない。握られていたナイフはアスファルトの上に投げ出され、虚しく月明かりを映している。
死神は
途端、背筋が凍った。
金色の
それは
血と火薬、煙草の臭いが鼻を突く。
本能が逃げろと叫んでいる。殺されるぞ、と。
非現実的な光景の中、翔の視界は銀色の砂嵐に包まれてしまった。
1.宴安酖毒
⑶路地裏の死神
包丁が
他愛も無い一日になる筈だった。
台所で母が夕食を用意していて、少し早く帰宅した父がリビングで新聞を読んでいる。退屈なニュースはBGMのように通り抜けて行って、自分は温かいベッドで朝を迎える。
だけど、日常なんてものは
両親は
家具の彼方此方に血液が飛び散っていた。
テレビだけが
見下ろした自分の両手は真っ赤だった。
目の前に誰かがいたような気がした。
誰だったのか、分からない。思い出せない。忘れてはいけないはずなのに、思い出すことが怖かった。
あれは――……。
階段を踏み外したかのような転落感と共に目が覚める。全身が汗で湿っていた。全力疾走の後みたい息が苦しい。最低最悪の寝覚めだった。
酷い
自分が何処かの事務所のソファに寝かされていたことに気付く。最後の記憶を
安っぽいベージュのソファは煙草の
あれからどのくらい経ったのか。此処は何処なのか。
果たして、一体、誰が?
何の為に?
体が重い。
不意に、甘い匂いがした。
メンソールみたいな花の匂いだ。
カタカタと、タイピング音が聞こえた。
それは
悪夢の理由を悟り、翔は溜息を吐いた。
窓から離れた壁際、室内であることも構わずにパーカーのフードを深く被った子供がいる。パソコンのブルーライトに照らされ、その面は青白く見えた。
「おい」
寝起きのせいで
自分の声が
もう一度声を掛けるべきか迷ったが、何と無く、眺めていた。見れば見る程、綺麗な顔をしていた。神様の
長い
十代前半くらいか。顔立ちは東洋系だが、英語を話していた。年齢はおろか性別すら分からないし、あの時、己の危険を
「目が覚めたんだな」
背後から声がして、冷や水を浴びせられたかのように心臓が凍る。翔は振り向くことが出来なかった。後ろに、死神が立っている。
死神は翔の脇を通って、取り
若い男のように見えた。伸ばし掛けみたいな黒髪が微かに波を打っている。
「おい、ミナ!」
死神はパソコンを叩いた。
ミナ、と呼ばれた子供はコミカルに肩を跳ねさせた。
「What are you doing! What to do if broken?」
「うるせぇ。客が起きたぞ」
「Is that for real?」
円らな瞳に翔が映る。
ミナと呼ばれた子供は嬉しそうに椅子を飛び降りて、子犬のように駆け寄って来た。
「大丈夫?」
濃褐色の瞳には、労りの色が滲んでいた。けれど其処には、まるで心の中を見透かすような
「此処は何処なんだ」
「Ah, I wonder what I should explain」
「分かんねぇよ」
「説明が難しい」
翔の言葉を理解したらしく、ミナは日本語に切り替えた。困ったように頭を抱え、死神を振り返る。
死神の左目は金色に輝いていた。見間違いじゃなかった。けれど、その右目には医療用の眼帯を付けていた。あの時、その目の下に何か
「此処は俺の事務所だ。こいつがテメェを助けたいって言うから、連れて来た」
死神はミナを指差して、
どうやら、ミナが手当をしてくれたらしい。
「こいつはミナ。優秀な事務員で、うちの姫だ」
死神は
笑った顔は何処か幼く見えた。
姫。そういえば、あの時もそう言っていた。
少女だったのか。砕けた口調やフランクな態度のせいで、何となく少年のように感じていたが、違ったらしい。しかし、夜の繁華街を一人でドブネズミを追い掛ける程度には、愚かな子供だ。優秀とは程遠い。
「俺は
宜しくな、と立花は
翔は一瞬、言葉を失った。差し出された左手と爽やかな笑顔に流されそうになるけれど、この男、何て言った?
「こ、殺し屋?」
「依頼を受けて人を殺す健全な仕事さ」
健全?
何を言っているんだ?
ミナは何でもないことみたいに微笑んでいる。自分がおかしいのだろうか。翔は頭痛を起こして低く
「じゃあ、此処は殺し屋の事務所なのか?」
「そうだよ」
あの時、金髪の男は死んでいた。
殺し屋ということは、つまり。
「お前があの男を殺したのか?」
あの男の眉間には穴が空いていた。銃痕だったのか。
その前に聞いた空気の抜けるような音は銃声だった?
もう訳が分からない。
立花は困ったように頭を掻くと、
「何か言い残すことは?」
「はあ?!」
思わず腰を上げようとしたが、体が
「こいつは知る必要のないことを知った」
「Stop it, he's my friend」
「引っ込んでろ」
立花が冷たく突き放す。
ミナが自分を助けようとしてくれていることだけは、分かった。翔は軋む脇腹を押さえながら
「他言はしない! 絶対だ! 例え誰に脅されても――」
暗い銃口が真っ直ぐに翔を
昨夜、銃殺された男の姿が脳裏を過ぎり、翔は酷い結末を想像せざるを得なかった。
立花は、短く言った。
「無理だ。俺にはお前の覚悟を測れない」
銃口から逃れる術は無かった。
此処で死ぬ。殺される。こんなところで死ぬ訳にはいかない。その為に生きて来たんじゃない。
何か、何か無いのか。
この絶体絶命の
指先が引き金を引くのが、コマ送りに見えた。
不意に、ミナと目が合った。透明感のある奇妙な眼差しは、今は泣き出しそうに
ああ、あれは、誰だ?
思い出せない。だけど、知っている。
覚えている。――そうだ。俺には、妹がいたんだ。
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